旅館の夕食
トモルは夕方頃には調子を取り戻し、伊東に手伝わせて大浴場へ行った。
神白はひとりで部屋に残り、久しぶりにダラダラとスマホを眺めて過ごした。
その後、夕食の時間には鍋や刺身が部屋に運ばれてきた。かなりの品数と量だ。ここまでいらないから、もう少し料金が安くなるプランは無いんだろうか、と神白は思った。
伊東はさっそく瓶ビールを一本空にして、日本酒を飲み始めた。
味わっているようには見えない。ただ、顔色ひとつ変えず、次々と口に入れていく。
「ねえ伊東君。これ、飲み放題じゃないんだよ」神白は一応、警告した。「君が飲んだ分は君に出させるからね」
「秋田まで来て酒飲まずに帰るとか、あり得ないでしょ」と伊東は言った。「ここらは酒が主食だぞ。なんで君たちは発酵してない米なんか食ってるの? 馬鹿なの?」
神白もトモルも、最初に出されたビールに少し口をつけただけだった。
「けど、米だって美味しいよ」とトモルは言った。
顔色が良くなり落ち着いていたが、やはりそれほど食欲は無さそうだった。単に鎮痛剤が効いているだけなのかもしれない。酒が進まないのも、薬との相互作用を避けたいからだろう。
外は徐々に風雨が強まり、騒がしくなっていた。大きな雨粒がときどき勢いよく窓に吹き付けられ、打楽器のような音を立てた。
「ああ、暇だな」と、トモルは言った。「伊東君、何か一発芸をしろよ」
「嫌だよ」
「おい。一瞬、考えるふりくらいはできないのか。なぜそう可愛げが無いんだ」
「酔ってないのに絡まないでくれる? あ、刺身残すの? もらっていい?」
伊東は既にほとんどの皿を空にしようとしていた。
「まだ、食べてるんだけど」
「食べてないじゃん。ホタテもらっていい?」
「勝手に取ったら、殴るぞ」
「食べ物で争うのはやめろ」と神白は言った。「伊東君、僕のはあげるよ。イカ食べない?」
「え、あ、いいの?」伊東はすぐに皿ごと受け取った。
「その細い身体のどこに入るんだろうな」と、トモルは言った。「おかしくないか? 何にカロリーを消費してるの?」
「頭を使ってる」伊東は言いながら、後ろ手に手を伸ばし、テレビの脇に置いてあるレトロなプッシュホンの受話器を取った。追加の酒を注文するようだった。
「アキちゃんは、ワニの写真撮らなかったの」トモルが聞いた。
「ああ。そんな余裕は無かった」神白は思い出してまた溜息をついた。
伊東がユウちゃんを撮っていたことのほうが驚きだ。あの状況でスマホを出そうという神経がわからない。最初に洞窟に入ったときもそうだったが、怖いもの知らずというよりは何かが麻痺しているというか、それこそ映画でも見ているような態度なのだ。
「え、電話くれたとき、追われてたの? 『ユウちゃん』に」
「そう。死ぬかと思った」
「死ねば良かったよな」トモルは笑った。「たぶん今後ロクでもない死に方するよりは、よっぽど綺麗な最期だったぜ」
「まあそうだろうけど」
「そうだろうけど、じゃないよ。否定をしろ」
「いや、でも、食われるというのは悪くないかもな。少なくとも、食った相手の役に立つわけだから」
「食事中に何の話なの」電話を終えた伊東が振り向いて、嫌そうな顔をした。
「……『村おこし』はどうなるんだろうな」と、トモルは言った。「ワニを客寄せに使うとしても、当の飼い主は撃ち殺す気なんだろう?」
「まあ、虫のいい話だよね」伊東は言った。「ほんとに村のアイドルとして使う気ならあのワニを村で買い取るべきなんだよ。それをしないで、あくまでも個人に責任を負わせながら『看板にだけ使わせろ』では、あの子も愛想を尽かすわけだ」
「けど、借金までして……」神白は道の駅での男たちの言い争いを思い返した。「そういえば、借金で何を買ったんだろう?」
「いや、僕の予想では、これは自転車操業ってやつじゃないかと思う」と伊東は言った。「最初に怪獣屋さんに払った金が、借金でかき集めた金だったんじゃないかな。で、ショーで人目が集まったら、その時点でクラウドファンディングをして、観客から金を集め、最初の借金を返済して、その後、この村への観光客が来るから、その儲けでひとしきり良い思いができるという……」
「皮算用にもほどがあるだろ」と、トモルは言った。
「ああ、でも、うん、そんな感じかもな」
神白は過去に仕事上で目撃した様々な顧客トラブルを思い返した。かなり理性的なはずの人間でも、儲けに対する見込みはとんでもなく甘いことがある。そうやって「目が眩んだ」状態の相手には現実を説いて聞かせても無駄で、実際に首が回らなくなるまでは止まらない場合が多い。
「結局、儲けたのは金貸した連中だけか。怪獣屋さんのほうもあれじゃ採算は取れないだろう。初仕事としてスタートダッシュにはなっただろうけど、全部経費で消えるだろうな……」
「そこを君の会社が巻き取ってうまいこと吸い上げてしまうんだろう」伊東はニヤニヤ笑った。「もう少し強気で行け。彼、だいぶ君に気を許してるじゃないか。今ならかなり一方的な奴隷契約を飲むかも知れないぞ」
「うちの会社をなんだと思ってるの、君は」
「いいじゃないか。金儲けにはずるさが無くちゃ」
「いや、ずるさより信用だよ……結局は」
女将が追加の酒を持ってきた。先ほど3つ持ってきたお猪口がひとつしか使われていないのを見て、「ソフトドリンク、ございますよ」と言う。「ジュース。オレンジ、コーラ、カルピス……カルピスはソーダにもできます。あと、ノンアルコールビールも」
「ああ……」何か頼まなきゃいけない雰囲気か、と神白は口を開きかけたが、
「水ください」とトモルは言った。「ふたりぶん」
「ああ、水、お持ちしますね」女将は頷いて、それから伊東のほうへ、「あのね、お好きなら、『利き酒』ありますよ」と言った。「飲み比べセット。3種類、一杯ずつね。人気なんですよ」
「ああ……いったん大丈夫です」伊東はとっくりを持ち上げ、無造作に自分のお猪口に注いだ。「これ飲み終わったら、考えます」
「君の飲み方じゃ味もへったくれもねえよな」と、トモルは言った。「水みたいに飲みやがって」
「飲まない人に言われたくないよ」
防災無線の間延びしたチャイム音が聞こえてきたのは、女将が下がった直後だった。




