過去の爪痕
トモルが住所を報せてきたのは、澤久間村と隣の市との境に建つ小さめの旅館だった。ビルというよりは校舎のような横長の建物で、元はレンガ調だったらしい外壁はだいぶ汚れて色褪せていた。
入るとすぐ目の前がフロントのカウンターで、そこは無人だった。
少し左手に、ロビーというほどでもない小さな休憩スペースがあった。家庭用のテレビと、背もたれの無いソファが2台置かれている。その端で、木下が缶コーヒーを飲みながらタブレット端末を眺めていた。
「ああ」木下は神白と伊東を見て人懐こく笑い、立ち上がった。「おかえり。ワニどうなった?」
「とりあえず、巣に逃げ帰りました。……木下さんも今夜はこちらに?」
「いや、俺はもう抜ける。次の『上映』の準備があるから、そろそろ仲間と合流しないと。今、タクシー待ってる」
「あの……すみません」
よく考えると、完全にトモルの世話を木下に押し付けた形だ。この宿を決めて車を動かしたのも、チェックインの手続きをしたのも、結局は木下だったのだろう。トモルはひとりで放り出されれば自分でなんとでもするが、側に手伝いを申し出る者がいれば決して遠慮はしない。特に今回は自力で動けない形の車椅子で来ているから、相当図々しかったに違いない。
「本当に、申し訳ありません」と神白は言った。
「君の弟さんは面白いね」木下は笑った。「けっこう性格違うんだ?」
「ええ、まあ……そうだと良いですが」
「たいして違いませんよ」と、伊東が横から混ぜ返した。「こいつが猫かぶってるだけです」
「どうかな、いや、だいぶ面白かった」
「何を話したんです?」伊東が聞いたが、
「そんなん俺と彼だけの秘密だ」と、木下はとぼけたように言った。
だいたい内容は想像がつく気がして、神白は苦々しい気分になった。
そのまま少し待ったが、カウンターには誰も戻ってこなかった。神白と伊東が合流することは宿側に伝えてあるようなので、このまま部屋へ向かってしまうことにし、木下とはそこで別れた。
部屋は10畳の和室だった。
正面の窓はカーテンが閉め切られ、トモルは薄暗い部屋の隅に布団を敷いて潜り込んでいた。
声を掛けても返事が無い。しかし枕元まで近づいてみると、トモルは布団の中でスマホをいじっていた。
「起きてたの」神白は立ったまま弟を見下ろした。
「……何か言うことがあるだろ」トモルは振り向かずに言った。ものすごく冷たい口調だった。
いつものことだが、また身体のどこかが痛いのだろう。
「何かって?」と神白は言った。
「あ? 無いの?」
「さっきはありがとう」と神白は言い、そのまま返事が無いので、「……ございました」と付け加えた。
「それだけ?」
「あー……すいません」
「ムカつく」トモルはスマホを下ろして急に上半身をひねり、振り返った。「アキちゃん」
「なんでしょう」
「お前ムカつくぞ。死ね」
「もうちょっとボキャブラリーを増やしてくれませんか」
「トモ君、具合悪いの?」伊東が遅れて近づいた。
「別にいつも通りだよ」
「え、大丈夫?」伊東は布団の脇にあぐらをかいて座り込み、わりと優しい口調で言った。「トモ君、何かいる? 買ってきてあげようか?」
「うるせえ」
「遠慮するなよ。アイス? 奢るよ? ハーゲンダッツ以外ね」
「うるせえ」トモルは再び背中を向けて布団を頭まで引き上げた。「アキちゃん、なんでこんなうるせー奴連れてくるんだ。死ね。マジでうるせえ」
「え、何、拗ねてるの? なんで? アイスじゃなくて、ポテチのほうがいい?」
伊東は面白がっているような口調で、布団に身を乗り出して更に重ねた。
「トモ君、機嫌直せよ……ワニの写真撮ってきてあげたよ。見る? 動画もあるよ」
「伊東君。見て分からないのか、僕は今寝てるんだ」
「なんで寝てるの? 具合悪いの? あ、知恵熱?」
「その減らず口を閉じろ」
神白はトモルの相手を伊東に任せて、汗だくの服を浴衣に着替えた。あとで、洗濯をどうするか考えなくては。
地下に大浴場があるようだった。昼食を食べそこねたまま午後になっていたが、今はまず汗を流したかった。伊東に声をかけようとして振り返り、神白は思わず躊躇った。
彼が一緒に来ると言い出したら?
伊東の背中の傷跡を直視できる自信がない。
そんなことを考えてみたことも無かったので、自分の思考に驚いてしまった。
浴衣と一緒に置かれていたタオルを一枚掴み、黙って部屋を出る。
館内はどこもかしこも静かで、誰とも出会わず、人の気配もなかった。
浴場にも先客はひとりだけ。見ていてこちらが不安になるほどよぼよぼの老人だった。
なぜ、責任を感じている?
洗い場に向かいシャワーを浴びながら、ずっと思考が、まとまらない。
気にしすぎだ。あれは事故のようなものだ。しかも神白は、その場にいたわけではない。
まったく無関係なのだ。
予測できなかったし、防ぎようもないし、それに、あれは結局のところゾンビの被害ですらない……
だが、直感的に湧き上がってくるのは胸が重苦しくなるような罪悪感だった。
自分のしていたことの報いが、伊東に返ってきた。よく考えずにのめり込み、そして身勝手な理由で、けじめもつけずに、手を引いたから。違う、関係ないはずだ。それに、他にどうしようもなかった。あれで限界だった。いや、それは言い訳だ。甘く考えていたのだ。
自分がどんなことに手を染めようと、その報いを受けるのは自分だけだと思っていた。そしてそれを受け入れられる自信があった。だから何も怖くなかった。
結局、トモルの負った怪我のことで学んでいなかったのだ。いつだって傷つけられるのは自分ではなく、自分以外の誰かなのに。
「されたこと」に対して、憤ったり恐れたりする資格がおれにあるのか? それはまさに自分が、何年にも渡って当然のように「してきた」ことではないか。
ぼんやりと考え込んでしまい、長く湯につかりすぎた。頭がくらくらするのを感じながら脱衣所に上がり、浴衣を着直して廊下に出たところで、向こうから来た伊東と鉢合わせた。
「あ、そこにいた」
伊東は着替えておらず、しかも手ぶらだった。神白を探しにきただけのようだ。
「もう入ってきたの?」
「ごめん」と神白は言った。
伊東は黙ってまたよくわからない薄い笑みを浮かべた。
「……ああ、百円ね。百円は後で払うけど」
「いや、なんで」伊東は更に笑った。「なんで謝ったの?」
「……誘えばよかったと思って」
「ああ。いや、僕は夜に入る。……どうしたの?」伊東は少し真顔になって聞いた。「何かあった?」
「うーん、何も」
急激に全部吐き出してしまいたくなる。全部、思っていること、言ったらきっと泣いてしまうだろう。またウザいって言われるんだろうな。
「飯行こうよ」伊東は言った。「トモ君やっぱり食欲も無いし、寝てたいって……どうせだからトモ君がいると行けない店に行こう。階段百段くらい登らないと入れない蕎麦屋とか」
「はあ。そういう基準で探して見つかるかね……」
「ほんと元気ないよ。大丈夫?」上りのエレベータに乗りながら、伊東は言った。「僕で良ければ、聞くよ?」
「いや、昔のことを……」昔のことではない。どちらかと言えば、今のこと。「……伊東君、背中痛くない?」
「背中?」伊東は一瞬、本気でわかっていない顔で聞き返し、それから急にニヤニヤと笑った。
「なんだよ。何その笑いは?」
「いや、全然。全然だよ。痛くないし、これ以上何もない。ほんとはさ、傷跡を消す手術ができるって言われたんだけど、面倒で、断ってしまった」
「面倒って……。いいの?」
「だってさ、手術なんかしたら、また痛いじゃん? 麻酔かけるにしたって、麻酔が痛いじゃん? で結局のところ、綺麗にしたところで誰が見るんだよって話だし」
「いや、目立つだろう……こういう、温泉みたいなところとか、海とかプールとかさ……」
「誰も見ちゃいないって、男の背中なんか。見るか? いや、そもそもそんな遠目にはっきり見えるような跡じゃないんだよ。気にするのは自分だけだし、自分で自分の背中は見れないし」
エレベータが止まり、細い通路へ出る。窓の外に見える空は、朝よりもかなり雲が増えていた。しかし曇天と言えるほどではない。風もほぼ無さそうだ。遠藤はこのあと嵐になると言っていたが、今のところあまり現実味がなかった。
「伊東君はつよいな」と、神白は言った。
「まあアキちゃんは弱々しいからな」
「そうか。僕、弱いのか」
「そう思わない?」
「うーん。思ったことないけど」
部屋に戻ると、トモルはスマホを握ったまま眠っていた。やはり体調は悪そうだ。
浴衣を、綺麗なほうの服に着替え、汗をかいたほうは袋に詰める。外でコインランドリーが見つかったら、そこで洗ってしまおうと思った。
物音を感じたのか、トモルが目を開けた。「出かけんの?」
「昼飯。お前は?」
「寝てる」トモルはかなり苦労して寝返りをうち、うつ伏せになった。「ポカリ買ってきて。あとロキソニン」
「薬、切らしたのかよ」
「普段のぶんじゃねえよ。頭痛いんだ。黙って買ってこい」
「はいはい」
「マジでムカつく」
「勝手に来ておいて、勝手に怒るなよ……」
「てめーが家出するからだろうが」
「君たち、まだ喧嘩すんの?」と伊東が言った。
「おい、伊東、おめーもだぞ」トモルは枕に顔を半分押し付けたまま唸るように言った。「何が怪獣だ。人の気も知らないで。全員ぶっ殺してやる。ワニの餌になりやがれ」
「八つ当たりはやめろよ」神白は呆れて言った。「頭の他には、どこが痛いの」
「全部だよ。いいから言ったものを買ってこい」
「今から、家まで送ってやろうか?」
「いちいち家に帰らせようとすんな」
「だって、帰るか黙るかどっちかにしろよ……理不尽すぎるだろ」
「うるせえ。文句あんのか。いい気になるなよ。五体満足だからって!」
部屋の戸を閉める直前まで、罵声を浴び続けた。
「いつもあんななの?」伊東が聞いた。
「日による。というか、時間帯による」
実際、トモルの不調の波は数時間で嘘のように引いてしまうことも多く、一時的につらくとも帰宅はしたくない、という気持ちはわからないではなかった。
「兄貴は大変だなあ」と伊東は他人事のように言った。
「まあ、結婚して自立してくれるんならこっちもありがたいよ」
「あの調子じゃ、嫁さんが君の代わりになるだけなんじゃ?」
「どうなんだろうね。何度か会ったけど、どういう人なんだか」
「え、どうなの? 美人? かわいい? 年下? 年上?」
「興味を持つなよ……すごくかわいいよ。同い年だと思う」
「はあ。いいな。かわいい嫁さんか。君には縁が無さそうだな」
「………」
「言いすぎた」
「言う前に、気付いてください。口に出す前に」
エレベータで地上へ降りる。フロントは相変わらず無人だった。これで経営できているというのが不思議だ。田舎だからというだけではなさそうだが、少なくとも都会にはあり得ない鷹揚さだ。
外の空気に当たると、急に猛烈な空腹を感じた。
「なんか腹減ったな」と伊東も言った。「もう最初に目に付いた店でいいような気がしてきた」
「その基準だと、きっとセブンイレブンになるよ」
「コンビニ以外で」
「だとしてもサイゼとかになる」
「もういいんじゃないのそれでも。だって君、結局金無いじゃん?」
「ああ……忘れてた。ていうか伊東君が奢ってくれるわけじゃないんだ」
「え? ああ、そういうこと言うんだ……」
車に乗り込みながら、神白はふと脈絡もなく、まだ生きていたいな、と思った。もうこれで出尽くしたかと思うたびに、間を置いてまた、そう思ってしまう瞬間が訪れる。今日だけ、明日だけ、今週だけ……と。
そういうことの繰り返しなのかもしれないと思った。




