一騎打ち(後)
姿は大半が隠れているが、隠れきっていない部分、大きな足と、顔の一部、隆起した背中が、風景に同化している。
森で出会う生き物の、この擬態の能力には本当にぞっとする。
ひと飲み。ひと飲みだろう。こうして水場で待ち伏せ、喉を潤しにきた「餌」を狩る。かれはやはり本物のワニで、どれほど長く人の手で飼われてもその本能は失われず、もしくは、あの洞窟に雪のさなかに捨てられたときに、野生を取り戻してしまったのだろう。生き延びるためだ。
「射程」に入っている?
神白はまだ木陰から泉に向かって半歩出ようとしたばかりだった。大きな目との距離は、まだ5メートルはある。
だが、ワニという生き物にどれほどの機動力があるのか予測がつかない。少なくともこの「ユウちゃん」にとっては、神白はいま、かれの全長の半分ほどしか離れていないのだ。それにかれはこの「人間のかたちをした餌」を非常に食べ慣れている。人体の動きの癖や速さ、限界を知り尽くしているのだ。
伊東にメールを……無理だ。不用意な動きをできるわけがない。もしここが「射程」内なら、いずれにしろ神白はもう死んでいる。何をしても助からない。相手は気づいている? もちろんだ、狩場に踏み込んだのだ。待ち伏せをされたのは自分なのだ。
これがワニの狩だ。
神白は音を立てないように、ゆっくりと老木の後ろに下がった。一歩、二歩。
ユウちゃんは微動だにしなかった。完全に置き物のようになって、風景に溶け込んでいる。
三歩。
目を合わさないように、しかし視線は逸らさないように。
まだ動かない。とりあえず「射程内」ではないのかも。それは希望的観測か。まだ生きている? おれはまだ命を失っていないか?
四歩目を大きく取り、思い切って背を向けて元の道に駆け戻る。
このまま見逃されるなんてことは甘い夢でしかない。神白は間髪をいれず加速した。一呼吸おいてから、ざわっと激しい音を立てて笹薮が割れる気配。振り向くな。まだ命を取り戻していない。足の速さで勝てるのか。爬虫類って走れるんだっけ?
脳裏に、家の裏でよく見るカナヘビの動きがよぎる。あのスピード感だと、絶対に勝てないぞ。大丈夫なのか。突き出した木の根に足を取られそうになり、全身に汗が噴き出す。もう、今、リーチなのだ。あとひとつのミスで死ぬのだ。もしくはミスをしなくとも死ぬのだ。
道は緩やかな下り。走るのは楽だった。だがそれは相手にとってもそうだということだ。畜生、ここまで来るのに何分かかった? 15分、20分……そんなに走り続けられるか。この速さで。
ちらりと、一瞬だけ後ろを見る。ユウちゃんは間違いなく追ってきていた。道幅を埋め尽くす巨体。いかにもな日本の夏の森に、まったく似合わない南国の怪物。かれはこの土地の生態系に属していない、孤独な侵入者だ。つまり、その点では神白の同類だった。
スマホを出してみるが、画面を見る暇がない。どうにか受話器のアイコンを押す、押せているのか。電話、掛けないほうが良いのでは? もしこれで速度が落ちたら……だが伊東たちを危険に晒すわけにはいかない。遠藤の準備は終わっているのだろうか。
「なんだよ」
最初に目に付いた履歴にかけたら、トモルに繋がった。木下リーダーじゃなくて良かったな、などと奇妙に現実的なことを思う。
「ごめん、伊東君に」神白は足を緩めないように強く意識しながら、頭に浮かんだ言葉を並べる。「電話。すぐして。今、向かってる、と」
「はあ?」
「早く!」神白は怒鳴って電話を切った。
あとでぶん殴られそうだな。「あと」まで生きていたらの話だが。
道が上りに転じる。耐えられるのか? もっと走り込んでおけば良かった。体力を保つために何かしらしていれば良かった。食事も気をつけていれば良かった。それにワニの習性や能力を少しでも調べておけば……伊東のように、スマホで何か調べておくくらいのことは、ここに来るまでのわずかな時間でも、できたのに。しておけば。
思考がぐずぐずと崩れ始める。諦めそうになる。疲れ。集中と体力が続かない。人間の身体は本当にやわい。死ぬんだぞ。今、息が上がってしまったら、死ぬ。死ぬのに。
木漏れ日が弱まり、急に辺りが暗くなる。日が陰った。雲が増えている?
ポケットに戻したスマホが振動し始めたが、取る余裕は無かった。伊東だろうか。
最後の下り坂。もう間もなく、獣道の終わり、廃屋と洞窟の入口が見えてくる。走り切れたことに、安堵する。
「アキちゃん!」
獣道が終わる直前のところで、伊東の強く呼ぶ声が、道を外れた方向から聞こえた。
振り向いても、深い藪しかない。
しかし神白は迷わずそこに飛び込んだ。
藪の向こう側には下草を踏みしだいて足場が作られ、遠藤が長い猟銃を岩の上に立てて構えていた。
銃口が正面に見える。腹の底が重苦しく冷えるような、不吉な恐怖をおぼえる。遠藤の言う通りだ。銃口が自分に向くなんて、とんでもないことだ。甘く考えていた。
伊東の細腕に引き止められ、神白は自分がまだ走ろうとしていたことに気づく。
立ち止まることに恐怖しか感じず、滝のようにまた汗が噴き出す。
「アキちゃん? 大丈夫? 落ち着いて」
おれは落ち着いてる。
ここにいたら全員、食われるぞ。
立ち止まってしまった。追いつかれてしまった。
だから、もう、死んだのかもしれない。
「アキちゃん」
伊東が両肩をつかんで覗き込んできた。呑気だな、と思う。
もう死んでるのに。
唐突に、笑いがこみ上げてきそうになる。口を開くが、荒い吐息しか出ない。思ったよりもずっと、消耗している。何か言わなければ。何か。
木々の壁を勢いよく掻き分け、ユウちゃんが顔を出した。
無邪気な無表情な顔、巨大な湿った顔が3人を覗き込み、
そして現れた時の倍の速さで引っ込んだ。
「えっ?」
遠藤は猟銃を構えたまま、ユウちゃんの消えた方向へ、平然と追って行く。
危ない、と思い、神白も無意識にそちらへ向かった。
3人が藪を分けて元の道に戻ったとき、ユウちゃんはもう洞窟の入口に向かっていた。
遠藤が先導する形で、岩壁のある広場に戻る。
ユウちゃんは驚くほどの身軽さで、横倒しになっていた鉄柵を乗り越え、洞窟に潜り込んだ。その長い尾がすっぽりと暗闇に消えるまで、数秒と掛からなかった。
「早い……」伊東が感心したように呟いた。「むちゃくちゃ早い。そしてデカい」
「なんで?」と、神白は言った。「なんで僕たち食われなかったの?」
「これを見たからです」遠藤は銃口を上に向けるように持ち直し、小さく溜息をついた。「前に撃たれています。役所の人が、専門家を連れて確認に来たとき。ユウちゃんが暴れたので、念のためにと一緒に入った猟友会の者が、ユウちゃんの足を撃った。それでますます手がつけられなくなった。もう人間を信用しない。ワニは賢いんです。一度撃たれたら、忘れない」
「まあ一騎討ちになるよりはずっと良かった」伊東はまだ洞窟の入口をじっと舐めるように観察しながら、だいぶ苦々しい口調で言った。
「……ユウちゃん、森で何か食ってましたよ」神白は言った。「狩をした跡があった。かなり大きい獣を獲ったらしい」
「たぶんカモシカでしょう」と遠藤は言った。
「アキちゃん。大丈夫か」伊東がまた聞いた。
「ああ」神白は、自分の身体が雨を浴びたように濡れているのを感じた。ひと夏分の汗をかいた気がした。「ゾンビよりは、だいぶスリリングだな」
「あの柵はどうするの?」伊東は遠藤に向かって聞いた。
「また立てて、固定します。……まあ無駄でしょうけど」
「また出てきちゃうじゃん」
「次出てきたら駆除ですよ」遠藤は言った。「ここで毎日見張ります」
「え? 寝ないで?」
「夜は気温が下がるので、ユウちゃんはどうせ動けないんです。昼間の数時間だけです。それも、あと2、3週間もすれば無理になる。ここらでは盆を過ぎれば秋なんで」
伊東は黙って、小さな溜息をついた。
「ご存知だと思いますが、今夜、嵐ですよ」と遠藤は言った。「台風が来てます。ここに来る頃には、温帯低気圧になるでしょうけど」
「じゃこのあと、どうするんです?」神白は聞いた。
「あなたがたはタクシーでも呼んで帰ってください。ボクは夕方までここで見張って、あと雨が降り出したら引き上げます」
言い返されそうな気配を感じたのか、遠藤は少し早口になって、
「猟友会にも要請は出してます。もうすぐ合流します」と言った。
伊東は少しの間、神白の顔を眺めてから、「僕たちはいったん引き上げよう。……トモ君が心配だ」と言った。




