ハンターの出発
「逃げた?」木下が素っ頓狂な声をあげた。
「村の連中を見てませんか? あれ、林田さんの車っぽいけど…」彼女は駐車場を振り返った。
「原山さん達なら、中にいるけど。え、逃げたってどういうこと?」伊東が聞いた。
「どういうこと、も何もないです。『裏口』の鉄柵を破られました。だから早く完全に塞いでしまいたかったのに……まだ、山の中です。ただ、このあと里に下りてくるかもしれない。放送が聞こえませんでしたか?」
「放送?」
「防災無線で、屋外に出ないように呼びかけがあったんですが。やっぱり聞こえてないですね」彼女は溜息をついてから建物のほうへ駆け出した。
「え、なんかすごくヤバイやつじゃない?」トモルが言った。「外を好きに歩き回ってるってことでしょ?」
「遅かったか」伊東は舌打ちしながら、また自分のスマホに何かを打ち込み始めた。
神白は少し考えてから、走って彼女を追った。食堂の入口をくぐったところで追いつき、思わず勢い込んで声を掛ける。
「あの」
「なんですか?」彼女は素早く振り向いた。
「どうするつもり?」と、神白は聞いた。
「何が」
「どうするんです? 屋外に出ないようにして、ただ待つってこと?」
「追い返しますよ」彼女は淡々と言った。「洞窟に戻らせます」
「そんなことができる?」
「できなければ、道はひとつです」
「ユウちゃんを駆除する? けど、どうやって……」
「方法はあります。ボクはこの一年、手をこまねいていたわけじゃないんですよ」彼女は静かに言った。「とにかくあなたがたは、よその人だから、もうここを離れたほうがいい」
彼女は、神白を振り切るように食堂へ入って行った。
4人の男たちは、席から立ちあがりそうな勢いで、まだ言い争っていた。
「何も金儲けをしようって話じゃなかっただろ。ハヤちゃんひとりにあれを押し付けとくのは、違うだろって話、いいか…」
「でも現に金がなきゃ、何も…」
「みんなで出し合うんだよ。だってこれはみんなの問題だろ。ハヤちゃんはそもそもこの村の人間じゃないんだぞ」
「俺たちべつにあれの恩恵を受けてたわけじゃない、こっちだって被害者だ」
「何が被害だ! なんもしてこなかっただろが。なんもしないで、みんなで放ったらかしてた結果が…」
「落ち着いてくださいよ、今話してるのはそのことじゃなくてね…」
彼女が近づいていくと、男たちは全員、ばつが悪そうな顔で黙った。
「ボクに聞いてくれましたか」と、彼女は言った。
静かな口調だった。
「ボクがどうしたいか、どう思ってるか、どうするつもりか、聞きにきてくれましたか。聞きに来たら、答えたのに」
4人の男たちは、それぞれ何か言いかけるそぶりだったが、結局何も言わなかった。
「どうするんですか?」追いついた神白は、もう一度聞いた。
彼女は無視して、「ユウちゃんが逃げましたよ。防災無線がかかってます」と言った。
「逃げた?」原山が、ガタっと立ち上がった。「どこに? どうして?」
「まだ山の中ですが、このあと里に下りようとすると思います」
「なんで……一体、だって……」
「お腹がすいたんでしょう」彼女は言った。「待たせすぎた。でもこれで最後の法的根拠が揃いました」
「法的……」
「お伝えしましたからね。屋外に出ないでくださいね。あなたも」彼女は神白を睨むように振り返った。「ここを離れて」
「……帰るわけないでしょう」神白は素早く考えてから、言った。「山に入るつもりなら、僕も行きます」
「困ります。邪魔ですよ」
「僕は山を歩けます。慣れてます。ずっとやってきたことです。ずっと……」
苦い記憶だった。
そのときは夢中だったから、何も感じなかった。
山へ入り、道なき道を渡り、武器を持ち、「敵」を探す。
先を見通せない森の中で得体の知れない怪物と戦うのは怖かったが、もっと恐ろしいものがあった。
静寂と、孤独だ。
森はいつも沈黙していた。視界を埋め尽くす無数の命、樹木や獣や虫や、土や石や、細い川や、雨や、日差しが、風が、そのすべてが自分の味方ではなかった。
森は中立だ。自然は中立なのだ。
自分が死んでも、「敵」が死んでも、相打ちで斃れても、両方が生き延びても。
森は何も言わない。寄り添わない。悲しみも怒りもしない。
彼らにとっては、すべてが当然のことなのだ。
「あなたに仲間がいないのなら、僕が立ち会います」神白は言った。「ユウちゃんを撃ち殺すんですね。道具はあるんですか?」
「……ありますよ。用意に1年かかった。法律が厳しくて。それでもゾンビのおかげでだいぶ緩くなったらしいですが」彼女は無表情のまま、少し考えてから、「手出しは無用ですよ」と言った。
「もちろん、僕は、銃器の免許は無いですし」
「急がないと」彼女は唖然とする男たちのテーブルに背を向け、大股で食堂の出口へ向かった。
「ここらへんには、猟友会は無いんですか?」神白は追いすがって聞いた。「プロに頼んだ方が良かったんじゃ……」
「ボクがしなければ駄目なんです」彼女は振り返らず、足も緩めなかった。「それが飼い主のつとめです。本当は祖父がしなければならなかった」
「それは、法律上ですか?」
「違いますよ。ユウちゃんのためです。ねえ、ワニは馬鹿じゃないんですよ。自分が意味もなく理不尽に殺されるときに、その相手がまったく知らない敵か、自分を育てた身内か、では全然違うと思いませんか? 言ってること、わかります?」
どうだろうか。他人の方がマシではないのか、という気もして、神白は答えられなかった。
広場に戻って来たふたりを見て、スマホから顔を上げた伊東は一瞬だけ動きを止めた。「……あ、もしかして君、出かける?」
「彼女と山に入る。ユウちゃんを駆除する」
「あそう……止めても無駄っぽいね。行ってらっしゃい」
「一緒に来てくれる?」神白は伊東の腕をつかんだ。
「駄目です」停めっぱなしの軽ワゴンの運転席に入りながら、彼女が鋭く振り返って言った。「その人は山を歩けないでしょう」
「大丈夫。足は引っ張りません」
「電波が届くなら、行ってもいいよ」と、伊東は言った。「その山、電波ある?」
「乗るんですか、乗らないんですか」彼女は勢いよくドアを閉め、開けはなした窓からいらいらした声で叫んだ。「電波は弱いですよ」
「届いているなら行く」伊東は後部席のスライドドアを開けてすぐに乗り込んだ。
神白もステップに足を掛けながら、ベンチに座って黙っている木下と、トモルを振り返った。
「じゃあ、あとよろしく」神白はトモルに向かって言った。
「鍵を置いてけ。車の」と、トモルは言った。
神白は伊東から取り返したキーを投げた。トモルが受け止めそこねたので、木下が腰を浮かせて拾った。
「木下さん、すみません。えっと、また後日……」
「あとで電話する」木下はスマホを持っていた右手を上げた。彼は真面目な顔をしていたが、どこか笑い出しそうな表情でもあった。「気を付けてな。無茶するなよ。早めに戻ってね」
ドアが閉まるのを待たずに彼女が発進してしまったので、それ以上の会話はできなかった。
後部席は座席がすべて跳ね上げてあり、完全に荷台と化していた。段ボールやミニコンテナ、各種のアウトドア用品のようなものが雑然と詰め込まれている。神白と伊東はどうにか荷物の隙間に自分たちの場所を確保した。
彼女は無言だった。車はかなりの速さで、川沿いの細めの道を進んでいく。
「名前、何ていうの」伊東は運転席の方へ振り向いて、急に聞いた。
「遠藤です」彼女は短く言った。
「『ハヤちゃん』じゃなくて?」
「あなたは何て言うんですか」と、彼女は切り返した。
「僕は伊東。こっちはアキちゃん」
「神白です」と、神白は急いで付け加えた。
「そうですか……神白さんは、山が好きなんですか?」遠藤はすごく興味が無さそうに聞いた。
「いえ、全然。実家の回りは、山ですが」
「あなたは何者なんです?」
「うーん、別に、何者ということも……」
「アキちゃんはゾンビハンターだよ」と、伊東は言った。「地元の自警団のリーダーだったんだ」
「そう……全然、そう見えないですね」
「僕が何者なのかは、聞かないの?」伊東は面白がるような口調で聞いた。
「そうですね」遠藤は平坦な口調で、「見れば、だいたいわかりますから」と言った。




