呑気な朝食
ともかく、宿に荷物を残しているので、いったん引き上げなければならなかった。
神白は伊東からキーを取り返し、運転席に入った。トモルの顔色が冴えないのが気掛かりだった。
半身不随になってからは、トモルの身体はトラブルの連続だった。ちょっとしたこと、ごく当たり前の日常生活の中で防ぎようもない小さなきっかけで、常にあちこちが痛み、熱を持ち、雑菌に侵される。感染に対する抵抗力も、明らかに落ちていた。脊髄を損傷したことだけが原因とは言い切れない不調もあった。トモルは家族の誰にも話さないが、不定期に抗不安薬をもらっていることを、神白は知っていた。
車は冷房が効いていたが、トモルは助手席の窓を細く開けて、風を入れながら外の景色を眺めていた。
「大丈夫?」神白は後部席の伊東に聞かれない程度の小声で、トモルに聞いた。
トモルはしばらく無視していたが、やがて溜息をついて、「明日」と言った。
「明日、迎えに来てもらうから」
「中寺たちに?」
「ルイさんに」トモルは婚約者の名前を言った。
「そんなの悪いよ、それなら、僕が送ってくから……」
「うるせーな」トモルは少し語調を強めた。「口出しすんじゃねえ」
「なに、また喧嘩?」伊東が後ろから身を乗り出して言った。
「こいつマジでムカつかないか?」トモルは伊東に向かって聞いた。
「え?」伊東は彼らしくないヘラヘラとした笑い声を上げた。「僕はそれ、何て答えればいいの?」
「ムカつくよなあ」神白は言った。「ね、伊東君、トモ君ってものすごいムカつくよね」
「そうだね」伊東はすぐに言った。「だからこいつを早く放り出そう」
「なんでだ」トモルは大袈裟に溜息をついた。「なんで伊東君は結局いつもアキちゃんの肩を持つんだよ? おかしくない? これ、ズルくない?」
「そりゃ、あとあとの保身を考えれば当然でしょ」伊東は元気よく言い返した。「アキちゃんを怒らせると地の果てまで追ってくるけど、トモ君はせいぜい段差の手前までしか追ってこれないだろ」
「お前さあ、そういうことをさあ、よく平気で言えるよな」
「ああ、ごめん、気にしてたんだ?」
「ムカつく」
「いいから、朝ごはん決めてよ」と、神白は言った。「あの宿はもうチェックアウトするから、近辺でこの時間に何か食べられるところで、トモ君が入りやすいところで、高くないところ。探して道案内してくれる?」
「それ、おれに頼んでる?」と、トモルが聞いた。
「そりゃそうだよ、お前の身体が基準なんだから」
「いちいちさ……」トモルはスマホを出しながら言った。「いちいち、言い方が不愉快なんだが。お前たちふたりともだぞ。これはショウガイシャ差別だぞ」
宿の荷物を引き上げてチェックアウトした後、全国のどこにでも同じ形で存在するチェーンのファミレスに入った。
結局のところ、こうした量産型の安っぽい店のほうが、通路の幅や座席の使い易さは保証されている。調度品の細部に至るまで、形状や高さが事前にわかっていることも、トモルにとっては大きな助けとなっていた。
「すまんね」トモルは座席に入ってから、すぐに、向かいの伊東に向かって言った。「こんな所まで来て、こんな店で」
「お子様ランチって僕が頼んでもオモチャもらえると思う?」伊東は完全に無視してメニューを指差した。
「いや、年齢が書いてあるでしょ」と、神白は横から口を挟んだ。「ここに。小学生以下、って」
「はあ。駄目なんだ。ここに書いてある『セットのオモチャ』って、いつも気になるんだよな。トモ君、子供作る予定ない?」
「なんで、てめえがお子様ランチ頼むためにおれが子供作らなきゃいけないんだよ? 自分でやれ!」
「そんなに気になるんなら、普通に頼めばいいじゃないの」神白は言った。「店員さん呼んで、お子様ランチのオモチャが気になるから見せて欲しいって。見るだけなら見せてくれるだろ」
「あ、そう、じゃアキちゃん頼んでくれる?」
「嫌だよ、恥ずかしい」
「早く頼むものを決めろ」トモルは自分の見ていたメニューを返して、神白のほうへ向けた。
「トモ君、何にするの?」
「ピザ」
「朝から重いな」
「僕もピザ」と、伊東は言った。言いながら、スマホを操作している。「あのさ、あのワニ、『ユウちゃん』さあ、何度計算しても12メートルはあるんだよなあ……」
「君はまたワニの話か」トモルは少し呆れたように笑った。「そんなに大きかったの? そんなデカくて、動けるのか?」
「かなり素早く動いてたよ」
「となると、相当な怪力だな。生きてる戦車だ」
「12メートルと言うと、5階建てのビルくらいだ」と、神白は言った。
「まあ、縦にすればね。尻尾が長いからね……」
「それで人間が主食なんだろ?」トモルは少しだけ顔をしかめて言った。「マジでバケモンだなあ。どうすんの? 自衛隊でも呼んで、撃ってもらう?」
「ほんと、そういうことも真面目に考えた方がいいよ」伊東はものすごい勢いでスマホに何か打ち込んでいた。誰かにメールを打っているようにも見えた。「あの飼い主の子、どうも状況を舐めてるように見えるな。あの子の手に負えるものじゃないだろう、すでに」
「かと言って僕たちも手を出せないよ」と、神白は言った。「僕は次の『上映』であのリーダーに名刺をもらったら、そこで手打ちにして帰ろうかと思う」
「なんだよ、アキちゃんらしくもない。結末を見届けないの?」伊東はスマホから顔を上げずに、微笑んだ。
「いや、だって……このあと何が起きるの? あのさ、伊東君、これ以上『何か』する気じゃないよね? 誰にメールしてんの?」
伊東はニヤニヤ笑って、答えなかった。




