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暗闇に棲むもの

穴の底は思ったよりも近かった。ぎりぎり、神白の背丈よりは高いくらいのトンネルが、やや下りに傾いて続いている。天然の洞窟のようで、剥き出しの岩が不規則にせり出しているが、道は真っすぐだった。

百歩か二百歩ほど先だろうか、突き当りに水面が見える。ぼんやりと明るい。どこかから外の光が入っているようだった。


空気は湿っていて、独特のにおいがした。


「ボクが『戻れ』と言ったらすぐにこの道を走って戻ってください。梯子を登りきるまで止まらないでくださいね。後ろがつかえるので」女はビーチサンダルで不安定な岩の道を踏みしめながら、どんどん先へ歩いて行った。「帰りは、暗いですから、今のうちにときどき振り返って、帰り道をイメージしておいてください。急に振り返って戻ろうとすると、だいたい転ぶんです。速く走ることより、転ばないように意識してください。懐中電灯をつけっぱなしにしておいて。あ、一応フィルターをかけてますが、明かりをユウちゃんに向けないでくださいね」


神白と伊東が一本ずつもらった懐中電灯には、赤いセロファンが張り付けてあった。


「大きいの?」伊東は聞いた。「いつから飼ってる? 種類は?」


「雑種と言われました」彼女は短く言った。「前に、専門の人が来たとき」


「専門家が来たの?」


「専門と言っても、ブリーダーです。ペットとして爬虫類を売りさばく仕事の人です。学者ではない」


「慣れてらっしゃいますね」と、神白は口を挟んだ。「よく、こうして誰かをここに案内されてるんですか?」


「よく……と言っても、あなたがたで3組目ですが」


「前のふた組は?」


「だからその、ブリーダーの人と、あとは、クソどもが雇った『映画屋さん』ですよ。それを見て来たんでしょう?」


「あの『怪獣』の人たちですか」


「そうなんでしょうね。ボクは見ていませんが」彼女はものすごく冷たい口調で言った。


「なぜ、自分のこと『ボク』っていうの?」伊東が聞いた。


「なぜ?」彼女はちょっと間を置いてから、「今までそうしてきたからというだけです。ボクは心も身体も女性だし、恋愛対象は男性だし、スカートを履くことに抵抗もないです。……この答えで良いですか?」


「ああ、うん。そんなに立ち入ったこと聞くつもりじゃなかったんだけど」と、伊東は言った。


「そうですか? じゃ、どんな理由があると思ってたんですか?」


「あまり深く考えてなかった。ごめんね」


水面の全貌が見えてきた。想像よりも遥かに広い。池というよりも、地底湖、とでも言いたいくらいの広さだ。岩の天井がまるで吹き抜けのように高くなっていて、一部に隙間があき、そこから外の光が入っていた。


ほの暗い水は、とても透き通っていた。


女は水際よりも10歩ほど手前で立ち止まり、神白たちにも、それ以上前へ出ないようにと言った。


「これ、天然の水なの?」伊東が変なことを聞いた。


「そうですが。なぜですか」


「生き物が少なすぎる」


「それはたぶん、硫黄と塩分が混じっているからです。どこかから温泉が流れ込んでいるんです」


「おかしくない?」伊東はなぜか、神白のほうを振り向いて不安そうに笑った。「生き物が住める場所じゃない」


「ユウちゃんにとっては、ちょうど良かったんです」

彼女はまったく動こうとせず、静かな水面をじっと見ていた。

「ここは天然の温水プールです。水は温かいし、壁と屋根もある。今は夏だから分からないでしょうが、冬はものすごく暖かく感じます。ここから出たくなくなるほどです。それでもユウちゃんにとっては、かなりつらい寒さです……20度を切ってしまいますからね。よくここまで生き延びたと思います」


「だって、こんなところで何を食べて生きているの?」と、伊東は聞いた。


「それは後で説明しますが……ワニはそもそも、食事を滅多にしないんです。普通は、週に1回くらいです。半年以上食べなくても、死にません」


「……なるほど」


「見えますか」彼女は長い腕を上げて遠い水面を指さした。「あそこに鼻が見える」


目を凝らす必要は無かった。次の瞬間に、静かだった水面にさざなみが立ち、巨大な、とても長い顔が半分ほど浮かび上がった。


伊東が声を上げかけて飲み込んだ。

信じられないほどの速さで、『顔』はこちらの岸に向かって移動してきた。

音はしなかった。


「ユウちゃん」女は四角いバッグから細い棒のようなものの束を掴み取った。


マッチをする音がして、彼女が頭上に高く掲げた棒の束の先から、眩しく白い火花が四方に飛び散った。


煙。火薬のにおいが鼻を刺す。


鋭い火花を吐きづける花火は、目もくらむような明るさだった。何も見えなくなりそうだ。


「ユウちゃん! 来るな!」

叫ぶ彼女の背中の向こう側に、煙と光でかすみながら、歯と、背中と、長い長い尾が見えた。


「嘘だろう」伊東は恐怖にこわばった顔で、左手で神白の腕を強くつかんだが、右手にはしっかりとスマホを持って撮影していた。「アキちゃん! 見える? 見えてる?」


「見える」と、神白は言った。

見上げるほどの大きさだったあの「怪獣」の映像が、誇張ではなかったと感じる。水面に這うような姿勢なので、「高さ」を知ることができないが、たぶん顔の部分だけで人の背丈を超えてしまうだろう。


しかも、どうやら相手は今、水際に立ち寄った3人の人間を「標的」とみなしているようだった。

ワニは岸に上がろうとして前足を踏み出したが、彼女の向けた花火に怯えて少しだけ後ずさった。


「戻れ!」女が鋭く叫んだ。「戻って!」


「大丈夫なの?」伊東が動画の撮影終了ボタンを押してから、聞き返した。


「言ったでしょうが! 戻って!」彼女はひどく苛立った声を上げた。「つべこべ言わないで! 早く!」


「行こう」神白は伊東の腕をつかみ返し、強く引いた。


来た道を引き返して梯子を登り切り、地上に出るまで、神白と伊東はずっと背中に彼女の叱咤と罵倒を浴び続けた。

「ほんと何考えてんですか? スマホを出すなと言ったでしょうが? 若いくせになんでそんなに反応鈍いの? つうかあなたはなんで懐中電灯消してるの? 映画見に来てるんじゃないんですよ? 相手は生き物だって分かってんですか? ほら、そこで立ち止まらないで!」


ほんの数秒遅かったくらいで、罵りすぎだろう。こうなることは予測できていたんじゃなかったのか? 神白は彼女に色々言い返したかったが、結局地上に出てから最初に出た言葉は「すごい」だった。

「伊東君、見た? 凄い、あれは凄い」


伊東はまだ青ざめた顔で、地面に座り込み、呆れたような目で神白を見上げた。「……お前は、いつも幸せそうだな。本当に」


「さっきの動画、彼女とワニのツーショットで撮れてる? 僕、彼女をスケール代わりにしてワニの大きさが計算できるかも……」

写真から実際の長さを推定する方法を、神白は職場の先輩から教わっていた。事前に会場を下見できないような、突貫工事的なイベント設営の際には重宝するのだ。


「僕だってできるよ」と、伊東はあっさり言い返した。「でも計算するまでもなく7、8メーターはあるな。何喰ったらあんなになるんだ?」


「うちの村は、『人の形をした化け物』の通り道だったから」女が、花火の燃えさしを土に押し付けて、始末しながら、低い声で言った。


「は?」と、伊東が聞き返した。彼の表情にすごく嫌なものがよぎった。「それはつまり……」


「あのゾンビ騒動です」彼女は無表情のまま、淡々と言った。「震災の直後からずっとです。県にも国にも何度も訴えたけど、結局は無視されていたわけです、ずっと。だから、持て余したものが、ここに……この洞窟に、捨てられていました。定期的に。何度もです」


「あいつにゾンビを食わせていたの?」伊東は大きく息を吸い込んで、それから深く溜息をついた。


「なんてことを」神白は思わず、強い口調で言ってしまった。「それがどういうことだか分かってるんですか? 人間の味を覚えさせてしまったんだ。道理で迷いなく襲ってくるわけだ」


「ボクのしたことじゃない」彼女は言った。「ボクはただ、何もかも……こういう事になってから、初めて知らされて、そして引き受けたのです。後始末を」


「始末と言ったって、あんな……」伊東は何かを言いかけたまま、絶句していた。


「おい」トモルは、さっきからずっと、助手席の窓から上半身をほとんど出してこちらを見ていた。「写真を撮ってきたろうな? 仲間外れにするなよ?」


「わかったよ。今度君も連れてってやるよ」伊東は疲れたような顔で、車を振り返らずに言った。


「ちょっと適当なこと言わないで」神白はつい、真面目に言い返した。


「大丈夫だって」伊東も真顔で言った。「きっと後悔しないさ……だってそこで人生が終わるんだから」


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