本当の飼い主
「7時」伊東は腕時計を見た。「え、7時? 早起きすると1日が長いなあ。まあ、回ってみよう」
そう言って車を発進させた。
道の駅のある太い道路を逸れて、「澤久間村 ここから」という錆びた看板の立つ村道へ入っていく。あまり広くはないが、そのかわり信号も曲がり角もない道だった。左側に川原の土手、右側に田んぼを見ながら、緩やかにカーブを描き、どこまでものどかに続いている。
空はまだ曇っていたが、少し雲が切れて明るくなっていた。このあと晴れそうだった。
「伊東君は寝なくて大丈夫なの?」と、トモルは聞いた。
「まあ一応、昨日の夜に一回寝てるし。2時半起きだったのが辛いけど……もし眠くなったらまた寝るよ、どこかで」
「若さというのは財産だなあ」トモルは神白のほうを振り返った。「なあ? ヒシヒシと差を感じるよな?」
「いや、僕は二十歳くらいのときも無理だったよ」と、神白は言った。「徹夜、向かないんだ。ロングスリーパーなんだ、僕は。悪いけどもう一度寝ていい?」
「駄目」伊東はきっぱりと言った。「そういうね、許可を得なくてもいいようなことでいちいち許可を求めてきたら、基本的にリジェクトしていくね。絶対に寝るなよ」
「リジェクトってなんですか?」と、神白は聞き返した。
伊東はそれには答えず、「あと、『悪いけど』って言ったね。100円の罰金」
「もうそれ、いい加減にしてくれない? 伊東君」
「いい加減にしてほしいのはこっちだよ」
「ああ、うるさい」トモルが呆れたように言った。「何、お前たちずっとこんな会話してんの? 女子か!」
「だってこの人、ずっとどうでもいいことで謝り続けるんだよ」伊東は言い返した。
「それは伊東君が悪い」とトモルは言った。「君が甘やかすからだ。こいつは天邪鬼なんだから、『全部てめえのせいだ。早く謝れ』って煽れば、絶対に謝らないから」
「なるほどね」伊東は溜息をついた。「ちょっと僕にはとてもその情熱は持てないな……」
道はやがて川沿いを離れて、樹々の茂る斜面をくねくねと登りだした。林道を舗装して広げたもののように思えた。
神白は本当に眠かった。息がうまく吸えていない気がして、何度も深い溜息が出る。窓の外に流れる樹々の緑を眺めていると、視界がぐらぐらと歪んでくるような錯覚をおぼえる。不規則なカーブの繰り返しが、余計に酩酊したような感覚を誘った。
「これ、どこまで登るんだろ?」助手席でトモルが愚痴るのが聞こえた。
「さあね、知らない」と伊東は言った。「気になるならスマホで見れば」
「うん、そうね」トモルは笑いながら、「伊東君ってさ、大学の先輩にもその調子なの?」
「敬語は使うよ」
「そう?」
「まあ、相手にもよるけど」
「ふん。あんま目上の者を舐め腐ってると痛い目に遭うぞ。ていうか、痛い目に遭えばいいのに……」
すとん、と何処かへ落ちるように意識が途切れ、神白が次に顔を上げたときには、車は高台の広場のような場所に停まっていた。ほんの短時間の睡眠だったはずだが、急にスイッチを切り替えたように目が冴えてきた。
神白は隣の席の足元に押し込んであった車椅子を持って、後部席を降りた。
すっかり晴れている。
小山の中腹のようだった。雑草の生い茂った小さめの野原が前方へ向かって迫り出し、天然の見晴らし台のようになっている。舗装された道路はその手前でぷつりと途切れ、アスファルトの縁はボロボロと亀裂が入って崩れかけていた。
「僕は降りなくていい」トモルは助手席の窓を下げて言った。
「うん」神白は後部席に車椅子を戻した。
見晴らし台の先端付近、見ていて不安になるほど端のほうに、車が一台停まっていた。荷台が大きそうな、背の高いワゴン型の軽自動車で、白い車体が泥を被ったように汚れている。その側にひとりの女が立って、大きな力強い目でこちらを見すえていた。
体格に対して大きすぎるTシャツ、ハーフパンツ、ビーチサンダル、と、少年のような格好をしているが、顔立ちからすると二十歳近いように見えた。肩上で短く揃えられた髪先が、乱雑に跳ねている。女性にしては少し背が高めで、剥き出しの腕と脚が妙に長く見えた。
「どこから来たの?」
彼女は神白と伊東を交互に見ながら聞いた。
「宮城県」伊東は物怖じせず近づいて行った。「ここに余所者が来るのは珍しい?」
「だってそこ、私道だよ」彼女は神白たちが来た道を真っ直ぐに指差して言った。「うちの私有地」
「そりゃすみません。真っすぐ繋がってたから……」
「何しに来たか知ってる」と、彼女は言った。「ユウちゃんに会いに来た。違う?」
「ユウちゃんって誰?」
「ボクが飼ってるワニだ」彼女は挑むような目で伊東を見た。
「ああ、君が『本当の飼い主』か」伊東は驚いた様子もなく、彼女のすぐ目の前まで行ってようやく立ち止まった。「思ったよりも小さい村だね。もっとぐるぐる回る羽目になるかと思ってたんだけど、分かれ道がなさすぎて。私道だとは知らなかったです。……ここにワニがいるの? それとも、君の自宅?」
「この山にいる。中に」彼女は言った。「家で飼えるような大きさじゃないです」
「見せてもらえる? 今朝、ハラヤマとかいう人とその仲間ふたりに、見せてもらう約束だったんだけど、揉めちゃってさ」
「あいつらはクソだもの」女は無表情なまま言った。
「そうだろうね」
「知ったような口をきかないで」
「はい、すみません」伊東は苦笑して神白のほうを振り返った。「どうする? ワニを飼ってるそうだよ、こちらの人」
「どうするも何も……」神白は、彼女に聞きたいことが山のように湧いてきて、言うべき言葉を決められなかった。
「ユウちゃんを見たいなら、見せますよ」と、彼女は言った。「そのために来たんでしょう?」
「そうだね」と伊東は言った。「見れるの?」
「いいよ。ただ、『中』に入ったら必ずボクの指示に従ってくださいね」
彼女はそう言って、数歩、立ち位置を移動した。そこで急に地面に這いつくばるような姿勢になって、草むらに隠れていた取っ手のようなものをつかみ、力を込めて引き上げた。
丸く、平たい金属の板が地面から持ち上がり、その上を覆っていた土と砂が滑り落ちた。彼女はその蓋をいったん下ろしてから、再度力を込め、今度は横にずらした。
地面に穴が現れた。
神白はゆっくりと、そのすぐ側まで歩み寄った。
彼女のずらした蓋は、雨水用のマンホールよりは一回り大きく見える。それでも、穴は人が通るための道としてはかなり狭い、暗い縦穴だった。剥き出しの土の壁に、手作りと思われる木の梯子が立てかけられ、底は暗く沈んでよく見えなかった。
「ここから入るの?」伊東が不安そうな顔で言った。
「ここからが近いですよ。別な道もありますが、そちらは道路が通ってないので、長く歩きます」彼女は少しの間、穴の底へ向かって耳をすますような仕草をしてから、立ち上がった。それから、助手席に残っているトモルの方を見た。「あの人も来るの?」
「彼は足が不自由だから」と、神白は言った。
「ああ。じゃあふたりだけですね。いいです。行きましょう」
彼女はそう言いながら、自分の車に戻って肩掛けの保冷バッグのようなものを出してきた。
その中から、古くさい形の懐中電灯が2本出てきた。
トモルが助手席の窓から顔を出した。「おい。どうすんの?」
「お前も来たいとか言わないよね」神白は言った。「この中にワニがいるらしい」
「ああそう。写真と動画、よろしく」
「おぶってってやろうか?」
「ダメです」と、女が鋭く言いながら、懐中電灯を渡してきた。「動画もお勧めはしませんよ。何かあってスマホを落としても、取りには戻りません。失くして惜しいものは手に持たないほうがいいです」
「危険なんですか」
「ユウちゃんはもう人間を信用しなくなっています。ボクの言うことも、必ず聞くわけではありません。あなたがたふたりは、走れますか?」
「どうだろう」神白は伊東を見た。
「走れるよ」と、伊東は言った。「速さにもよるけど」
「速くなくたっていいんです。ただ、自分の足できびきび動いてくれれば」彼女は四角いバッグを背中側に回し、さっさと梯子を下り始めた。




