勝手な人たち(後)
どうにも重苦しく気の晴れない夢を見て、その終わり際に何度も名前を呼ばれた気がして目を開けた。
車はエンジンが掛かっていたが、進んではいなかった。
「でもさ、アキちゃんは……」
「そうではない、」トモルの声が、伊東の言いかけた言葉を遮った。「そうじゃなくて、それは言わなくても分かっていることだから」
「それは君がそう思っているだけかもしれないよ」
「違うよ。わかるんだ。アキちゃんがどんな気持ちで何を考えているか、僕には分かるんだ。たぶん彼本人よりも。これは直感というやつだよ」
神白は動けなくなった。
「だとしても会話は必要だよ」と、伊東は言った。「その分かりきったことを、もう一度聞いてみるしかないだろう」
「そうだろうけどさ……僕だって立ち直れてはいないわけだよ。僕は正直ほっとしている。自分ではもう、2階の、元は自分の部屋だった場所に、行くことができないわけだから。見ないで済むんだ。この身体のことを理由にできる。そのことを何度もありがたいと思ったね。それくらいには傷ついてはいるわけだよ」
「2階に何があるのさ」伊東は少し笑うような声で言った。「お父さんの形見? ふたりの思い出? バラバラ死体?」
「いや、まあ、全部だよ」と、トモルは言った。「おれたちの人生の前半がすべてあそこにあった」
「え、バラバラ死体も?」
「無いとは言い切れないだろ」トモルは笑った。「僕たち、母に見られたくないものは何でもあの部屋に持ち帰ってきたからな」
「急いで片付けないほうが良かったんじゃないの? 家に誰も住まなくなるとしても、思い出の物置としてしばらく残しておけば」
「まあな。そこは母ちゃんが無神経なんだよ。というか、このたびのことは、たいがい母ちゃんが無神経なんだよ。物言いが雑なんだ。雑というか、いや、あれは酷いよ。僕が言われても3時間くらいは凹んだと思うな」
「何て言ったのさ?」
「なんというか……まあ、お前は要らない子だったみたいなことをさ」
「ふーん。まあ、言われて当然だろうけど」と、伊東は言った。「と言うか、今までそう言われたことなかったんだ?」
「君はなあ、辛辣すぎるよ。君とは違ってアキちゃんは繊細なんだぜ」
「というより、大事に育てられ過ぎてんじゃないの?」
「そうかもな。まあ、そうなのかも知れないな」トモルはいつになく静かな口調で言った。「いずれにしろ諸々予定は決まっているから、どういうやり方であれ片付けはしなきゃいけない。僕が……」
そこでトモルは唐突に言葉を切って、急に片手を高く上げて振った。
「おい。アキちゃん起きてるな?」
「おはよう」神白は寝転んだまま言った。「なんで分かったの?」
「寝息が聞こえなくなった」
「え、何、」伊東は運転席から振り向いてすごく嫌そうな顔をした。「いつから聞いてたの?」
「え、さあ……」神白は思わず苦笑いした。「僕に聞かれちゃ困る事だったの?」
伊東は何も言わずに、車を降りてしまった。
神白は身体を起こした。道の駅の駐車場だった。
閑散としてほとんど車もない早朝の駐車場を、伊東の頼りなげな背中が遠ざかっていく。
「あまり伊東君を困らせるなよ」トモルが前を見たまま言った。
「え、何が」と、神白は言った。「どっちかって言うと、僕が伊東君に困らされてるんだけど。あとトモ君にも」
「今回、いつ帰る予定だったんだよ? 元々はさ」
「いつって……仕事が次の日曜だから、その前日までには」
「部屋片付ける気ゼロじゃねえかよ」
「いや……あのねえ、トモ君」寝起きの頭で言葉をまとめるのは難しかった。「僕は、なんて言うか……ごめん、トモ君があの部屋のことをそう気にしてるとは知らなくて。土曜日の夜に一気に片してしまおうと思って……僕は残したいものなんてほとんど無いし」
「全部捨てるのか?」
「だってたいがいゴミだよ。漫画とか絵本とか小学校の教科書とかだろ。あとプラモデルとさ……」
「写真がいっぱいある。父ちゃんが写ってる」
「大して無いって。壁に貼ってる2、3枚だよ」
「いや、もっとあるよ、窓際にもあった」
「いずれにしろ荷物になるような量じゃないって。お前は美化してるんだよ。何年もあの部屋に行ってないだろ」
「アキちゃんだってここ数年入ってないじゃないか」
神白は黙った。
「僕が知らないと思ったのか?」と、トモルは言った。「僕が絶対に2階に上がれないと思ってた? 時間さえかければ、そして『見た目』さえ気にしなければ、僕は何処へだって腕だけで行ける。甘く見るなよ」
「でも」
「母ちゃんがそろそろ何とかしろと言いたくなるのもわかるだろう? お前は布団だけ横の納戸に運び出して寝てた。僕たちふたりで使ってた部屋は閉め切って。そして放置して出て行きやがった。僕も身体のことを言い訳に2階へ行かない。そして来月うちを出て行く。あの部屋をどうにかしろって、そりゃ言われるだろう。持主がふたりとも死んだ部屋みたいになってるぞ、きっと」
「だから……」神白はためらいながら言った。「土曜日にやるよ。残したいものだけ取って、他は処分だ」
「アキちゃん。僕は確かに美化しているだろうけど、お前は逆に甘く見てると思うぞ。2、3時間でパパッとは済まないよ。もう少し長く時間を取ったほうがいい。そして僕も立ち会わせろ」
「時間をとりたいならお前だけ先にやっててよ」と、神白は言った。「僕はもうちょっと伊東君と遊んでから帰るから」
「こんなこともう最後なんだからひとりにしないでくれよ」
トモルは突然声を詰まらせて言った。
「お前はどうしてそう……いや、わかるよ。わかるけど……」
「ちょっと落ち着いて」神白は後部席から身を乗り出して、泣き出してしまった弟の腕をつかんだ。「そんなに……何をそんなに……もし、それなら、いったん貸し倉庫にでも全部運び出して、ゆっくりあとで分類すれば……」
「そしたらまたズルズル長引くだろうが」トモルは手を顔に当てたまま言った。
「じゃあどうしたいんだよ」
「とにかくもう、戻ってくれよ。さっきからそう言ってるじゃないか」
「分かったって。明日か明後日には帰るよ」神白は言った。「……それか、明々後日には」
「クッソ」トモルは目をこすりながら舌打ちした。「おれがまだ自由に動ければ。こんな好き勝手にはさせないのに!」
「自由に動いてるだろ、十分……」神白は溜息をついた。
伊東が戻ってきた。
運転席に入るなり、「あ!」と叫んだ。
「また、ウザい人たちがウザいことやってる! ふたりいると2倍以上だな、マジでウッザ」
「お前はうるさいよ」と、神白はこちらにも溜息をついた。
「飲み物」伊東は3本持ってきたペットボトルのうち1本を神白に差し出した。
「僕、コーヒーが良かったんだけど」受け取りながら神白は言った。
「あっそ」と伊東は言った。「トモ君は? ジュースいる?」
「いらん。トイレに行きたくなるから」トモルは拗ねたような態度で言った。
「あっそ」
伊東は勝手に助手席側のボトルホルダーを引き出してペットボトルを入れた。
「この後なんだけどね、この澤久間村をぐるっと回ろう。状況見て聞き込みもできそうならしてみる。そもそもワニを飼えるような環境となると、冬の低温対策だけでもかなり大掛かりな設備が必要になるから、それを目安に探せるんじゃないかな……一周回ってみて見つからなければ、さっき言った住所に乗り込んで関係者を直接締め上げてみる。
いずれにしろワニは近い。あいつらの言ってた内容からすると、この近辺で長年飼われていることは間違いないんだ」
神白はぼんやりして黙っていた。トモルも無言だった。
「あ、ご賛同いただけない場合は、車を降りて構わないよ」
「いや、伊東君、これ僕の車……」
神白は言い返したが、
「だから、僕が降りても構わない、って言ってる」伊東は爽やかに微笑んだ。「僕にはいくらでも『足』のアテはある。君たちの車に乗ってあげてるのは、こちら側の情けだってことを忘れないように」
「ああ……お前らふたりとも、来年あたり不幸になればいいのに」トモルは俯いたまますごく大真面目な口調で言った。




