伊東のメッセージ
「いや、そんなはずは……」
ここから宿までは、車ならひと息だが、歩けば数時間はかかる。足を持たない伊東が勝手に帰るはずはない。
辺りにはしばらく店も人家もない。バスやタクシーが通りかかるような場所でもない。そもそも午前4時前だ。
自分の車が無ければ、どこへも行けるはずはない。
どこか、あの窪地の周辺で動けなくなっているのでは、と、神白は真っ先に危惧した。あのとき、付いて来る気は無いと言ったものの、気が変わって神白を追おうとして、藪の中で身動きが取れなくなっているのではないか。
もしくは他の観客とのトラブルか。あのジョギングコース周辺で殴り倒されているとか?
スマホが起動していつもの画面を取り戻したが、トモルからの大量の不在着信と、昨日昼間に何度か伊東から「先に行ってる」「外にいる」等のメッセージが入っていた他は、特に新しい通知は無かった。
神白は<どこにいる?>とメッセージを送った。
山奥だからか、電波はだいぶ弱かったが、なんとか送信はできた。
だが、しばらく待ってもメッセージが開封される様子は無かった。
「おーい」トモルは半分呆れたような、呑気な口調で言った。「迷子か? なぜこんな、はぐれようもない場所ではぐれるんだ? 3歳児か、お前らは?」
「何かあったな」神白は伊東に電話をしてみた。発信音が5回鳴った後、6回目の途中で途切れた。
切られた。
どういうことだ?
伊東をまた怒らせてしまったのか、と根拠のない反省をしそうになって、すぐにそういう問題ではないことに気付く。
怒っているかどうか以前に、だとしたらどこにいるのか、という話だ。
拗ねて隠れているだけか? だとすればもう一度階段を降りて、探してみるべきか。
だが、別な可能性もあり得る。
誰かの車に同乗してここを去ったという可能性だ。
しかし、一体誰の?
「なんだよ、逃げられたのか?」トモルはふざけたようなことを言いながら、わりと真面目な表情で、神白を見上げた。
「わからない……」
少なくとも、こちらからの着信を意図的に切ったということは、この失踪は伊東の意思のはず……いや、電話を操作したのが伊東とは限らないか。
「まずいな」と、神白はつぶやいた。
「どうなってんの?」と、トモルは聞いた。
「わからない。とにかく一応、僕は池の方をもう一度……」神白は階段へ向かおうとして、ふと、車のワイパーの端に白いものが挟んであることに気付いた。
取り外してみると、昼間寄ったサービスエリアのレシートだった。裏面にボールペンで、伊東のものと思われるメールアドレスと、パスワードのような文字列が書いてあった。
「え、何?」トモルが身を乗り出そうとした。「お手紙? 伊東君から? 何それ、ダイイングメッセージ?」
「これをどうしろってんだろ」神白はメモをトモルに見せた。
「ええ、メールを見ろってこと?」トモルは顔をしかめて、「いや、何かのログイン情報かな。Twitterとか。ああいうの、メアドをID代わりにログインできるだろう、確か」
「なんのサイトなのか書いといてくれりゃいいのに」
神白は念のため、もう一度伊東に電話を掛けたが、今度はずっと発信音が続くだけだった。
電波は通じているわけだから、何らかの形で現在地を割り出せれば良いのだが……、
そこまで考えたとき、神白は伊東が一昨日それをやったばかりであることを思い出した。
「iPhoneをさがす」アプリ。
起動するとすぐにメールアドレスと、パスワードを求められた。
神白はトモルからメモを取り返し、そこに書いてある文字列を打ち込んだ。
トモルは何か聞きたそうだったが、黙っていた。
画面には「探索中」の文字が出て、しばらくの間はほとんど画面が動かなかった。ここでは、電波が弱すぎるのかも知れない。こんなので本当に見つかるのだろうか、と不安になった。
しかしやがて、真っ直ぐな道路と、その道路沿いにかなりの早さで進んでいく緑色の丸いアイコンが表示された。
神白はトモルに画面を見せた。
「え、何これ?」
「伊東君のスマホがこれで追跡できる。誰かの車に乗ってるな」
「へえ」トモルは感心したように、画面を覗き込んだ。「ハイテクだなー」
「追いかけてみるしかない」神白は地図の倍率を変えてだいたいの位置を見定めた。この公園に接している大きな道路をまっすぐ北上しているようだ。
かなり差を付けられているが、飛ばせば追い付けなくもない気がした。
スピード違反を気にしなければ、の話だが。
「行こう。とにかくお前も乗って」神白は車のロックを解除して、助手席のドアを開けた。
「アキちゃん……」トモルは神白に抱えられて座席に入りながら、急にすごく控えめな声で言った。「僕、実はトイレに行きたいんだが」
「え?」公園のトイレがあるだろうと思って神白は素早く駐車場を見回したが、それらしいものが見当たらない。
よく見ると階段の降り口に小さな矢印型の立て札があり、その斜め下向きの矢印の中に「W.C. 階段下右折 30m」と記されていた。
この階段を、成人男性を抱えて往復するのはキツい。
神白は助手席のドアを勢い良く閉め、残された車椅子を畳んで後部席に積み、自分は運転席に回った。
エンジンを掛け、黙って発進する。
駐車場を出てしばらくしてから、神白は前を見たまま聞いた。
「あとどれくらい我慢できる?」
「まあ、まだ……」トモルは口ごもった。「だって結局、選択肢はないだろう。見つかるまで待つさ」
「どうなるか分かんないぞ。このさき一軒も店が無かったらどうする」
「限界が来たら言うから、おろしてくれ」
「おろして、おれが脱がせなきゃいけないんだろ?」神白は溜息をついた。「マジで勘弁しろよ。なぜ家で静かにしていられないんだ」
「いや、家で静かにしてられない張本人がそれを言う?」
「自分でやれる範囲のことをしてくれよ」
「そういうのって、ねえ、差別じゃないですか?」
「ああそう……」
結局また、うるさいやつが助手席にいることに変わりはないわけか。
「大丈夫だって」と、トモルは言った。「何があっても座席は汚さないから。対策はしてる」
「じゃあもうトイレなんていらないんじゃない?」
「僕は人間だぞ。人間扱いしろ」
「うん、まず人間らしく常識的に振る舞えよ」
「てめえにだきゃ言われたくねー」トモルは神白から預かったスマホを眺めながら、「しかしこれ、伊東君は誰の車に乗ってるんだろうね? 逆ナンかな?」
「ああ、そうかも」神白は投げやりに返した。「あの子、誘われるとだいたい誰にでも付いてくから」
「マジかー。あの顔で節操無しでは、目も当てられんな」
「ほんと、何やってんだか……」
道路はどこまでも真っ暗で、真っ直ぐだった。他の車も見当たらない。
辺りは鬱蒼とした森で、道の両側から高い枝が張り出し、トンネルのように頭上を緩く覆っていた。
夜明けはまだ遠い。だが、昼間よりもずっと、今この瞬間のほうが、目が冴えているような気がした。
神白はゆっくりと、更に深くアクセルを踏み込んだ。




