最悪な追手
神白は窪地の斜面をよじ登りながら、ここを降りてきたときよりも遥かに興奮していた。
あのリーダーが口を滑らせた。
伊東の推測が当たっていたのだ。
「傷のあるワニ」は実在する。しかも、リーダーは地名を漏らした。聞いたことのない地名だったが、国内であることは間違いないようだ。検索すればすぐに見つかるはずだ。
名刺をもらう約束を取り付けたことよりも、今はワニのことで頭がいっぱいだった。
笹薮を分けながら元のジョギングコースに這い上がると、辺りはもう静かになっていて、観客は誰一人残っていなかった。上映が終わったら、それ以上留まる理由はない。伊東の姿も見当たらなかった。
かなり虫を嫌がっていたし、先に車へ向かったのだろう、と思った。
駐車場に戻るまでに、長い階段を上らなければならなかった。丸太で縁取りがされ、砂利が敷き詰められた階段だった。降りてきたときは感じなかったが、なかなかの急勾配だった。
階段を上りきって公園入口の駐車場に戻ると、そこに無数に停まっていた車も大半が帰路についており、数えるほどしか残っていなかった。
神白は自分の車の傍に人影を見つけて、思わずまた駆け足になった。
相手が伊東でない、そしてひとりでない、と気づくのがすごく遅れた。神白は彼らのほぼ目の前に、真正面に立ってしまってから、その光景の意味をぼんやりと考えた。
助手席側のドアのすぐ前で、車椅子に乗って出迎えたのは双子の弟のトモルだった。彼だけではない。その周りには、いつも彼とつるんでいる若者が3人、さも偉そうな姿勢で立って、不思議な笑いを含んだ目で神白を見ていた。
3人とも、名字は同じ「中寺」である。ほとんどすべての家が「中寺」の表札を掲げている、隣集落の出身だった。本人たちは「取り立てて近い親戚ではない」と言い張るが、結局のところ、丁寧に家系図を辿って行けばどこかでは接している。
要するには、筋金入りの田舎者たちだ。
「え、何してんの」神白は数秒ためてから、なるべく低い調子で言った。
「お前なかなかいい根性してんな」トモルは車椅子の上でふんぞり返るような姿勢になり、挑発するような声色で言った。「血を分けた兄貴を着拒するとはなあ」
「着拒なんかしてないよ……病院は?」と、神白は言った。
「もう退院した。検査入院って言っただろ。今回は平気なんだ」
「何しに来たの?」神白は本当にうんざりして言った。「お前のこと呼んだ覚えないんだけど」
「電話に出ろよ。クソ野郎」トモルは唸るように言った。「部屋を片付けるっつってんじゃねえか。まさか僕に全部やらせるつもりじゃないだろうな」
「あとでやるって。なんだってこんなところまで……」
「あとでだって? ふざけんな。お前のやることは分かってるんだ。毎度毎度、都合悪くなるたびに伊東君連れて家出しやがって! ワンパターンなんだよ」
「そんなこと」してない、と言いかけて、してないとは言い切れないことに気付く。
「神白さん」中寺のひとりが笑いをこらえたような顔で言った。「じゃ、俺たちもう帰るんで、あとよろしくね、こっちの神白さんを」
「はあ?」神白は怒鳴った。「何言ってんだよ? どういう意味?」
「俺たちはここまでこの人を送ってくるだけという約束だから」中寺は言った。「そういうわけで、仕事は果たしたんで、帰らせてもらいますよ」
「冗談じゃないよ。トモルを連れて帰れ」神白は、笑いながら背を向ける3人に向かって、本気で焦って叫んだ。「困るって。なんでだよ。あり得ないだろちょっと!」
「アキちゃん、なんでだよ」トモルはニヤニヤと笑った。「酷いじゃないか。僕を邪魔ものみたいに言うなんてさ」
「ふっざけんな」神白は中寺3名の背中に向かってあらん限りの勢いで怒鳴った。「てめえらマジでふざけんな」
「やだやだ、おふたりの喧嘩の巻き添えはごめんだ」別な中寺が背を向けたまま片手を振った。「じゃ、ごゆっくりー」
3人は本当にさっさと歩き出してしまい、すぐ向こうに停めてあったワゴン車に乗り込んだ。バタバタとドアが閉まり、エンジンがかかり、次の瞬間には走り出した。
「あり得ないだろ!」神白はもう相手に聞こえていないと分かっていたが、怒鳴らずにはいられなかった。「わかってんのか、こいつを置いてかれたら、何もかも話が長引くだろうが! どういう了見だよ、マジでざけんな、死ね! ぶっ殺す、マジで死ね!」
「ちょっと落ち着けよ、ほんとにさあ」トモルはさも呆れたように、車椅子の肘掛けに寄り掛かった。
いつもの電動車椅子ではなく、病院でよく見かけるタイプの簡素なものだった。
この形のものは小型で軽いので、誰かが担いで運ぶには好都合だ。
その代わり、トモル自身は、これではほぼ動けない。トモルの麻痺は腰と背中の境目あたりから始まり、その下全部だ。腹筋で突っ張ることができないので、腕で車輪を回して漕ぐことが難しい。
要するに、この装備で来たということは、介助者が付きっ切りで面倒を見ることが前提なのだ。
「恥ずかしくないわけ?」神白はトモルを見下ろして言った。「何をしてるんだお前は?」
「ちょっとこっちのセリフなんだけど」と、トモルは言い返した。「なんで着拒するんだよ?」
「着拒なんかしてないよ。そろそろ退院してきそうだと思って、電源切っただけだよ」
「なお悪いじゃないか。てめえこそ何してるんだ」
「だってこの休暇中に電話してくる奴はお前くらいだもの。そしてお前と話したくないもの。なんの用事かは分かってるから」
「あー、そう、そうか」トモルは怒りと笑いの混じったような、凄みのある口調で言った。「で? 伊東君にも電源切らせたわけ?」
「え、伊東君?」神白は考えた。「さあ、彼のことには僕は関与してないけど」
「え? あ、そう?」
「伊東君にも電話したの?」
「いや、メールした。ショートメッセージで。『今からそっち行くからアキちゃんを捕まえておけ』って送ったら、そのあと反応が途絶えて、電話も繋がらなくなったから、あ、裏切ったな、って」
「……」神白は、昨日起きたことを遡るように思い返した。
伊東が唐突に「遠くへ行きたい」と言い出したのは、このためか。
「なぜ僕の居場所を……」
「お前たちは有名人だもの」トモルは胸ポケットからスマホを取って、振ってみせた。「僕は『チェイサー』にたくさん知り合いがいるんだぜ。『モンチェ』にも、『マスチェ』にもな。そしてご存知の通り、仙台駅近辺ならば、それとは別の人脈もある。本気で逃げる気なら怪獣サンのことなど忘れて九州あたりまで飛ぶべきだったな! まあもし、そうされたところで、こっちには他の手もあるんだけど」
神白は後半を聞き流した。「とにかくどうするんだよ。お前まさか身一つで来たの? 薬は?」
「薬は持ってきた」
「着替えは?」
「アキちゃんのがあるじゃんかよ。僕たち双子なんだぜ」
「急に体調崩したらどうする。僕は仙台までは送らないぞ」
「何とかなるさ。馬鹿だなあ」トモルは余裕の笑みを浮かべて、「急に体調崩したらなんてね、僕に限らないことなんだよ。アキちゃんはなぜ、自分は例外だと思えるのかね。誰だって突然心臓が止まる可能性はあるんだよ」
屁理屈を言うな、と言いかけたが、神白は言葉を飲み込み、次の一手を考えた。
「ところで伊東君は?」とトモルが言った。
「え、さあ、どこかな」神白は自分のスマホを取り出し、電源を入れ直した。
「なんだよ、一緒じゃないのかよ」
「いや、一緒だよ。たださっきまでちょっと別行動だったから」
気付くと、もう駐車場には神白の車しか無く、人影も一切なかった。
駐車場の外縁にぽつぽつと立っている外灯が、オレンジ色のフィルター越しに弱々しい光を放っているだけ。
ものすごく暗く、静かな、真夜中の公園だった。
祭りが終わったのだ。
「いなくない?」トモルが、初めて真面目な顔になり、少し不安そうに言った。




