予定を変えるふたり
それから30分間、エンジンをかけっぱなしの車内でエアコンの風を浴びながら、神白はスマホで漫画を読んだ。隣の席で、伊東はずっと英語の勉強をしていた。教科書風に見えるその本に、伊東は当たり前のようにボールペンであれこれびっしりと書き込んでいた。和訳を書いているのかと思ったが、よく見るとそうでもないようで、滑らかな筆記体で英単語や文章のようなものを書き込んだり、そこから矢印を引いて「あとでしらべる」と書いたりしている。
本は分厚く、偏った位置に折り癖がついていて開きづらそうだった。机の代わりとなるものも無いので、伊東は膝の上にそれを置いて左手で押し付けるように広げ、斜めに見下ろすような妙な姿勢で読みながら、書いていた。
車を停めた方向が悪く、伊東の座る助手席側にだけ、強い日差しが入っている。額に汗が浮かび、今にも雫となって落ちて行きそうだったが、彼は自分ではまったく気づかないようだった。
席を代わろうか、と声を掛けようとして、神白はためらってしまった。こういうときの彼は不思議な表情をしている。嬉しそう、楽しそうといった様子は欠片も無くて、どちらかといえば、すごく悲惨なものか、もしくは、遠く寂しいものを眺めるような顔をしている。ここには無いものを見ている。だから、そういうときに話しかけるのは、熟睡しているところを起こすような後ろめたさがあった。
「何?」伊東は急に普段の表情を取り戻しながら、振り向いた。
「いや、暑くない?」神白は少しほっとしたような気持ちで、言った。「そっちの席だけ暑そうだよ。代わろうか」
「別にいいよ」伊東はまた、本に目を戻した。
「好きだねえ」と、神白は言った。
「……ん、あ、何?」伊東は遅れて顔をまた上げた。
「いや、ごめん。邪魔した」
「100円ね」伊東は本に目を戻して言った。
神白は黙って車を降りた。レンタルショップの入口脇に自販機が数台並んでいた。そこで飲み物を2本買い、引き返す。それだけでまた全身がだるくなるほど熱くなってしまい、汗が流れ落ちた。
どう考えても、生半可な夏ではない。こんなふうに朝の早い時間帯から激しい熱気に襲われるようなことは、この地方ではほとんどあり得なかった。いつも、畑を見ながら祖父が心配していることといえば、「夏が寒くないかどうか」だ。そんな土地だ。
車に戻ると、伊東はスマホを見ていた。神白は黙ってスポーツドリンクの片方を渡した。
伊東も黙って受け取り、開けて一口飲んでから「あのさ、予定を変えていい?」と言った。
「え?」
「動物園と水族館、無しにしよう。飽きた」
「は?」
「福島へ行きたい」
「福島? さっきも言ったね。何かあるの?」
「無いけど、海でも見たいな」
「そう? 海なら、別に福島じゃなくても……」
「とにかくもうここは飽きた。考えてみたら、せっかくの長期休みなのに、なんで地元をうろうろしなきゃいけないの。どうせなら北海道とか沖縄に行きたいよ」
神白は笑えばいいのかどうか、迷ってしまった。
伊東はすごく真剣な目で、神白をじっと見すえた。「僕が、運転するよ。もう疲れただろ」
「いや……まだ大丈夫だよ。ただ……」神白は必死で頭を巡らせたが、伊東の唐突な心変わりのきっかけがどこにあるのか、まったく思い当たらなかった。
それに、「なぜ」と気軽に聞ける雰囲気でもない。伊東は少しも笑っていなかった。
かといって、機嫌を損ねたという様子でもなく、どちらかといえば伊東自身が何か不安を含んだ目をしていた。
「動物園は、もういいの」一応、神白は形だけ尋ねた。
「うん」伊東は短く言った。「ごめん。もういいや。飽きた」
「怪獣は? もし、今夜また秋田だったら、福島から間に合うかどうかわからないよ」
「あ、じゃあ、秋田でもいいよ。日本海を見ようか」
「いや、秋田という保証もないよ。何がしたいの?」
「うん」伊東はまったくの無表情になって首を傾げ、窓の外を見た。「とにかく、遠くへ行きたい」
「遠く、ねえ……」
神白はどちらかといえば、無駄に動き回りたくはなかった。予算が限られているからだ。だいたい、この調子ではどこに向かったところで、また「もういいや。帰りたい」とか言われかねない。
「じゃあ、秋田にしようか」神白は少し考えてから言った。「あの人たちは事前に会場の確認をしてると言ったね。だから結局は、秋田で何ヶ所か上映場所をピックアップしてるはずだ。もう何回かは秋田での上映があるんじゃないかと思う」
「そうだね。じゃあそれで」と、伊東は言った。
「伊東君、一応、聞くけどさ」神白は発進して、道路に出てから口を開いた。「僕を……」試してないよね、と聞きそうになって、神白は言葉を飲み込んだ。
そんなことを聞いてどうなる?
もし伊東がわざと無理難題を繰り返してこちらを試すつもりなら、それを指摘したところでまともな返答はしないだろう。
それに、単に何か理由があって「遠くへ行きたく」なっただけだとしたら、妙な勘繰りをされるのはやはり腹立たしいはずだ。
「何?」と、伊東は聞き返した。
「……伊東君はさ、なんで机にヤマザキパンのシール集めてるの?」
「ああ」伊東は笑った。「あれは先輩たちが勝手に貼るんだよ。研究室全員で貼ってくから、凄い勢いで集まるよ」
「え、何それ。後輩いじり?」
「ああ、イジリなのかなあ?」伊東は笑いながら首を傾げた。「いや、単に面白いからみんなで集めてるだけだと思うよ」
「だってそれなら伊東君の机である必要ないでしょ。僕なら、隣の席に全部貼り直してやるけど」
「え、そしたら隣の先輩は『いいの? くれるのこれ?』って言うだけだと思うな。あ、逆隣の人は滅多に研究室に来ないから、いない間にシール貼りまくったら確かにいじめっぽいな。そういう意味じゃ、一応相手は選んでるわけか」
「ノリがわからんなあ……君が気にしてないんなら、それでいいんだろうけど」
「気にするも何も、僕も率先して貼ってるし。結局、皿とは交換しないんだけどね」
「うん……やっぱり変わってますね」
伊東が神白自身に対して何か屈託がある様子ではなかったので、ひとまず神白はほっとした。
市街地の混雑を避けながら国道へ出るルートを、素早く考える。一昨日に来たときは夜中だったから、どこを通ってもスムーズだったが、この時間帯だとそうは行かない。
「まさか二往復することになるとは」神白は思わず呟いた。
「ごめん。手間とらせたね」伊東はごく普通に、真面目な調子で言った。「運転、替わるから」
「君の運転は不安なんだよ」神白は言い返した。「あとさ、君が謝った場合は僕が100円取り返せるんだよね」
「違うよ。そんなルールないよ」
「なんで。おかしくない?」
「神白、お前もう7回謝ってるからな。前払い分はあと3回だ」
「数えてるの。馬鹿じゃないの?」
「うーん。馬鹿に言われると殊更に腹立つなあ」
「机にパンのシール貼ってる人に言われたくないんですが」
まもなく、渋滞に捕まってしまった。
けれども、気にはならなかった。結局のところ、夏休みがまだ続いている。
神白にとってはそのことが何よりも重要だった。




