伊東の企み
気づいたらトモルに向かって、自分が元カノと別れることになったのは誰のせいだと思ってる、と、言ってしまっていた。それは完全な言いがかりだった。ただ、それなりに関係が深まっても神白の方から「親に紹介する」とか「将来のことを話し合う」という話を言い出せなかったのは、家に障害のある弟を抱えているという負い目のためだった。そのことは、ずっと自分だけの胸にしまっておくつもりだったのに。
トモルがどんな言葉と表情を返して来たか、思い出せない。
全てが取り返しつかなくなってから、我にかえると、ただそこには、期限内に実家の荷物を片付けなければならないという、重苦しいノルマだけが残っていた。
「泣くなよ」と、伊東が言った。
「え?」神白は笑おうとした。「僕、泣いてますか」
「泣きそう。ウザい」
「ウザいってねえ、他に言い方……」
「ガタガタと女々しい奴だなあ。継がなくていいんなら良かったじゃん。君にはどうせ向いてないよ。自分で向いてると思わないだろ?」
「思わないよ、もちろん、思わないけど」
しかし、はなから頼まれもしない、期待もされないどころか、トモルと比べられていたなんて。それは、薄々と知ってはいたけれども。
だから、ずっと、ずっと息苦しかった。あんな家にいたくなかった。ずっとだ。
あの家が嫌いだった。そのことを思い出してしまった。
嫌っていたことを、母に知られていた。
「この話まだ続ける?」伊東は穏やかな口調で、じっと神白に目を向けて聞いた。「それとも、僕がこのあと、どこに行きたいかを、話そうか?」
「そうだね」神白は思わず口元を緩めた。「このあとの予定をどうぞ」
「僕の研究室で忘れ物を取りつつ時間を潰してから、10時に動物園に入る」
「動物園?」
「そこが不発だった場合はそのあと、水族館へ向かう」
「好きなの? 生き物とか」
「いや、まったく」
「なんで急に?」
「すべては怪獣のためだ」
伊東の言い方が芝居がかって聞こえたので、神白は笑った。
「よくわかんないなあ。まあどうせ暇だからいいけど」
「暇じゃないんだよ、こっちは」伊東はまたスマホに何かを打ち込み始めた。調べものをしている様子だった。
「伊東君がそんなに怪獣を気にいってくれるとはね」
「まるでお前が用意したような言い方だな。イベンターってのは図々しいな」
「ほんとにあれ、呼べないかなあ」神白は思わず言った。「今度、大規模な野外フェスの話が出てるんだ。あの怪獣の何がいいってね、会場側の設備がほぼ必要ないってところなんだ。普通はプロジェクションマッピングみたいなのって、会場側にスクリーンの代わりとなるものが必要なんだ、だから出せる場所が限られる……打ち合わせも長いし、リハもしなきゃならない。あの怪獣はゲリラ的に出るでしょう? スクリーンがいらない。リハもほぼしてないんじゃないかな? あれはいいよ」
「たぶん死ぬほど電気代かかってるよ」と、伊東は言った。「君んところみたいな零細企業では持てないだろう」
「そんなの集客とスポンサー次第だ。だから結局は営業次第だよ」
「楽しそうだな」伊東はスマホに集中したまま言った。「君が座って書類めくりなどしてるはずないと思ってたけど。妙に長続きしてると思ってたら天職みたいで、良かったね」
「それ、馬鹿にして言ってます?」
「いや、別に」
胃もたれは続いていたが、何も食べないとなると空腹で、結局また街道沿いのコンビニに寄った。
「昨日からコンビニばかりで申し訳ないけど」エンジンを切りながら神白は言い、「あ、『申し訳ない』はオッケーだよね」
「いや何言ってんの。例外は認めないよ」伊東は手を差し出した。「100円」
「なんかこのルール僕に不利じゃない?」
「不利も有利も無いんだよ。早く100円」
神白は黙って千円札を出した。
「え、なに、お釣りがいるの?」
「いえ、10回分前払いで」
「ふざけんな。真面目にやれ」と伊東は言った。
「いや、真面目に考えたら、こんなことする必要ないよね。こんなのおかしくない?」
「おかしくないよ。お前がおかしいんだよ。一日に何回謝れば気が済むんだ」
伊東は結局、受け取った千円札を持って先に車を降り、コンビニに入って行った。
神白が追い付くと、彼はサンドイッチとおにぎりの並んだ冷蔵棚の前で「さすがに飽きたなあ」と言った。
「僕は、朝はお菓子だけでいいや」と、神白は言った。「小腹が空いただけなんだよね。伊東君はよくそんなに飲んだり食べたりして平気だね。二日酔いとかならない?」
「ビールじゃなあ。あれは飲んだうちに入らないよ」
酒に強い人は、みんなそう言う。ビールは水だと。神白には、その感覚はわからなかった。
「僕はもう少し我慢して、学食でたべる」と、伊東は言った。
「あ、学食って、朝も食べられるんだ?」
「そりゃそうだよ。朝昼晩だ。まあ、あれもあれで飽きるんだけどな」
「じゃ僕も食べてみたい。あれ? 部外者は入れなかったっけ?」
「別に。誰でも入れるよ」
結局、それぞれ飲み物とチョコレート菓子だけ買って車に戻った。
「運転、替わろうか?」ドアを開ける直前、伊東が聞いた。
「いや、大丈夫」神白は乗り込んだ。
「君は運転が好きだよな」と、伊東は言った。
「そうかなあ。嫌いではないけど。まあこれは自分の足だからね、田舎暮らしの人間にとっては」
「元気出せよ」シートベルトを締めながら、伊東は言った。
「うん……」神白は返事を考えた。「……いや、わりと元気だよ」
「もし運転し足りないなら、水族館のあとにもまだ運転させてやるから。福島なんてどう?」
「いや、勘弁してよ。僕は奴隷か」
「さすがに車一台じゃ回りきれないかな。先輩も呼ぶかなあ」伊東はまたスマホを見始めた。「けどな、呼ぶとウザいしな。どうしよっかな」
「伊東君。君は、何をしようとしてるの?」
「あれが映画だと言ったのは神白だろ?」伊東はスマホから顔をあげて、すごく真面目な目で言った。「ロケ地を知りたいんだ。探せばあるはずだ。あの怪獣のモデルというか、『出演者』もいるはず」
「……あれが、『実写』だっていうの?」
「だと思うよ。加工はされているだろうけど、想像図ではないはずだ」
伊東は何か確証がある様子で、きっぱりとそう言った。




