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怪獣を見るふたり(前)

黄色信号でブレーキを踏むタイミングが遅れ、神白かみしろあきらは、迷った末に結局急ブレーキを掛けた。軽自動車は横断歩道に半メートルほど飛び出して止まり、後部座席にあった鞄はバタンと床に落ちた。神白の身体も大きく前へ落ちかけたが、シートベルトのロックが掛かり、彼の上半身を無慈悲に引き戻した。神白は反射的に「ごめん、」と言って助手席の者の機嫌をうかがってしまった。


そこに座っているのが元カノではなく伊東龍一だったことを思い出して、神白は心からほっとしてしまった。しかも、彼は足元の方向へ半分ずり落ちたような姿勢のまま、ぐっすりと眠っていた。今の衝撃で腰の少し上に思い切りベルトが食い込んでいたが、彼の眠りは深いようだった。


「ね、伊東君」神白は青信号を見て発進しながら、意識して雑な手つきで助手席の男を揺すった。「もう着きますよ。起きて」


「……うん」伊東は少し経ってから、溜息と返事の混じったような声をあげ、それからすごく迷惑そうに目を開けた。「何時?」


「もうすぐ4時半」


「まだ夜じゃん」伊東はうめくように言った。「ちょっと信じられないんだけど」


「何が?」


「こんな眠い思いをして見に行くようなものなの? 僕、3時間しか寝てないよ」


「僕はその3時間ずっと運転をしてたんだけど」と、神白は言い返した。


「してたから、何?」


「なんで、運転してた僕が、寝てた伊東君に怒られないといけないの?」神白は言いながら、つい、おかしくなってしまって、笑った。


「なんでって、お前の用事だろ。相変わらず幸せそうなやつだな」

伊東はすごく皮肉げに言いながら、ずり落ちていた身体を助手席にきちんと戻し、また目を閉じた。どうやら、本当にまだ眠りたいようだった。


色が白く、華奢な男だ。二十歳を越していたが、つい、「少年」と言いたくなるような、頼りなげな風貌だ。目を閉じていてもはっきりとわかるほど、よく整った顔をしている。また、少しだけ襟足を伸ばした髪形や、眉を卒なく、怠らず手入れしている様子から、彼自身が自分の外見上の長所を十分に理解して、相当に自負していることがうかがえた。


この2年で少し変わったところと言えば、以前は真っ黒だった髪をかすかに明るめに染めているところか。それは、言われなければ気づかないくらいの色合いで、だからこそはっきりとした「こだわり」がそこに感じられた。


彼はなぜ恋人と別れたんだろうか、と神白は考えた。別れたということだけはLINEのメッセージで知らされた気がするが(それも、かなり前のことだ)、詳細を聞いていない。そもそも、最近彼がどんな風に暮らしていたのか、まったく知らなかった。


特に変わった事情が無ければ、今年で大学3年のはずだが。


「着いたの?」

車がずっと進んでいないことに気づいたのか、伊東はまた目を開けた。


「うん」

神白は横向きに身をひねって、相手をじっと見つめたまま、右手だけキーのほうへ伸ばしてエンジンを切った。


車は砂利敷きの駐車場に停まっていた。


「なんで、笑ってるの?」伊東は澄んだ黒い目で神白を見返した。「あとなんで、こっち見てるの?」


「見ちゃいけませんか」と、神白は言った。


「お前、何か、企んでるな」伊東は呆れたように言いながら、シートベルトを外した。「ここ、どこ?」


「言ったはずなんだけどなあ」神白もシートベルトを外した。

ドアを開けると、むせ返るほどの湿った冷たい空気が舞い込んだ。霧と、霧雨の、中間くらいだ。肌と服がみるみるうちに湿っていった。


空は半分ほど明るくなり始めていた。


それなりに広い駐車場が、様々な他県ナンバーの車でいっぱいになっていることに、伊東は驚いた様子だった。

「何。これ、何かの試合?」


「こっちかな」神白はリモコンキーで車をロックし、駐車場を囲う丸太の手すりの切れ目を示して、歩き出した。


伊東が隣に来ながら、当たり前のように神白の腕をつかんできた。神白はそのことに少し驚いた。


「こういうところ好きじゃない」

伊東は不安そうだった。


「ごめん」と神白は言った。「だから、ひとりで来るつもりだったんだけど」


「最初から、行かない、という選択肢はないわけ」


「え、だって僕は見たいもの」


行く手には森があった。駐車場の終わるところから、緩やかな谷が始まり、遊歩道のようなものが薄闇に呑まれて続いている。谷は鬱蒼とした樹々で埋め尽くされ、しかも、その余った隙間には今、重たい白い霧が満遍なく沁み込んでいた。


遊歩道をたどって、森へ向かって降りていくのは神白たちだけではなかった。


ある者はひとりで、また他の者は数名で連れ立って、それぞれ他の人間には見向きもせず、一定の方向へ歩いていく。若者が多いが、中年の者や、たまに老人も混じっていた。それに、どうやら一番多い組み合わせは、男女のカップルだった。


「いい思い出が無いんだよな、こういうところ」

伊東はまだ、神白の腕をつかんでいた。


「怖いですか?」と、神白は聞いた。


「うん」伊東はわりと素直にうなずいた。「だってさ、今だって確証はないわけだよ、絶対にいないとは言えないだろ、ゾン……」


「大丈夫だよ」神白は思わず、遮るように言った。

実をいうと、もうあれのことを思い出したくないのは、神白のほうだった。


伊東は神白の勢いに少し気圧されたようで、黙って、そのあと腕を離した。


神白はまた反射的に大きな不安を感じて謝ろうとしたが、一瞬後に、別にそう気を遣うような相手でもないことを思い出した。


本当に染み付いてしまっている。「元カノ」と過ごした1年ちょっとの日々が、こうなってしまうと、もはやトラウマと言ってもいいほどだ。


道は駐車場から見て右の方向へ勢いよく下っていき、それから、ヘアピンターンを描いて左の方向へ下って、その先でふたつに分かれていた。


どちらの道も、それぞれ別な橋に繋がっており、2本の橋は同じ小さな池の上を渡っていた。


池の水は重たい緑色で、藻と泥に満ちていた。水面をアメンボが這い回り、蚊柱も立っている。

伊東は橋を渡りながら本当に嫌そうな顔をしていた。


「ごめん」

やっぱり、神白は謝ってしまった。


「何が」

伊東の返事は冷たかった。この場所が好きでない、という以上に、眠くて仕方ないようだった。


「また、巻き込んでしまって」


「………」

伊東は黙って前を見たまま、すごく優しい微笑みを作って、すぐにそれを元の不機嫌そうな顔に戻した。


彼の場合、こういう表情のレパートリーは無意識にこぼれてくるものではなく、常にカードとして手元に揃えていて、いつでも自由自在に「使う」ことができるもののようだった。

変わっていないな、と神白は思った。


霧は、やはり霧雨だった。気付くとすっかり、服が濡れて重くなっていた。


橋を渡り切るとその先は樹々が途切れて開けていた。そのかわり、のっぺりと横幅の広い上り坂だった。階段やスロープは見当たらず、人々はそれぞれ思いついた位置から、芝生の斜面を踏みしめて登っていた。


靴ごしにもわかるほど柔らかく、気持ちの良い斜面だったが、濡れているので何となく滑る感じがあった。

伊東が足を取られて転びそうになったので、神白はその腕を取って支えた。


「何があるの?」

と、伊東は聞いた。


「言ったじゃない?」


「怪獣?」伊東はまったく本気にしていない顔だった。


「光るらしいですよ」と、神白は言った。


「光る?」


「うん、それに大きい」


「君の言ってること、説明になってないんだけど」


「でも、僕もまだ見たことないから」


神白にもよくわからなかった。ただ、ここ数ヶ月、ずっとSNSの一部の界隈で熱狂的な何かが繰り返されていた。それはイベント、祭りのようなものに見えたが、しかし計画された日程があるわけではなく、今日のように、突発的に、ランダムに始まった。「始まる」という呼び掛けがおこなわれると、連鎖的に「シェア」が繰り返され、その情報の伝播自体がひとつの祭りの様相を成した。場所も一定しなかった。今まで「怪獣」が現れた場所は、千葉、茨城、宮城、岩手。北上しているのでは、という憶測のもと、次は青森だとさんざん噂をされたが、結局今回は西に逸れて、秋田の沿岸部だった。


坂を登りきると、その先はまた下り坂で、更に前方には大きな水面が見えた。

辺りはまだ薄暗い。深く垂れ込めた雲のせいで、朝焼けは見られないまま、灰色の夜明けが来ようとしている。煙玉を投げたような濃い霧がもうもうと水面に立ち込めて、向こう岸どころか、この水面のだいたいの全貌すらわからない。小さな池なのか、巨大な湖なのか……水面が鏡のように静かなので、海や川ではないことは確かだった。


登ってきた人々は丘の頂上となるその場所に立ち止まり、めいめいスマホやカメラを持って、何かを待ち構えていた。


神白は急いで辺りを見渡した。右手の方にもうひとつ丘があって、その頂上には物見やぐらのようなものが立っていた。それは、その丘の斜面沿いに長く長く下っていくローラー滑り台の始点となっていた。

後ろを振り返ると、今抜けてきた樹々の生い茂る谷。元いた駐車場よりも、この丘のほうがまだ低い。空が遠く感じられた。

左手には、今いる丘の裾野あたりからまた鬱蒼とした森が始まり、しかもそれは緩やかな上り斜面となって、ずっとずっと、霧の向こうに消えるまで、続いていた。


滑り台のある丘はこちらの丘と同じくらいの高さに見えた。

とすると、あの滑り台の頂上に上がれば、ここよりも数メートルだけ高い位置に立てる。


「伊東君」神白は焦ってしまって、つい、前のめりな勢いで伊東に声を掛けた。「僕、あっちに登りたい」


「はあ?」と伊東は言った。


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