契約内容006-2
リンリンと鈴虫の鳴き声が煩いせいかしら。
眠れないわね。
今、何時かしら。アイムは流石に戻ってきてるわよね?
結局眠れなくて起き上がり、もう一度、猫籠を確認するもアイムの姿はない。籠の横では、すやすやと田中が鎖に巻かれたまま呑気に眠っている。全く、自分の主が行方知らずだというのに、これでいいのかしら?
「猫ちゃん、寝てる?」
突然、背後からイノッチに声を掛けられ心臓が飛び跳ねた。
「イノッチ、起きてたの?……えぇ猫なら寝てるわ」
イノッチに籠の中を見られないよう、そっと扉を閉めた。猫がいないとなって捜索騒ぎになっては困るもの。
「ン、そっか……」
どうしたのかしら? イノッチが私を見てはソワソワしている。
「イノッチ? どうかした」
「ン……くぅ~が、ため息ばかりついてるから。やっぱり婚約者さんと喧嘩したの? 途中でいなくなっちゃったのはそれが原因?」
「え……あぁ、違うわ」
そんなにため息をついていたかしら?
「ならいいんだけど、折角だから一緒にお風呂にいかない? この時間だと人が少ないから貸し切り状態で入れると思う」
そういえばアイムの事で一杯一杯で、まともに温泉に浸かった気がしない。
「そうね……ちょっと気分転換に、行ってこようかしら」
「ン、じゃあ、一緒に行こう?」
向かった先は、大浴場。イノッチの言うとおり、この時間帯は誰もいない。二人っきりの貸し切りだ。白い大理石で作られた浴室の窓からは、月が見える。今夜は満月のようね。外が明るい。
「きもちいいね、くぅ~」
「ン~、そうね」
月を見つつ体を癒せるなんて素敵だわ。
「ね、婚約者さんの事、イノには相談してくれないの?」
唐突の発言に、ズボっとお湯の中に飲まれそうになった。
「え、婚約者といっても……」
契約上の関係でそれらしい事はした事がない。せいぜい手を繋いだぐらいなのに。
「ン? 上手くいってないの? 恋の悩みなら聞くよ」
「こ、コイ?!! 私が?」
恋だなんて、全然違うのに。婚約はアイムと悪魔の契約をしただけの──って悪魔とか信じてもらえるわけがないし。
「イノッチ、あの……
「恋の悩みなら、あたしにおまかせ! 乙女の恋の指南役、ガブリール参上~♪」
ジャバーンと何処からともなく、女の子が上から降ってきて、お湯の中に沈没した。
おかしいわね、天井があるのに何処からふってきたのかしら。まさか天井に張り付いていたの?
「大丈夫かしら」
「ン……」
「ぶはーーーーっ。死にかけたぁ。天使が墜落して死ぬとか笑えないよぉぉ」
白いワンピースを着たまま少女が湯から顔を出した。水色の髪が顔にまとわりついてて、ちょっとホラーね。
「貴方……ここお風呂だから、せめて服は脱いだ方がいいと思うわ」
「ほんとだーーーっ、お風呂だ。でもなんでお風呂なの? 今の時間、人間は寝てるんじゃないの??」
大丈夫なのかしらこの子。あと、お子様も寝てる時間だと思うわよ。
「まぁいいや~。で、どっちがクミなの? この可愛い少女?」
自称、恋の指南役、ガブリールがイノッチを指さす。
「久美は私よ」
何かしら。なんだか嫌な予感がするわ。服装と髪色的に。しかもさっき天使とか言ってたような。
「あ~そっちかぁ。うんうん。貴方がミカエルが言ってた変な娘ね。隠れて見るだけのつもりだったんだけど、恋バナなんてしてるじゃない? これあたしの専門じゃん? で、参上したわけよ。さぁ、さっさと相談しなさい」
ミカエルってあのミカエルよね。さっきガブリールと言っていたけど、天使ならガブリエルってことかしら?
「今度は何を押し売りする気?」
「押し売り??? 違うわよ! 恋の指南よ!」
つまり指南の押し売りね。
「ンっ!!! 背中から、は、羽……ガブ、ガブリ……」
しまった。イノッチがいたんだったわ。
「そこのちびっこ! この羽は作りものでテンシチガウヨ、あたし、恋の指南役ってイッタジャナーイ」
ガブリエルが今更とばかりに誤魔化してるけれど、焦りの為か羽がわさわさと動いている。すでに天使だと自爆してるし、誤魔化す事はもう不可能が気がするわ。
「えぇぇと……(クミ! 助けなさいよ!)」
「(無理よ)」
視線でモールス信号を送らないでちょうだい。
「ン、ワカッタ。恋の指南役さんなんだね、なら相談にノッテクレル?」
イノッチ、面倒くさくなって、現実を投げ捨てたわね。目が死んでるわよ。
「ふふ~ん、いいわよ。恋の悩みをいってごらんなさい」
「ン。好きなヒトはいるけれど、その人は友達以上には絶対見てくれないの。どうしたらいい?」
イノッチ……辛い恋をしているのね。こんな可愛い子を友達以上に見れないアホは誰なのよ。
「はぁ? もっと勇気をだしなさいよ。あんた、見た目はすっごく可愛いんだから。そこの普通顔よりは全然可能性あるでしょ。まぁ、ムッチリが好きな奴だと難しいかもしれないけど」
「ムッチリ……」
イノッチが控え目な胸に手を当てて落ち込んでいる。
ガブリエル、よくもイノッチを。あと私を引き合いに出さないでくれるかしら。
「で? そこの普通顔──え~と、クミ、あんたは?」
普通顔で悪かったわね。
「私は別に恋なんてしてないわ」
「いいえ! あたしはこれでも指南役。貴方が恋していることはわかるわ」
さすが天使。食い下がらないわね。
「なら、聞くけれど。猫が好きなの、好きすぎて好きすぎて、毎日イノッチが作る可愛い服を着せる妄想をしちゃうんだけど、どうしたらいいかしら?」
「それは病気よ。治らないから諦めなさい」
即答……。
「くぅ~、イノの服をそこまで愛してくれるなんて」
イノッチ、赤面するポイントがずれてると思うわ。
「なら相談する事なんてないわ。そもそも私は男性とそういう関係になった事がないからわからないのよ。具体的にどう感じるものなの?」
「え……」
ガブリエールが真っ赤になって固まっている。まるでアイム2号ね。
「それは、ドキドキして顔が熱くなって、えとえと……下半身む、むむむむむ無理~~。や、だってあたし天使だし、肉体関係とか。しかも感じ方って……あ、あんた乙女のくせになんて破廉恥な事を聞くのよ」
「……」
どうして肉体関係の話になったのかしら。
「感じ方って、むふふふっ。それは自分の専門ですかねぇ~。ではこの田中めがお教え──っ痛、死ぬ、お嬢さんっ、羽はやめて。マジで死ぬから」
「どうやってあの鎖から抜け出したのかしら? 田中」
そして、しれっと一緒に入浴してるんじゃないわ。
「鎖で縛りはプレイだったんじゃ──っっ痛、スイマセンっ冗談です。でも超上級天使とか、何、引き寄せてんですか? 自分は最弱悪魔だっていったでしょう? 護衛にも限度がありますよ? だから見捨てて逃げていいですか?」
田中がガブリエルにビビりながら私に耳打ちしてくる。本当に契約を守る気があるのかしら、この変態は。でもまずいわね。天使と悪魔が遭遇ってミカエルとアイムの時のようになったら困るわ。イノッチが怪我をしたら大変だもの。とりあえず──
「田中、風呂からでるわよ」
「待ちなさいよ! でかおっぱい!」
ガブリエルがズビシィ! と田中を指さす。
「……ナンデスカ?」
あの、田中から冷や汗がどっとでている。天然少女だけれど、ガブリエルって漫画によるとミカエルクラスに強い天使だったはず、どう考えても勝てないし、どうしたらいいかしら。
「このあたしが、あんたを逃がすと思ってるの?」
やっぱり殺る気ね。
「お前も恋をしてるって顔じゃない。あたしに相談しなさいよ」
え??
ミカエル……貴方の仲間、ちょっと、いえ、だいぶ変よ。
「いや……自分は間に合ってますんで」
田中が縮こまりながら言う。
「遠慮はいらないわ。さ、いいなさい」
「はぁ……もう過去の話ですけど、好きな子が他の奴と幸せそうな顔をするのを見ると、心がえぐられるぐらい辛いのに、そのほうが生きてるって感じがするって気持ち、どうしたらいいと思います?」
どうしたの田中?? マジな顔で、相談するなんて。でも内容が怖いわ。
「それ、あんたが度Mって話? はぁ~めんどくさくなっちゃった。そろそろおやつの時間だから帰るわね。じゃっ」
田中に聞いておきながら、メンドクサイと片づけたガブリエルは、全身を光らせ瞬時に姿を消してしまった。お子様だし田中の悩みよりも、おやつのほうが重要みたいね。
「天使にくせに、ひでぇ……」
本当にね。でも天使と悪魔の喧嘩になる前に帰ってくれて良かったわ。これもガブリエルが天然なおかげね、と、ほっとして風呂から上がり、着替え中、ちょっかいを出してくる田中をぶったたきつつ、脱衣所からでると、男風呂から瀬尾部長と──
「ア(イム)……」
いけない。うっかり真名を言いそうになったわ。
「貴様……」
アイムが私を見て、なにやらむすっとした顔を向けてくる。まさかまだ怒っているのかしら。それにしてもどうして二人が一緒に? まさか、知り合い?
「あれ? アルジ、瀬尾部長と一緒だったんですか? お嬢さん、ずっと待ってたのに」
ひょいと田中が私の肩越しから顔をだしながら言う。
「それは……っと、待てタナカ。お前こそ何故、貴様と女湯から? まさか一緒に?」
「んふふっ、気になります?? お嬢さんたらぁ~好きな人の感じ方とか聞いててぇ~」
「田中ちゃん、メっ」
イノッチの制止を無視して田中がなにやらヒソヒソとアイムに耳打ちする。
「っ、な……本当か?」
田中ったら、何を言ってるのかしら? か、感じるとか、アイムが勘違いするじゃない──って、おかしわね、なぜ私が後ろめたい気持ちになるの?
「久美君! 彼とは知り合いなのかね?」
「えっ?」
突然、瀬尾部長に質問され頭が真っ白になってしまった。
「アイムは、その……っぁぅ」
思わず口元を手で覆ったが遅かった。アイムの事だから部長には猫宮アイルと名乗ってるわよね。
「なんだ、真名を知っているのか? これは、これは」
「部長??」
バシバシと瀬尾部長が笑いながら肩をたたいてくる。その強さが半端ない。まって真名ってことは部長も……。
「セオ、あと、久美もワタシの名前について話すな」
「あ~悪かったな。まぁ別に構わんではないか。脅威となる者はいなかろう?」
「どうだか」
脅威? 何のことを言ってるのかしら。
「あと久美、今日は戻らんから先に寝ていろ」
え?
「田中、久美をたのんだぞ。あと、一緒に入浴は禁止だ。次はないと思え」
「おぉコワっ。わかってますって。で、アルジは?」
「今のワタシを見たら説明などいらぬだろう?」
「やっぱりですか? でもアルジ、自分がこのままいて大丈夫なんです? せめてお嬢さんには説明してやらないんですか?」
「必要ない」
「ぇぇええ」
どういう事? アイムに聞こうとするも、無言のまま、きびすを返し姿をけしてしまった。
なんなの? 私には言う必要はなくて、でも田中はちゃんと知ってて。気に入らないわね。帰ってこないから心配していたのに。もう勝手にすればいいわ。
「くぅ~?」
私の腕を、イノッチが引っ張る。
「アイムの所に、行ってあげて。心配だったんでしょう?」
「別に心配なんか。もう眠いから私は寝るわ」
私とアイムはただの契約関係だもの。心配なんてするもんですかっ。
「久美君!!!!」
「ひっ」
瀬尾部長の突然、名前を呼ばれ背筋がピンと固まった。
「部長??」
「見損なったぞ。君のにゃんこ愛はその程度なのか? 君は言っていたではないか、私のにゃんこ愛はマリアナ海溝よりも深い、と。奴を追うのだ」
瀬尾部長、何故、私の名言を。あとにゃんこ愛に何の関係が。
「さっさと、いけ!!! いかぬかぁぁぁ!!」
「ひっ、はい」
瀬尾部長の威圧におされ、無意識にアイムが去ったほうへと走りだしてしまった。
☆☆☆
結局、あれからアイムを見つける事はできなかった。道端にあった足湯の中までのぞき込んではみたけれど見当たらない。瀬尾部長に言われて思わず来てしまったけれど、そもそも瀬尾部長は何者? アイムの事を知っていたみたいだし。よくよく考えてみたら、あれは着ぐるみじゃなくて豹の悪魔かなにかじゃないかしら。そっちの方がしっくりくるわね。だけど今は瀬尾部長よりもアイムだわ。
「全く何処にいったのかしら?」
地の利がない分、色々と不利ね。まぁ向こうにもないだろうけれど。でもアイムは猫や蛇にもなれる。子蛇などになられたら、月夜とはいえ、暗がりの中を探し出せるとは思えない。
もう駄目。
1時間ほど探したが見つからず、疲れ果て、とうとう地べたに座り込んでしまった。しかも足はサンダルだ。長く歩けるはずもない。もう秋だからかお尻は冷たいし寒い。風呂上りのまま来てしまったからパジャマのままだ。泥だらけだし帰ったら着替えないと。
そもそも、何故、私がアイムを探さないといけないの? 田中が詳しく知ってるみたいだし、私が探す意味なんてあるのかしら。観光地とはいえ、深夜は真っ暗で人気もない。私が探しに行く方がかえって二次災害になりそうね。熊とかでないといいけれど……。
立ち上がり、ズボンをの土をはらうと、地べたがほのかに青白く光っているのが目に入った。
「これは魔法円?」
どこかで見た事があるわ──たしか、アイムがミカエルから逃げる時に使っていた……。
ほのかに青く光った魔法円に両手をつくと、大声でアイムの名前を呼んでみた。アイムは真名がらみで、名前を呼ばれるのを嫌がる。
だから、ちょっと罪悪感がわくけれど……。
「貴様ぁぁぁぁ! いいかげんにしろっ」
予想通り、眉間に皺を寄せながらアイムが魔法円から飛び出してきた、が、心なしか顔色が悪い。
「何処にいってたのよ! 心配したじゃない」
「……。別に貴様には関係のない事だ」
「殴るわよ」
途端、アイムがうっという顔をすると、観念したのか溜息を一つ吐くと
「体が……もたん」
とだけ言い、気まずそうに視線をそらした。
「どういう事? 怪我の具合が悪化したの?」
今頃になって、あの、腹の傷が悪化したのかしら。
「違う……何故か地獄へと体が引っ張られる。魔法円で結界をはり休んでおったのだが、回復が遅い。最初は田中を永続的にワタシが召喚したせいかと思ったのだが、それごときでここまで持たないはずが」
「それならそうと言ってくれれば。あ、イノッチがいたから?」
「違う……」
アイムがそわそわと視線を泳がせる。
「だ、大公爵たるワタシが、体も維持できないなど、かっこ悪いではないか」
「……。本当に無駄にプライドが高いのね。なら、一旦田中を戻すのは? そうすれば元気になる?」
「今は駄目だ。気に食わんが今回はソウシの奴に相談したほうがいいやもしれん。ワタシに起こってるとなるとあやつも」
あのアイムが壮士を頼る?? それってよっぽど体がまずいって事なのかしら。
「なら私が田中と契約するわ。そうすれば少しはアイムの負担も減るでしょう?」
「愚か者! タナカは貴様の真名を知っているのだぞ。言っておくが【タナカ】は真名ではない。従わすことはできんし、ワタシも教える気はない。なにより貴様が他の悪魔と契約するなど……」
「許せるものか」
擦れるような小さな声でいわれ、ドキリと心がはねた。
なにかしら? まるで私を独占したいと言われてるようで、心がくすぐったくなるような。恥ずかしいような。
「なんだ、貴様! 何がおかしい」
「可愛らしくて?」
「なっ──この大公爵たるワタシに可愛いなど、なんたる屈辱っ。どうせまた猫のワタシを妄想していたのだろう?」
猫。そうね、猫アイムはかわいいわね。猫の姿でツンとしつつも照れる姿とか、ぐふふふ。
「貴様……顔が凄く怖いからやめろ」
「酷いわね。なら貴方と契約をもっと結べばいい? たしか重複契約すれば、こちらでも強く力が持てるのでしょう?」
「重複──そうか貴様は魔力のないただ人であった。ワタシへの扱いが歴代契約者の中でもずば抜けて悪魔的であったゆえ、失念しておったわ」
「悪魔的って失礼ね……って、どうしたの?」
アイムが妙に深刻な顔をしている。
いつもなら契約しようと言ったら、目の色を変えて困った要求を言ってくるのに。まさか水着の件で警戒をしてる? まぁ、確かに下心として猫服レパートリー50選が出てきた事は否定しないけれど。
「貴様とワタシのつながりは、契約上のものだ」
「え? そう……ね?」
突然、なんなのかしら?
「……」
「アイム?」
「契約上の婚約者で、契約したから婚約者として振舞うのであって、契約の対価で手を繋ぎ、契約だから水着を着、契約だからデートする……それだけの関係だ」
契約事項の確認?……まさかクレームかしら。やばいわ、猫服の事とか色々と後ろめたい。
「そ、そうね」
「ぅ………自分で言っててこうも辛いとは」
辛い? 今までの契約を走馬灯のごとく思い出したのかしら。確かに水着の件はやり過ぎたかもしれないわね。
「最後に確認だが、普段は見えないものが見えたりしたことがなかったか?」
「そういえば田中が羽が見えるのかと言っていたわ」
「あやつめ、知っててワタシに報告しなかったな。余計な事を」
アイムが、舌を鳴らしてぶつぶつと怒っている。
「このまま放置すると貴様は【悪魔】になるやもしれん」
「え?」
「なりたいか? 悪魔になれば老いや寿命の心配もないぞ」
アイムが試すかのように私を見てくる。
「いいえ。私は私でいたいわ」
「……」
暫くの沈黙の後、アイムはふっと笑うと紙きれに何やら書き込み、それを私に差し出してきた。
「さすがは貴様だな。久美、ワタシとの最後の契約だ。サインしろ」
「え? 最後ってどういうこと」
「最後は最後だ。安心しろ、魂や貞操を奪う対価はない」
アイムの顔が冷たく暗い顔へと変わる。この顔は冗談で言ってるわけじゃないみたいね。
受け取るべき? でも本能的に手が拒否して動かない。アイムの顔にちょっとでも受け取って欲しくない素振りがあれば、何か言い返してやろうかと思ったのに、冷たく空虚な目をするから言葉が出てこない。
「どうした? 手が止まっているぞ? 受け取れといっている」
アイムはいつまでも受け取ろうとしない私に痺れを切らしたのか、無理やり腕をつかむと手に紙きれをねじ込ませてきた。
「読め」
「……」
つめたい声に促され、震えながらぐしゃぐしゃになった契約書を開く。
【アイムと田中久美の契約書006】
『久美は悪魔と結んだすべての契約を解消するかわりに、悪魔に関する記憶を全て差し出さなくてはならない』
「これはどういうことなの?」
「契約を解消し、貴様との魂の関わりを絶つという意だ。ただ人である貴様は魔力のある人間に比べ、悪魔に対する耐性がない。ゆえに契約を繰り返すと、悪魔側に魂が引き寄せられる。だが関係を絶てば、ソウシもワタシもこの世界にとどまれん。さすれば理により貴様の魂も元に戻るはずだ。記憶をなくせば、我らの真名も忘れる、契約解消の対価としても問題ない」
関係を絶つって、忘れるって……アイムの説明が頭に入ってこない。
「アイムは地獄に帰りたいの? 猫服が嫌だったのならもう着せたりしないから」
「違う、そうじゃない。話を聞いておったのか? どのみち、このままではワタシは地獄へと引き寄せられ、貴様は人として体がもたなくなる。面倒な事になる前にワタシとソウシを手放せ。貴様は面倒くさい事が最も嫌いではなかったのか? さっさとサインしてしまえ。そして悪魔の事は二度と思い出すな。人として生きるのだ。そうすれば平穏に生きられる」
思い出すな、ですって?
「アイム」
「何だ? サインする気になったか?」
「説明が回りくどくて面倒くさいわ。もっと端的に言ってくれないかしら」
ピシっとアイムの真面目な顔にヒビが入ったような音が聞こえた気がした。でも本当の事だし仕方がないわ。
「きさまぁぁぁ! 面倒くさいのポイントが違うだろう。本当に貴様は貴様だな。この大公爵たるワタシが貴様みたいな何の取り柄もない人間を気にかけ、丁寧に説明をしてやったのになんだ、説明が回りくどいとか。そもそも悪魔の契約は複雑だ。説明してもきりがないほどにな。大抵の者はしっかりと勉強をし、命がけで契約を申し出るというのに貴様ときたら、ほいほい契約しようとするわ、契約内容も猫関係ばかりで美悪感覚もな
「あぁ~もう長いわね。アイムの気持ちはどうなの? 私は貴方と一緒にいたいわ」
「いた……ぅぇ?」
アイムは一瞬、口をあわあわとさせた後、何故か疑うような視線をおくってきた。失礼ね。嘘偽りなんて一切ないのに、なんなのかしら。
「どうせワタシの肉球が目当てであろう」
ちょっと待って、人を体目的だけの最低人間みたいに言わないでもらえないかしら。
「それもあるけれど」
「あるのか」
といっても50%ぐらいしか該当しないわ。
「それだけじゃないわ」
「わかっておる。猫服だろう? フリフリの水着や服を着せるのが好きだからな?」
「さっきから何なの? 猫好きの変態みたいに言わないでちょうだい。貴方の悪魔時の猫耳や、銀の髪だって触るのが好きよ。それに勝手に地獄に帰られたら、手狭な1LDKがなんだか広くなって、寂……寒く感じるじゃない。もうすぐ冬なのに困るわ」
人が必死に訴えているのに、アイムは一瞬きょとんとした顔をすると、くくくっと声を抑えて笑いだした。
「ワタシは貴様の暖房か何かなのか。あといつの間にワタシの髪を触った?」
「う、アイムが寝てる時……」
しまった。こっそり触れて遊んでたのがばれてしまったわ。
「まぁ、知ってたが」
「知っ……」
「あと猫好きの変態は事実であろう」
騙したわね。悔しいのに嬉しそうな顔をアイムがするから怒れない。きっと言い返したくても胸の鼓動がおかしくて、顔も熱いし冷静に考えられないせいだわ。
「ふふん、そこまでワタシと一緒にいたいか」
上から目線でアイムがご機嫌に言ってくる。
むかつくわね。私の魂が悪魔側になるとか変な事言って振り回しておきながら……まって、悪魔側? それは……。
「今度会ったら殴るつもりだったけど、速攻殴りに行くことになったわね」
「待て、なぜ今すぐ殴る話になったのだ。今日はまだ何もしていないぞ」
アイムが私から数歩離れて、ビクビクしている。失礼ね。殴るといっても貞操と魂の危機を感じた時だけじゃない。人道的に私に非はないはずよ。
「アイムではないわ。もしかしたら魂が悪魔側に傾いたのはアイムの言う……なんとか? じゃないかもしれないわ」
「なんとかだと? 貴様……やはり説明をちゃんと聞いておらんな」
だって長いのよ。
「とにかくその契約は破棄よ。旅行から帰ったら、壮士に会いに行きましょう」




