契約内容006-1
長くなってしまったので前半と後半に分かれます。
「お~これが、井上課長のご両親が経営する温泉宿ですか??」
田中が子供みたいにはしゃぎまわっている。先月、入社したばかりだというのに、社交性の高さで今や社内で彼女の存在を知らない者はいない。特に男性陣からは熱視線が……これも夢魔の力というところなのかしら?
「ン…社員旅行には温泉がいいと思って。久美は気に入った?」
鈴のような愛らしい声で聞いてくるのは、私の上司、井上課長。アイムの水着の製作者でもあり私の親友でもある。歳はまだ16歳なのだけれど海外の大学を飛び級で卒業し、うちの会社に何故か勤務しているスーパーエリート。本日は二対の赤い角型カチューシャと黒のゴスロリスタイルでキュートにキメている。特に肩の白猫のバッジが可愛いすぎて、ぐふふっぐふふふ──て、いけない、田中に、お巡りさん、こちらですって顔で見られているわ。冷静にならなければ。
「えぇ、温泉と聞いていたから和風だと思っていたのだけど洋風も素敵ね」
本日宿泊する予定の宿は、ヨーロピアンスタイルな宿だ。ヨーロピアンと言っても近代的というよりは中世の宮殿のような作りね。普段着の社員よりゴシックスタイルのイノッチのほうがしっくりきている。
「ふふっ、久美の為にママにお願いしたの。このお宿なら猫ちゃんも連れてこれるから」
「ごめんね、イノッチ」
うちのアイムのせいで。
毎年、夏の終わりに行く社員旅行に今年は猫がいるから行けないと告げた途端、猫でもいける宿をイノッチが手配してくれた。でもうちの会社が出せるような費用の宿ではないと思うのだけど……深く考えるのはやめておきましょう。
『久美! 着いたのか? いいかげんにこの狭い籠からワタシをださぬか!!』
心話しながらアイムがピョコっと籠から顔を出す。ちっ、誰のせいでイノッチに迷惑を掛けたと思っているのかしら? 部屋についたら肉球愛撫の刑にしてやるわよ。
『久美……だから心の声が駄々洩れだからな。相変わらず己の欲望に正直な奴め』
ため息交じりにアイムが言うと同時に、やぁ~んという女子社員の黄色い声が鳴り響いた。
「あれぇ~久美ったら猫を連れてきたの~」「やだぁ~可愛い」「撫でていいでしょ~」「わたしも~」
わさわさと女子社員がアイムを次々となでていく。興奮しきった女子の一部がとうとう私の了承なく、勝手に籠からアイムを出すと、抱擁や頬ずりまでし始めた。皆、ブラック会社で癒しが足りないのはわかる。けれども、このままだとアイムのヒットポイントが尽きてしまうわ。
「悪いけれどその辺にしてくれないかしら。うちの子はシャイなのよ」
さり気なく固まったアイムを取り返すと、ブーイングが始まってしまった。アイムったら、相変わらず押しには弱いんだから。女子社員も癒されたいなら、悪魔と契約でもすればいいと思うわ──って、私ったら、何をイライラしているのかしら?
「静粛に!」
低音の響く声がブーイングを瞬時にかき消した。あれほど煩かった女子たちがシーンとするものの、どうしてここでもといった視線を、女性社員だけでなく男性社員までが声の主にぶつけている。
──みんなの気持ちはわかるわ。私も毎年、思っているもの。
「旅行でもその恰好?」「やっぱりあれが本体じゃない?」「昨年もあれだった」「風呂でもあれだった」
などといった声がヒソヒソと聞こえてくる。
うちの会社の服装は寛容を通り越して自由。ゴスロリスタイルのイノッチをはじめ、皆、好きな服装で出社している。田中など調子にのって際どいレースクィーンの恰好で出社したが、それでも怒られなかった。(ただし私は怒って殴った)
それは声の主である瀬尾部長が豹の着ぐるみで出社する為だ。むしろそれが本体なのではという説まである──少なくとも中身を私は見たことがない。着ぐるみといってもモフっとした感じではなく、ムキっとした筋肉質な体型だ。豹が二足歩行になり、ムキムキマッチョのスーツ姿になったと言った方がわかりやすい。一度でいいから、あのマッチョにゃんこをマッサージしてみたいのだけれど、何故か隙がないのよね。
「今年は、井上課長の出資もあり、いつもより豪勢なホテルに宿泊できる運びとなった。飲み会までは各自、自由時間とする。以上、解散!」
周囲の視線を吹き飛ばす勢いで、瀬尾部長が解散の声をあげると、皆、パラパラと各自の部屋へと移動していく。その後は観光地へ向かう者、部屋や温泉でのんびりする者など様々だ。
私とイノッチと田中も部長の号令を合図に、振り分けられた部屋へと足を向けた。部屋は私とイノッチ、田中の3人だ。
「田中ちゃん楽しそうだね」
スキップしそうな勢いで歩く田中を、イノッチが微笑ましく見ている。
「わかりますぅ~? 温泉ですよ? 酒と裸、まさに酒池肉林! ぐへへへっ」
田中が下種な笑いを浮かべる。美人が台無しね。あと目が赤くなってるわよ。
「しゅち……田中ちゃん、言い方がちょっとエッチだよ!! イノはそういうの……」
イノッチが顔を赤くしながら震えている。全く田中ときたら……この私が事前対策もなしに貴方を連れてくるわけがないでしょう?
「田中、大浴場の利用は貴方だけ禁止よ」
「酷っ、風呂なしなんて。お嬢さんと違って汗をかきやすいんですよ? 胸の辺りとかぁ~」
嫌がらせのように、田中が胸をいやらしく強調する。
むかつくわね、私はこれでも平均は……というかアイム、突然復活して『平均だったのか?』と心話で確認するのはやめなさい。殴るわよ。
「部屋に露天風呂がついてるから、汗ならそこで綺麗にしなさい。ついでにアイムも洗ってあげて」
「ええええええええ」
『久美! このワタシを馬鹿にしておるのか? 体ぐらい自分で洗えるわっ』
「猫の姿でどうやって洗う気なのよ? 嫌なら飲み会の間にこっそり人型になって洗うことね」
全く、アイムも田中も煩いんだから。
「くぅ~? 誰とお話してるの? 人型って何?」
「……ぁ。ぐほほほほっ、私ったら、猫が好きすぎて、脳内で擬人化妄想してしまったわ」
「そうなんですよ~、お嬢さんったら擬人化が大好きで。あ~んなことや、こ~ん──ッッタタ、お嬢さん羽は痛いっいたいぃぃぃ」
田中、こういう時だけノリノリに合わせなくていいのよ。
「羽?……」
「へへへへ」「ぐほほほほ」
「ン?──二人とも、すっごく仲がいいんだね。なんだかイノ、寂しいな」
イノッチがショボンとした目で私と田中をみる。何かしらこの可愛い生き物は。思わず抱きしめようとしたら、突然イノッチが「わすれてた」と立ち上がった為、広げた両手は空をきってしまった。その様を田中がニヤニヤと上から目線で見てくるものだから、腹立たしい。
「忘れたって?」
「ン、瀬尾部長に今日の飲み会の会場について伝える事があったんだ。くぅ~達はお部屋でゆっくりしてて」
たたた~と愛らしい足音を立ててイノッチが部屋を去る──と同時に、アイムが籠から出ると人型へと姿を変えた。宿泊客と思わせるためか、悪魔温泉と書かれた浴衣を羽織っているけれど、洋風の部屋にそれはアンマッチだと思うわ。
「うぅ、さすがに今回は死ぬかと思ったぞ。何時間、悪魔を籠に入れる気だ? しかも出た途端、女どもがわらわらとこのワタシに馴れ馴れしく触りおってっ。悪魔化して魂を奪ってやろうと何度思った事かっ」
その割には真っ赤になって固まっていたわよね、アイム。
「仕方ないでしょう? 社員以外はこれないんだから。まぁ、今日は田中とゆっくり入浴してなさい、ただし猫でよ」
「貴様、いいかげんにしろよ? 何故ワタシが猫のままでおらんといかんのだ」
「貴方がどうしてもついて行きたいって我儘を言ったんじゃない」
「わがまっ……このワタシが心配で来てやったというに」
ぷぃっとアイムが顔をそむける。まるで子供ね。悪魔を連れてくる方がかえって心配が増えるというのに。
「も~、アルジったら、素直に他の男との接触が嫌~といえばぐぼhぅわ……アルジ、痛い。マジで死ぬ、死ぬ」
本当にこの二人ときたら。ってアイム、それ以上やったら田中の羽がもげると思うわ。
「とにかく今回は、大人しくしてちょうだい。あとでどこかへ連れて行ってあげてるから」
「連れていくといえば、お嬢さん、アルジとのデートはどうなったんです?」
途端、ピクリとアイムが固まる。
いつか田中に聞かれるとは思っていたけれど、今、聞いてくるなんて。
「まだ決まってないわ」
「ぇーーー!! あれから1か月たってますよね? アルジったらなんにも計画たててないんですか? それともお嬢さんまかせ……ありえねぇ」
「違う、貴様が却下しおるのだ」
「あたりまえでしょう。まぁいいわ、田中、参考までに貴方の意見を聞かせて」
「──ん、まぁ自分でよければ」
「悪魔温泉とか、悪魔遊園地ってどこにあるの? 私がいける場所?」
田中が返答の代わりとばかりに大きなため息をつく。やっぱりね。私がおかしいわけでなくてよかったわ。
「それ……地獄世界では、新婚旅行でいくメインスポットですけどね、人が行くと体がもちません。アルジってば焦りすぎですよ」
「む……こちらの世界の事などわかるかっ」
「それで、部屋に旅行のガイドブックが何冊も転がってたんですね。情報が多すぎてわからなくなったってパターンですか?」
「違っ、別にワタシは……」
「だから、ニャンシーランドに行こうっていってるじゃない。貴方の猫と一緒にラブラブ旅ツアーよ? パンフレットまで持って帰ってあげたのに、アイムったらプンスカ怒って」
「……お嬢さん、それはアルジがかわいそうです」
田中が駄目だこの二人……と言いながら頭を抱えている。失礼ね、すくなくとも私のデートプランなら、アイムの身体には何の問題もないじゃない。
「デートってナニ?」
気配もなく、突然、愛らしい声が背後から投げかけられ、私を含めアイムと田中の肩までビクリとなった。
「イノッチ……いつの間に」
「忘れ物をとりに……くぅ~、この男と知り合いなの?」
イノッチが、アイムを指さしながら、ものすごく警戒している。
しまったわ。アイムは今、人型のまま。どうしましょう。なんて言ったらいいのかしら。
「井上課長! この人、お嬢さんの婚約者なんです。社員旅行に、こっそりついて来たんですよ~きもいですよね?」
「タナカ、お前な」
「コンヤクシャ……」
イノッチの眼が点になっている。田中、よりによってなんてことを。まぁ、アイムを不審者にしたくないのはわかるけど。
「ソ、ソウナノ。ビックリさせてゴメンナサイ。ぐほほほほっ」
「ン──そっかぁ。じゃ、田中ちゃん、ちょっとだけ二人きりにしてあげよ? イノと一緒においで」
は~いと行こうとする田中の肩を、私とアイムが二人で押さえつける。
「なんです? 折角の課長の配慮を」
「イノッチを食べる気じゃないでしょうね?」「タナカ、ワタシを一人にする気かっ」
「アルジ、お嬢さん……二人ともマジで怖いです」
その後、なんやかんやともめるうちに飲み会の時間となり、アイムにだけ、こっそり【猫】で参加だからねと伝えると「誰がいくか!」と怒って姿を消してしまった。キャットフードだと思ったのかしら。
結局、夜半になっても帰ってこず、探しに行くといったら田中が目を赤く染めニヤニヤし始めた。
うっかりしていたわ。こいつは夢魔。私が探しに行ったらイノッチと二人きりになる。契約上、イノッチには手を出せない事になっているが、悪魔は巧みに契約の穴をつくとアイムもいっていたし油断できないわね。田中を連れて探すにしても途中でこいつが逃げたりしたら元も子もない。
まぁ、こんな事もあろうかと、用意しておいたのだけど。
ガチャリと鞄から重い鎖を出すと、イノッチに変な目で見られてしまった。田中は寝相が凄く悪くってと適当に誤魔化しながら、奴を鎖でグルグル巻きにする。さすがにやりすぎかと思ったけれど、本人はプレイですか!!と喜んでるし、人道的には問題ないわね。だからといってイノッチを置いて田中と二人きりにはできないわ。私にはイノッチの操を守る義務があるもの。
まぁ、アイムは悪魔だし、攫われたり襲われることはないから大丈夫、よね?
●●●● 幕外 アイム&瀬尾
(久美め、またワタシを愚弄しおってからに。猫の姿で飯を食えと? この大悪魔であるワタシが何故そのような事を!)
と腹を立て喧嘩したせいか、部屋に戻り辛くなってしまった。結局ロビーで時間を潰していたのだが、フロントの人間たちが、居座り続けるアイムを不審に思い始めたようだ。ちらちらとアイムを見ては、何かを話している。
(仕方ない……いったんここを離れるか。)
そう思い席を立った瞬間、めまいに襲われた。バランスを崩し床に倒れたアイムを見て、フロントの人間達が慌てて駆け寄ってきたが、躓いただけで怪我はない、少しここで休ませてくれと言うと頬を赤く染めながら、もちろんですと言い仕事場へと戻っていく。
人間たちが去るのを確認すると、アイムは安堵のため息をつきながら再びソファーに深く腰を下ろした。
(なんだ。何が起こっている? 契約が切れか? いや……違う。)
突如、体が地獄へと引き寄せられた。そして今もその力は働き続けている。油断すればすぐにでも引き戻されそうだ。
この現象が起きるとすれば、久美との契約が切れた時であろうが、アイムには久美との契約を魂を介して感じている。だから契約切れはあり得ない。
確かにアイムのような大悪魔は人の世界になじみにくい。不浄な精神が強い為、精神的存在が優先される地獄のほうが体が安定するからだ。だが、今は人と地獄の境界が緩んでいる。しかも契約中のアイムに起こりうる現象とは考えにくい。
(まさかワタシの力が落ちている? そんなはずは……)
否定したくとも、ずしずしと両手足に石のような重みが加わってくる。このままでは、タナカ一人すら継続的に召喚する事も難しいかもしれない。
(一旦、タナカを戻すべきなのだろうが)
だが、そうすると久美の護衛が手薄になる。久美はアイムとアスモデウスの真名を知っている。久美に上手く取り入って契約を持ち掛けてくる悪魔や人間がいないとは限らない。一番の懸念は、アイムを召喚した正体不明の人間がその事を知っている可能性が高い事だ。意図して久美にアイムと引き合わせたのか、そこまでは定かではないが、どこかで監視している可能性が高い。だからといって、アイムが人間の中から探しだすのは難しい。アイムは人の世に疎いからだ。その点、田中は人間社会をよく理解し、人の感情を読み取るのが得意だ。不用意に久美に近づく【人間】を見分けやすい。そんな田中ですら未だに足取りをつかめていないのが恐ろしい。とすれば、人の心の裏を見るのが長けている相手に違いない。
「──なんとか久美を守らねば……守る?? まて、ワタシは悪魔だぞ?」
それは大公爵たる悪魔がすることではない。よく考えてみれば何故守ろうと思っていたのかと自身の考えを疑うほどに、アイムにはわからない。
万が一でも守るなら悪魔流でなくては美しくない。大事にするふりをした後、悪魔のものにしてから捨てる。すてられた人間が絶望する瞬間を見る愉悦の為だけに。対価もなく守ってやるなど、あってはならない。
ソロモンのように美しく、聡明で極めてレアな魂の持ち主であるなら別だが、久美の魂など悪魔的には、そこらへんの【石ころ】とたいして変わらない。
人はそんな悪魔を外道だと罵るが、人だって同じだ。悪魔を道具としかみていない。だから間違っていないとアイムは考える。
なのに【石ころ】に真名がばれ、負けたと絶望したら、使役せずに契約を結ぶと言われ興味がわいてしまった。もしや慈悲深い女なのかと思ったがとんでもない。ちょっと悪戯したぐらいで、大悪魔であるアイムを蹴り、酷い時はゴミ箱にまで捨てるという悪魔以上に容赦のない女だ。猫に対する変態なまでの愛着にも迷惑している。大悪魔だというのにプライドを何度も潰された。
だが久美は使役はしてこない。
たまに命令してくることはあるが、生活上のマナーを守れといった程度のものだ。頼むときはちゃんと契約してくれる。その契約も対価を要求するのも馬鹿らしくなる程のつまらないものばかり。人心、金、権力、永遠の若さ等といった人欲には全く興味がないらしい。もしかしたら、アイムだけ特別なのでは期待したら、アスモデウスにまで、使役せず契約を結ぶと言って腹が立った。
(それなのに、あの女が振りまく空気が嫌じゃないのが悔しい。)
久美は悪魔に距離を感じさせない。ありのままの自分で接してくる。契約中はいつだって、相手を出し抜くことしか考えてこなかったアイムにとって、【悪魔】として気をはらなくていい事がこんなに楽だとは知らなかった。天使に対してもそうだ。畏敬どころか、ミカエルを殴り説教までするという猛者は久美ぐらいだろう。神より与えられた指輪など面倒でいらぬと言った時には笑ってしまった。そうやって久美は、アイムが人に抱いてきた不安や疑念を簡単に投げ捨ててしまうのだ。だからつい腹が立っても許してしまう。
久美は面白い、そして気が楽だ。だから、アイムだけを見てくれたらと思ってしまう。
「まさか人に懸想を……」
「懸想? お前が?」
突如、背後から低い声に呼び止められ、アイムは固まった。考え事をしていたが周囲への警戒は怠ってはいない。つまり相手はアイム並に強く、気配を絶てる者ということだ。
意を決して振り向くと、ニヤリと笑う懐かしい豹が一匹。
「オ……オズ。お前、まんまの姿で」
「久々だなアイム。あぁ、ここでは瀬尾で通っている、それで呼んでくれ。日本だと、この格好でも意外とばれんからいいぞ。疑う奴は力を使って惑わせばいいだけの事だしな」
オズとはソロモンが使役していた悪魔の一人だ。若干10かそこらで王になった幼い彼が侮られぬよう、王であるという威厳や印象を与える力を使っていた。
一本気がありアイムとは気が合うほうではあったが、彼も悪魔であることにはかわりない。
オズは契約者に願い通りの印象を周囲に与える事ができるが、その力に奢り続け心の鍛錬を怠ると、やがてその印象は虚構のものとなり、自身までもがその事に気が付かないまま、廃退の末路をたどらせる。オズは与えた力に負けた契約者の魂を容赦なく奪う、そういう悪魔だ。
「セオ……お前もこちらに呼ばれたのか?」
「まぁな、っと言っても契約主は教えんぞ。それより風呂にでも行かんか? ここの風呂はいいぞ。ロノの母親の宿だからな」
「ロノとはまさかロノウェイか?」
大悪魔がもう一人、人の世界にいるという事実にアイムは驚く。境界はそこまで緩んでいるのだろうか。
「今は、井上課長だ──お前に会ったとびっくりしていたぞ。なんだ? 気が付かなかったか。まぁ彼女は特殊な体だし仕方が──っと、ここではなんだ……風呂に来い。結界をはって久々に語り合おうじゃないか」
「ちょ、ま、まて、セオ!!」
がはははと瀬尾は笑い飛ばしながら、アイムの襟首をつかむと、引きずるように男湯へと足を進めていった。
■■
「まさか、人の世で、このワタシが悪魔と風呂を共にすることになろうとは」
しかも癒される場所である大浴場が、瀬尾の存在感で手狭に感じ、なんだか息苦しい。
「すまないな、美女であったほうがよかったか?……あぁお前は無理だったな。ちょっとはアスモデウスの奴を参考にしてみろ。勉強になるぞ」
(誰がっ、あの変態悪魔などを)
にんまりと笑うソウシの顔を思い出し、思わず反吐が出そうになる。
「で? 懸想した相手ってのは誰だ? そこまで美味そうな魂なのか?」
端整な瀬尾の顔がぐにゃりと歪み悪魔めいた顔へと変化する。美麗な豹も獲物の前では唯の獣と同じらしい。
「黙れ。久美はワタシの獲物だ。狩るなよ?」
「ほぉ……それは残念だ」
アイムに殺気を飛ばされた瀬尾が、何故か嬉しそうに笑っている。
「それよりロノの事を教えろ。アレは完全に人間だったぞ?」
「あぁ、そうだったな。今の彼女は体は人間だが魂は悪魔のままだ。赤子から融合したせいか、随分と上手く混ざり合っている。なんでも子の代わりとして召喚されたらしいが。まぁ人間並みの力しかないし、魂が悪魔だと真名を知られても使役は出来んから害はない。気にしていたのはそれだろう?」
それだ。
だがそれだけじゃない。
「だが、使役するつもりはなくても人に真名を伝える事はできるだろう? それでワタシの獲物を狙われたら元も子もない」
「心配性だな。ロノは人である間は争いはしないんだと。なんでも可愛くおしゃれして平和に生きたいらしい」
「……おしゃれだと。アイツが?? で? お前は?」
「私か? くくくっ」
瀬尾から突如どす黒い空気が流れ、アイムの背に緊張が走る。
「お前、まさかもう誰かの魂を……」
「違う。今のお前と同じだ」
同じ??
キョトンとしたアイムの顔を、瀬尾がおかしそうに笑う。
「安心しろ。お前の獲物の魂は狙ったりはしない──っと、あがるぞ」
瀬尾が浴槽から上がると同時に大量の湯が湯舟からざばーとこぼれた。つられるようにアイムも彼について行く。
「まぁ、安心したぞ、アイム。お前とは仲良くやっておきたかったからな」
(安心した?)
「どういうことだ?」
背を向けたまま瀬尾が話すからか、意図が読めない。
「そのうちわかる。あと、懸想したんなら、その女に真名を教え、互いに血を分け与えればいい。長く一緒にいられる。人ではなくなるかもしれんがなぁ」
反応でも見たいのか、瀬尾はアイムのほうへと振り向くと、意を含んだかのような視線を送ってくる。
「……それは禁忌だ。万が一、魂ごと紛失させては狩りの意味がない」
アイムの応えに、瀬尾はフンと鼻で笑うとタオルを肩に乗せて浴室を後にした。