第2話
不意に、脳裏に過ぎる言葉があった。
「エル‥ドラド‥」
「なんだ?」
ビラコチャが訊き返す。
「エルドラド…。黄金の…」
思い出した言葉をそのまま口にする。ビラコチャが驚いたように理を見る。
「それをどこで…?」
「分りません。急に頭の中に浮かんできたんです。だけど、僕がここに来た理由は恐らく、そのエルドラドを探していたのではないかと思います」
「エルドラドとはムスイカの王ではないか。ムスイカの王を探して、この地に辿り着いたのか?」
「王様…ですか? 違います。僕が探していたのは人ではないと思います」
「人ではない?」
「僕は、エルドラドとは人や都ではないと考えています。他のことはまだ、全く思い出せていませんが、僕がエルドラドを探していたことは間違いないです」
「では、問おう。お前さまが考えるエルドラドとは、一体何である?」
「龍です」
理はキッパリと答えた。
「龍、であると?」
理の答えにビラコチャは更に驚いたように目を見開いた。
「間違っているのかも知れません。でも、誰一人として、エルドラドに辿り着いた者はいないのですから、エルドラドが都だとは思えないのです」
「だから、王であろう。ムスイカの。それも今となっては伝説になってしまった王だ。違うのか?」
「分りません。ムスイカの王が金箔を身体中に貼り付け、数々の財宝と共にグァタビータ湖にそれらを沈める即位の儀式のことは知っています。グァタビータ湖自体をエルドラドと解釈する人もいました。だけど、王は何故自分の身体に金箔を張り付ける必要があるのですか? 金と財宝をそのままグァタビータ湖に沈めてもいいはずなんです」
理の言葉に力が漲ってくる。エルドラドについて語る度に、理の頭の中で様々な知識が甦ってくる。
「わざわざ金箔にして、自身を黄金に染めるのには、意味があるはずです。そしてその意味は、僕は神に近づくためなのだと解釈しているのです」
「神に、ねぇ…。では、神は黄金の姿をしているということか。しかし、黄金は何者にも替えがたい宝ではないか。だからこそ、ムスイカの王は自分をその黄金に染めるのではないのか?」
ビラコチャは言い返す。確かに、ビラコチャが言いたいことは分る。王とは何者にも替えがたいものだ。黄金の存在と同じであるという解釈も可能だ。しかし、理はその解釈を一度捨てている。
「モデルがあるはずなんです。自分を黄金に染めるという儀式は、王が何かと同一であるという証であるはずなんです」
「ほう。それで、そのモデルの神というのが…」
「はい。そして、その神こそが黄金の龍だと思うのです」
理が言うと、ビラコチャは考え込むように眉を顰めた。その表情が理を不安にさせる。エルドラドを求める者がこの地にいるのは、禁忌なのかも知れない。そう思った。
ビラコチャは首を振った。
「そうか。そういうことであったか…」
「ビラコチャ?」
理は呼びかけた。
「いや。何でもない。お前さまがこの地に現れた理由が、垣間見えたような気がしただけだ。それよりも、少し疲れたのではあるまいか? 顔色が優れぬ。色々と思い出すのには労力がいるからの。部屋に帰って休むがよかろう」
ビラコチャはそう言うと、理に背を向けた。その背中が急に小さく見えたような気がして、理は不安になった。ビラコチャは後継者を探している。その時期に自分がこの地に現れたことに、何か意味を見出したようだ。
後継者が見つかるということは引退の時期が近づいていることを意味する。ビラコチャが本当に後継者を見つけたとき、その生命の炎が燃え尽きるのかも知れない。
理は与えられた部屋に戻った。寝床に横になり、天井を見つめる。
エルドラド。本来はエル・オンブレ・ドラードといい、意味は黄金を塗った人だ。つまり、ビラコチャが言うように、ムスイカの王の即位の儀式の際の姿を指すと思われる。しかし、なぜ王は全身に黄金を塗るのかということは分っていない。儀式なのだから、疑問を抱くこと自体が不自然なのかも知れないが、理はこの疑問を置き去りに考えることは出来なかった。だからこそ、何かモデルがいるのだと思ったのだ。
「ジャガー…なのか?」
理は呟いた。メソアメリカと呼ばれる地域ではジャガーは神聖な動物だ。人間が世界を支配する以前はジャガーが支配していたと考えられている。人間はジャガーから智慧を盗み出したと伝える神話もある。ジャガーの体毛を黄金と見なし、王は神聖なる動物であるジャガーと同一であることを示唆するために黄金に身体を染めると考えることも出来るはずだ。
「いや。そんなはずはない」
ジャガーと同一であると示したいのであれば、マンセルのようにジャガーの毛皮を身に纏えば済むこと。かつては世界を支配していたジャガーを殺し、その毛皮を手に入れることが出来るという、力の証にもなるはずだ。
しかし実際は違う。王が身に纏うのは黄金なのだ。ジャガーではない。
「きゃっ」
ジョアンは恐ろしい顔で天井を見つめる理を見て、小さな悲鳴をあげた。まるで何かにとり憑かれたような顔だった。ジョアンが来ていることにも気付かずに、理は口の中でまるで呪文を唱えるように、何かをブツブツと喋っている。
ジョアンは理が横になっている寝床に腰掛けた。人の気配で、理は正気に戻る。そしてジョアンがそこに居ることに気がついた。
「ジョアン。どうしたの?」
「それは私の台詞。理ったら、私が来たことにも気付かないで、一人でなにか呟いているし…。ちょっと怖かったわ」
ジョアンは拗ねたように言う。
「ごめん。思い出していたんだ。僕はどうしてここに来たのか…」
「思い出したの?」
「いや。どうしてここに来たのかは全く。ただ、エルドラドを探していたってことと、その関連でここに来たのは間違いないと思う」
「そう…。色々、思い出してきているの。それは回復している証拠なんだろうね」
ジョアンは寂しそうに笑った。理はいつかいなくなる。それは最初から分っていることだった。ここは神殿。本来であれば男が立ち入ることすら憚れる場所だ。その地に理がいるのは、彼が傷ついた人だからだ。傷が癒えれば立ち去るしかない。マンセルが言っていることも間違いではないのだ。
「何か用があったんじゃないのかい」
理に言われて、ジョアンは慌てて笑顔を作った。
「食事の用意が出来たから呼びに来たの」
「ああ。今、行くよ」
理は寝床から起き上がった。
不意に誰かに呼ばれたような気がして、理は振り返った。しかし、そこには笑顔のジョアンしかいない。
「呼んだかい?」
「今? 呼んでないよ?」
ジョアンは首を傾げた。
「何も聞こえなかったし」
「そうだよね。気のせいか…」
理は言って、部屋を後にした。
シンプルな夕食が済んだ頃、ビラコチャが現れた。ビラコチャは理を呼ぶと、立ち入りを禁止されている神殿の深部へと入っていく。
そこは太陽の処女が儀式を行っている場所だ。その儀式がどんなものなのか、理は知らない。最深部へ通じる扉が開かれる。そこには、神像があった。
「これが、なんだか分るか? 理よ」
ビラコチャが言う。理は言葉が出なかった。目の前にある神像は間違いなく龍の姿をしている。それも西洋のドラゴンではなく、蛇のような姿をした龍だ。
「龍‥ですよね、ビラコチャ。これは、龍ですよね? どうしてここに龍の像があるのですか? 僕はてっきりこの神殿に祭られているのはジャガーなのかと思っていました」
神殿を取り囲む細工の中に、龍を象ったものはひとつも無い。マンセルもジャガーの毛皮を纏って自分の力を誇示している。それ故、この地の神はジャガーであると、理は思い込んでいた。しかし、実際に神殿に安置されていたのは龍だったのだ。
「お前さまが考えている通り、ムスイカの王が模しているのは、この黄金の龍だ」
ビラコチャは意を決したように言った。
「そして私は、この龍に選ばれて智慧を与える者となった」
「龍に‥選ばれて?」
「そうだ。理よ。神とは簡単に人間に、いや、自分が統治する世界にその姿を現さないものだ。しかし、滅する時期ではないのに誤った方向に世界が動き出したとき、それを正さなければならない」
「その正しい方向に導く者として、ビラコチャ、貴殿が選ばれたという事ですね」
理が言うと、ビラコチャは頷いた。
「今までも、何度も神は私の前に現れた。そして私が伝道すべき道を示された。今も混乱が起きようとしていると私は感じている。故に神に神託を受けるべく、この地に来たのだ。しかし、神は現れない」
「それは…」
「滅びの時が迫っているのだろう」
ビラコチャは静かに言った。
「そんな…」
「如何なるものにも永遠などない。それは世界とて同じこと」
龍の神像の前で跪き、深く頭を垂れる。
「そして己が治める世界が滅ぶとき。それはその神が滅ぶときでもあるのだ」
「神が…滅ぶ…?」
理は繰り返した。ビラコチャは頷く。
「神が滅ぶなんて…」
「全てのものに寿命がある。私のこの言葉はそのまま神の言葉だ」
理を振り返り、ビラコチャは言った。そして立ち上がり、理を促すように歩き出した。理は黙ってその後ろを歩く。