第1話
理は痛みで目が覚めた。身体中が痛い。起き上がろうと試みるも、背中に激痛が走っただけだった。思わず呻き声が漏れる。その声が聞こえたのか、誰かが部屋の中へ入ってくる気配がした。
心配そうに理を覗き込んだのは褐色の肌をした美しい少女だった。目を覚ました理を見て、少女は嬉しそうに笑う。そして一生懸命に話し掛けてくるが、理にはその言葉が理解出来ない。何とか意思の疎通を図ろうと、身振り手振りを交えて語りかけてくれるが、日本語でも英語でもない少女の言葉の欠片すら理解することが出来なかった。理は困ったような笑顔を見せた。少女も同じような表情になる。二人で困っていると、少女の背後から嗄れた声が聞こえた。その声を聞いた少女は、救われたような顔をした。立ち上がり声の主を迎えに行く。
少女と共に現れたのは、見窄らしい格好をした老人であった。
理は何とか自力で起き上がった。横になったままでその老人を迎えることはとても失礼な気がしたのだ。
老人は持って来た器を溜まって理に差し出す。中は得体の知れない緑色の液体で満たされていた。得も言われぬ匂いがする。思わず顔を顰めた。
「飲まれよ」
老人は言った。しかし、とてもその液体を飲む気にはなれない。首を左右に激しく振った。しかし老人は無理に器を理に手渡す。助けを求めるように、少女の顔を見たが、少女も飲めというようなジェスチャーを繰り返すだけだった。仕方なく、鼻を摘んで一気に飲み干す。この世のものとは思えないほど、苦かった。いつまでも苦さが喉の奥に残っているようで、思わず舌を出した。
すると今度は少女が甘い香りのする白い液体が入った器を差し出してきた。どうやら口直しに飲めという意味らしい。一口飲んでみる。どうやらミルクティに近い飲み物らしい。こちらは安心して飲める。理がそのミルクティを飲んで一息ついたところで、老人は少女に部屋を出て行くように指示した。少女は名残惜しそうにしながらも、老人に従い部屋を出て行く。
老人と理の二人きりになる。
老人は理を、まるで品定めでもするかのように上から下まで、舐めるように見る。しばらく、重苦しい空気が流れていた。
「あの…」
沈黙を破ったのは理からであった。
「質問してもよろしいでしょうか?」
老人は黙って頷く。
「ここは…何処なのでしょう。それに貴殿は…」
「ここは太陽の神殿。ここに住まうは、太陽神と選ばれし太陽の処女達だ」
「では、貴殿が太陽…」
「否。私は太陽神ではない」
それ以上の質問は出来なかった。何故自分が此処にいるのかが分らない。理が本当に訊きたいのは、ここは日本なのか外国なのか、自分が生きていた世界なのかパラレルワールドなのか、そういったことだ。それをどういう言葉で表現したならば、望む答えが返ってくるのか。悩んだ挙句の質問だった。他の言葉では質問しようがない。
二人に再び沈黙が訪れた。老人は優しい微笑を浮かべながら理を見ている。理は俯き、何をどのように言えば良いのかを思案する。
「あの…」
理は再び声を出した。
「あの…どうして僕は、貴殿の言葉が分るのでしょう? あの女の子が話す言葉は全く理解出来なかったのに」
老人は静かに言う。
「私が"伝える者"だから、だろうな」
「伝‥える‥者…?」
「さよう。我が名はビラコチャ。この世界に智慧を与えし者だ」
「ビ‥ラコチャ‥」
理はその名を繰り返した。どこかで聞き覚えがある名前だ。それが何処でだったのか、思い出そうとする。しかし思い出せない。思い出そうと考えると、激しい頭痛が襲ってくる。思わず呻く。
「今は無理に考えないことだ。時がくれば、何もかも分る。お前さまに今必要なのは、傷を治す時間なのだ」
時間だけが全てを解決するかのようにビラコチャは言う。しかし、このままの状態では理自身が不安で押し潰されてしまうかも知れない。
「僕は、どうしてここにいるのでしょう」
理はストレートに訊いた。
「お前さまは流されてきた。何処からかは私も知らぬ。しかしお前さまは太陽の処女達が沐浴に使う岸辺に流れ着いていたのだ」
「ビラコチャ。貴殿でも分らぬことがあるのですか?」
「そうだ。私を全知全能の神だとでも思ったか?」
ビラコチャは笑った。それは嘲笑などではなく、好々爺が若者の無知を楽しむような、そんな笑いであった。
部屋の外でビラコチャを呼ぶ声がした。その声の主は部屋の中に入ってきた。それは、ジャガーの毛皮を纏った男であった。
「あの男が目を覚ましたそうで…」
ジャガーの毛皮を纏った男は理を見た。
「目を覚ましたのなら、この都を離れるがよい」
「まあ、そう急がせんでも良かろう。この者の傷はまだ癒えてはおらぬ」
「しかし…」
「この者が敵か味方か。まだ分らぬでは無いか。それに傷ついた者を追い出すような真似を、神が許すだろうか」
「それはそうですが…」
男は再び理を見た。その目には憎悪に似た感情が浮かんでいる。この男にとって理は憎むべき相手のようだ。その理由は分らない。
理は男を見た。一目で地位の高い者であることは分った。ただビラコチャの言葉には逆らうことは出来ないらしい。
「ビラコチャに気に入られたようだが、この地にいる太陽の処女達に不埒な真似をしてみろ、その生命にて購って貰うからな」
男はそう言い捨てると部屋を出て行った。どうやら男が危惧しているのは、理が先ほどの少女と恋仲になることのようだ。つまり、あの男も少女に恋心を抱いているのだろう。あの少女は理が意識を失っている間中、看病していてくれたようだ。
「お前さまの心配をするより、自分の心配をしたほうがよさそうだのう…」
ビラコチャは困ったような顔をした。
「ああやってジャガーの毛皮を纏い、自分は王にでもなったつもりのようだが。あやつにその器は無い。それを自覚した時に、暴挙に出なければよいが…」
溜息混じりに言う。
「お前さまには関係のない話であったな。さて、しばらくはこの地に滞在するとなれば、処女達の言葉が分らぬでは不便であろう。私が言葉を教えよう」
ビラコチャは笑顔で言い、理も頷いた。
ビラコチャから言葉を教わってから数日後には、理は一人で出歩けるまでに回復した。
初めて部屋を出て聡が目にした風景は、明らかに日本ではなかった。どこかで見たことがあるような気がするのだが、それがどこか思い出せない。
しかし都のある場所は特異だった。山の頂に石造りの都があった。まるで下界から隔離するように建つ都なのだ。出会うのは女性ばかり。確かにビラコチャはここに住んでいるのは太陽の処女と呼ばれる者達と言っていた。処女というくらいだから、女性なのだろう。年齢は様々だが、美しい女性しかいないのも特徴だろうか。
ギリシア神話にアマゾネスという女性しかいない部族の話があるが、それとも違う。たまに勇ましい姿の女戦士を見かけるが、それはこの都の護衛をする者。基本的にここにいる女性は庇護される存在のようだ。
男はビラコチャとジャガーの毛皮を被った男、そして理の他に数人いる。しかし、ほぼ全員が去勢されていた。去勢されていないのはビラコチャと理、そしてあの男の三人だけだ。
これらのことを総合すると、この都は"都市"ではなく"神殿"であると推測される。だとすれば、太陽の処女とは"巫女"なのだろう。いや、修道女か。もしくは日本でいうところの斎宮だろう。神の妻として命を全うすることを定められた女性が、この地に集まっていると思われる。
「理」
声の主を振り返ると、目を覚ました時に傍にいてくれた少女だった。
「どうかしたの? ぼうっとしているように見えたけど。まだ、どこか痛む?」
「大丈夫だよ、ジョアン」
ジョアンは少し恥ずかしそうに笑った。理の隣に座る。
「理の肌は白いね。ビラコチャよりは少し黒いけど」
理の腕と自分の腕を並べて見比べる。
確かに、ジョアン達太陽の処女や去勢されている男達に比べると、ビラコチャやジャガーの毛皮を纏った男は肌の色が白い。理の肌もビラコチャ達に近い。しかしビラコチャは確実に白人の肌だ。顔立ちも彫りが深く、欧米人に近い。ジャガーの毛皮を纏った男も同様だ。理は違う。肌は比べれば白いが顔立ちはジョアン達と似ている。彫りも決して深くない。
「ビラコチャは、どうしてここにいる? あのジャガーの毛皮の男も…」
「ビラコチャは伝道師よ。どこから来たのかは知らない。だけど、世界中のことを知っているし、彼から学ぶことは多いわ。あのジャガーの男…マンセルは、突然現れたの」
「突然?」
「そう。突然。理みたいに流れ着いたとかじゃなくて、まるで神様みたいに、ある日この地に現れて…」
ジョアンがマンセルの話をしようとした時、ちょうどマンセルがやって来た。ジョアンと並んで座っている理を見て、眉を顰める。
「ジョアン。この男に近づくな」
命令するように言う。ジョアンは肩を震わせ、助けを求めるように理に寄り添う。
「ただ話をしているだけじゃないか。なんでそんなに怒るんだ」
ジョアンを助けるつもりで、理は言う。
「お前には話し掛けていない」
マンセルは言うと、ジョアンの腕を引っ張った。ジョアンが小さな悲鳴をあげる。
「やめろよ。嫌がっているじゃないか」
理がマンセルの腕を振り払う。
「俺に逆らうのか!」
「逆らうとかじゃなくて、ジョアンが嫌がっているからやめろと言っているだけじゃないか」
ジョアンを守りながら、理はマンセルと対峙した。その時、ビラコチャが現れた。
「この地で揉め事は厳禁ぞ?」
なんとものんびりとした風情で話し掛けてくる。
「ビラコチャ! この男の傷は癒えた。もう出て行かせるべきではないか」
「何故?」
「この男は規律を乱す。太陽の処女と何かあってからでは遅過ぎる」
マンセルは必死の形相でビラコチャに訴えかける。その様子にビラコチャの眉がピクッと動いた。
「何故、理が太陽の処女と間違いを犯すと思うのだ?」
「こいつは部外者だ。この地の規律など知らない」
ビラコチャは理とマンセルと交互に見た。
「知らないのならば教えれば済むこと。第一、部外者と言うならば、私やマンセル、お前も部外者であろう」
「私や貴方は違う。部外者ではない。神に選ばれし者なのだから」
「神にねぇ…」
ビラコチャはマンセルを見つめる。
「理がこの地に流れ着いたのも、神の御意志かも知れん。だとすれば、理も神に選ばれし者ではないか?」
ビラコチャの言葉にマンセルは黙った。
「用事を思い出した。これで失礼するが、ジョアン、お前は自分の立場をよく考えよ」
マンセルは言うと、背を向けて歩き出した。その背中にジョアンが舌を出す。
どうやらジョアンはマンセルが嫌いらしい。しかし、今までのマンセルの行動や言動を見る限り、マンセルはジョアンに好意を寄せているとしか思えない。
「神に選ばれし者ねぇ…」
ビラコチャは困ったように言った。前々からビラコチャの言葉の端には、マンセルに対する困惑が見えていた。
「神に選ばれた王、とでも思っているのか…」
「神があんな奴を選ぶはずがないわ。マンセルこそ、この地を去れば良いのに。どうしていつまでもここに留まっているのかしら」
ジョアンは言ってから少し反省したように頭を叩いた。
ジョアンを呼ぶ声がした。別の太陽の処女が理達の後ろに立っていた。それは太陽の処女達の中では年長者であるヨンジャだった。
「あら。元気になったのね。良かった」
理を見るとヨンジャは笑った。歳はとっているが、ヨンジャも美しい女性だ。
「ジョアン。今日の当番は貴女でしょ? 忘れずに時間になったら来るのよ」
「忘れてないわ、ヨンジャ」
ジョアンは答えると立ち上がった。
「準備をしなくちゃ。それじゃ、理。また後でね」
ジョアンが去ると、ビラコチャが隣に座る。
「理は、本当に傷が癒えたなら、この地を離れるのだろうな」
ビラコチャが言う。
「え? ああ。そうですね。いつかは出て行くことになると思います。だけど、今は…」
「出て行くにしても、何処に帰れば良いのか分らないか」
理は頷いた。
マンセルに言われるまでもなく、自分が部外者であることは自覚している。しかし、自分が何処にいて、どうしてここに辿り着いたのかも分らない状態では、出て行きようがないのが、本音だ。このままこの都市を出て行っても、野垂れ死にしてしまうだろう。
「本当は、お前さまのような者に私の後をついて貰いたいのだが…」
「貴殿の後を? 僕に伝道師になれと言うのですか?」
ビラコチャはすこし寂しそうに笑った。
「人間に永遠の生命など無い。いや、生きとし生けるもの全てに永遠などありはしない。その寿命に差があるだけだ」
「それは、確かに」
「寿命はどんなものにもある。世界とて、いつかは滅びるときが来る」
ビラコチャの真剣な眼差しに、理は吸い込まれるような気がした。