特殊能力はオプション設定です。
第9話になります。
「師匠、どこ行くんですか?」
ハーフエルフの娘はハラハラと小麦粉を撒き散らかしながら、おれを追ってくる。
いったいどれだけ粉をかぶっているんだろう?
「宿屋」
おれは周囲を気にしつつ、そっけなく答えた。
今のところ、見つかってはいないようだ。
「え、宿屋? 早速ですか? ケダモノですね、師匠。わかりました、あたしも弟子にしていただくからには、覚悟を決めましたから」
「何を言ってやがる。荷物を取りに行くだけだ」
「はあ、荷物を取りに行く……なるほど、師匠は、好物はあとに取っておくタイプですね?」
「おまえの頭ん中はそのことでいっぱいなんだな」
「当たり前じゃないですか。誰だって初めてのことをするときは、緊張してそのことしか考えられなくなっちゃうでしょ? 他のこと考えられる余裕なんてないですよ」
「そうか、初めてか」
「そうですよ。あたしはこう見えても身持ちが堅いんです。馬鹿にしないでください」
「馬鹿になんかしてない。おまえ、いくつだ?」
「十六か、十八です」
「十七はないのか」
「ハイ、その可能性はないと思います」
どういう可能性だよ?
話がややこしくなりそうなので、それ以上年齢について突っ込むのはやめにした。
「『八月軒』の主人に変なことされそうになったことはないか?」
「ありませんでした。きっとあたしの魅力に気づかなかったんだと思います。どうしてそんなこと聞くんですか? ……あ、さては師匠、NTRで燃えるタイプですね?」
そうか。「八月軒」のやつはかなりくわしいな。
おれは納得して、さらに足を速めた。弟子もバタバタとついてくる。
「どうして、そんなに急ぐんですか? もっとゆっくり行きましょうよ。どうせ夜までしないんですよね?」
「ワクワクをムダにさせて申し訳ないんだが、おれはおまえに何もしないから。夜になろうと、朝になろうと、しない。どんなことになっても、おまえにそういうことはしないから、安心しろ。おれは、おまえにそんなことは期待していない」
「ホントに?」
「本当だ」
「そんなこと言って安心させたところを襲うとか、鬼畜的なアレはないでしょうね?」
「ないよ。大丈夫だ。安心しろ」
「良かった。やっぱり、師匠はあたしが思った通りやさしい人じゃないですか」
そういうことではなかったが、おれは黙っていた。
おまえの特殊能力〈生ける調味料〉が欲しいだけだなんて口が裂けても言えない。
それを言わないのは、単に軽蔑されたくないからだけじゃない。
特殊能力という存在の特性のためでもある。
特殊能力というのは本当に微妙なものなんだ。
この世界の仕様書によれば、特殊能力とは現地人が誕生するときに、きわめて低い確率で付与される能力で、遺伝や環境などとは一切関係がない。
だから、弟子が特殊能力を持って産まれたのは、母親がエルフだったからでも、父親が異種族大好きの変態オヤジだったからでもない。
しかも、与えられる能力はそのときそのときにランダムに生成される。
運が悪ければ、砂漠の遊牧民に「水中を高速で泳ぐ能力」なんてのが与えられる可能性もある。
そうなれば、その能力は一生発現しないまま終わるということになる。
まあ、こんな設定はあってもなくても、世界の歴史生成にはほとんど影響しない。
世界創造においてはオプション扱いである。――しかも、かなり高額の。
つまり、特殊能力があるかないかは、世界を発注したオーナー様の趣味と予算の問題だということだ。
そして、この世界には特殊能力が存在する。
「もしかして、師匠はあたしのコネチに期待してるんですか?」
「何だ、コネチって?」
この身近にいる特殊能力の持ち主は訳の分からないことを言った。
「だから、あたしは二年間も毎日パンを捏ねてきたわけでしょ。それは他人よりパンを捏ねるのが上手ということじゃないですか。つまり、あたしはパンを捏ねる能力値が高いってことですよ。パンを捏ねる能力値、すなわち、捏ね値」
「うーん、これまでの人生、コネチの高低で人を判断したことはないなあ」
「でも、あたし、ここしばらくは捏ねる気分じゃないですから。師匠が期待してもムダですよ」
おれは弟子のオツムの構造にほとほと呆れた。
だが、彼女の場合、その低スペックさが幸運だったのかもしれない。
特殊能力は魔法・魔力とは別物だ。
だから、どんな特殊能力も魔法で止めたり促進したりはできない。
ときどき魔法無効な英雄とか出てきたりするので、特殊能力が存在すること自体は、この世界の住民にも知られている。
だが、彼らはすぐに適当な理由をこじつけるので、これも所詮設定にすぎないなどとは考えもしない。
ただ、不思議なことをそのまま放っておくには、彼らは好奇心が強すぎる。
それで、彼らは彼らなりに特殊能力の特性を調べてきた。
その特性の一つが、特殊能力とはきわめて不安定な存在だということだ。
持ち主のちょっとした変化で、能力が増大したり消滅したりする。
たとえば、第三者の前では発動しないとか。
よくあるのは、自覚とともに使えなくなったり、消滅したりすることだ。
心理的な変化――子どもから大人になるとか、子を持って親になるとか、そういう心理的変化が能力の消長に影響することも知られている。
どうやら、わが弟子は自分の能力にまだ気づいていないようである。
自分がいると周りにいる人間がみんな美味しくゴハンを食べられるのだ、と彼女が知ったら――?
あるいは、彼女のおっぱいにクラクラして寝込みを襲ったりしたら――?
もちろん、彼女の特殊能力は消滅しないかもしれない。
だが、露と消えてしまったらどうする?
そんな馬鹿な賭けをする理由がどこにあるというんだ?
「八月軒」の主人もそれをよくわかっていた。
だから、本人には何も言わず、エッチなこともせず、店の地下でずっとパンを捏ねさせていたのだ。
そして、上の店では、お客たちが何も知らずに、主人の作る料理は絶品だと大喜びしていたわけだ。
しかし、今、あの店の美味の秘密はおれと一緒に町を歩いている。
不味くはないだろうが、これまでとは格段に味の落ちた料理を食べさせられている客たちは、どんな反応を示しているだろうか。
店の主人ももう、彼女がいないことに気づいているだろう。
人を出して、町中探し回らせているに違いない。
おれは一刻も早くハーフエルフの娘を連れて、町から脱出しなければならない。
「そういえば、まだおまえの名前を聞いていなかったな」
「エラです。エラ・ルーツ・ノルデンショルト」
「そうか、エラか」
「師匠の名前も教えてくださいよ」
おれは思わず足を止めてしまった。背中にエラがぶつかってきた。
「もうっ! 急に立ち止まらないでくださいよ」
「おれの名だが――」
困ってしまった。おれにだって名前はあるが、それはこの世界のものではない。
この世界の者には発音できないだろう。
今まで名前が必要なときは、そのときそのときで適当に名乗ってきた。
使い慣れた偽名のようなものはなかった。
しかし、弟子に聞かれるたびに違う名前を名乗るわけにもいかない。
ふと見ると近くにあった家の庭に松の木が生えていた。
「おれはキーファーだ。ヨーゼフ・キーファー。いいか、間違ってもヨーゼフなんて呼ぶなよ」
「はいはい、わかってますよ、師匠」
宿屋までは何もなく到着した。
部屋へ上がって荷物をまとめると、すぐに宿を出た。
宿代は前払いで三日先の分まで払ってあった。
宿の主人もおれがこのまま出て行くとは思わなかったろう。
おれはまっすぐ南の城門へ向かった。
オトランのダーゲンまでは、徒歩なら十日はかかる。
一人旅なら馬に乗って行くか、管理人の標準装備能力を使って日数を短縮するところだ。
だが、エラが一緒だとそうもいかない。
旅の鋳掛屋が馬になんか乗るはずがないからだ。
管理人の標準装備能力を使って歩いたら、彼女の足では到底ついてこられない。
管制には文句を言われるのを覚悟で、ゆっくり行くしかない。
エラの能力にはそれぐらいの価値がある……と思う。
やがて南側の城壁が見えてきた。
城門まではもうじきだ。
閉門時刻まではまだだいぶある。あわてなくても今日中には町を出られる。
あとは「八月軒」のやつらに見つかりさえしなければ――
が、さすがにそこまで上手い具合に物事は運ばない。
もともとツキに恵まれない方だからね、おれ。
エラを手に入れられただけでも、向こう十年分ぐらいの運を使ってしまったようなモンなのよ。
おれたちの前へばらばらと風体の良くないのが飛び出してきた。
人を雇うにしても、どうせその辺のゴロツキ程度だろうと思っていたのだが、「八月軒」の主人ともなれば、やはり金回りがいいらしい。
おれたちの進路をふさいでいるのは、思い思いの鎧に身を包んだ傭兵たちだった。
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