弟子のコネチにオヤジがむせび泣くのであります。
第58話です。
「一刻も早くここから逃げ出されるがよろしかろう」
アギーレは微笑みながらそう言ったが、目だけは真剣だった。
おれは真面目に即刻逃げ出すことを考えた。
だが、水門が直らない限り川を越えられない。
一人なら飛び越えるでも何でも手はいくらもあるが、エラも一緒だということを考慮に入れると選択肢は極端に少なくなる。
湖の上を歩いて渡るというのも同様だ。その方法は一人でしか使えない。
じゃあ、領主の軍団に立ち向かうのか?
「領主の兵はどの辺りまで迫っておりましょうか?」
「さよう……拙者も慌てて出てまいったので、確かなところはわからぬが……兵を整えるのに一日はかかったろうから、ここへ到着するのは明日の昼か――遅くとも夕刻までには必ず」
「騎士様は全軍を挙げてと言われましたが、それは実際にはどれほどの兵力ですか?」
「騎馬が五百騎、歩兵が三千というところですかな」
「合わせて三千五百ですか――」
「かけて十五万ですね」とエラ。
かけてどうする? しかも、間違ってるし。
おれは領主の位置を検索した。
頭の中へ展開させた地図に、領主の位置が光点となって示された。
まだ修道院よりも遠い。意外に遅い、というのが実感だった。
しかし、領主の兵で検索をかけて唖然とした。
おれ一人にどれだけムキになっているのだろう。
地図では、無数の光点がこの宿場町に向かって、あらゆる方向から迫ってきていた。
三千五百ではきかない。五千はいる。本当に全軍だ。
領土中の兵士にここで合流するよう、命令が下されたらしい。
おそらく、移動中も鋳掛屋とハーフエルフには注意するよう指示されているだろう。
もはやどの方向にも逃げ場はなかった。
南はアップラ湖に遮られ、西はアッププロ川があり、水門が開いている今は越えられない。
川に沿って北へ下るとしても、いずれ領主の兵とぶつかってしまう。
北東へ向かって隣国へ行くためには領地をまるまる横断することになる。
包囲の輪はじりじりと狭められているという感じだった。
「騎士様、お願いがあるのですが」
「うむ、遠慮は無用ですぞ。何でもおっしゃってくだされ」
「これから領主の本隊へ戻っていただきたいのです」
「なんと? 領主のところへなど今さら――」
「本隊へ戻り、わたしがもうこの宿にいないことを伝えていただきたいのです。わたしたちが宿を出て川へ向かったと言ってください。大水車があった場所で、悪魔を呼び出して陣を張っている、と大袈裟に話していただけると助かります」
「なぜそのような? キーファー殿には何か成算があられるのか?」
「さしあたり、何もありませんが、ここのままここで領主の軍を迎えたら、ここの人たちに迷惑をかけることになりますからね」
「どうしても、と言うのであればやらぬでもないがのう……」
「どうしてもお願いいたします」
「信じてもらえるかのう?」
「抜け駆けしようとしたが一歩遅かったとおっしゃるのが良いでしょう。オーガ退治で手柄を上げたばかりの騎士様のおっしゃることです。きっと信じてもらえます」
「さようか。キーファー殿にはどんなものかはわからぬが、きっと覚悟があるのであろう。ならば、拙者は即刻、領主のところへ戻るとしよう。行くぞ、アンドレ」
「承知!」
アギーレ主従はガシャガシャと騒々しくうどん屋を出て行った。
さすがに店の中のケンカもおさまっていた。みんな疲れ切ってあちこちに座り込んでいた。
「さて、それでは後半戦とまいりましょうか」
エラが腕をまくって元気よく立ち上がった。空元気なのは見え見えだが、弟子は弟子なりにおれを励まそうとしているのだ。
エラはのし場へ行って寝かせたうどんをまた捏ね始めた。
エラが捏ね、包丁で切ったうどんは、店のおばちゃんが茹で上げた。
水で締めたうどんを盛った丼に、エラは生醤油をかけ回した。
乙女の柔肌のように肌理細かく真っ白いうどんに茶色い醤油が鮮やかだった。
「まずは薬味なしで食べてみてください」
おれは丼をざざっと雑にかき回し、まだらに醤油になじんだうどんをひと箸、口へ入れた。
ズズーッとすすりこむと、うどんの端がチュルンッと口唇の中に納まった。
噛むと柔らかく潰れながら、ぐっと奥歯を受け止めるコシがある。
そこからわずかな力でプツンと小気味よく切れた。
小麦の香りが口の中に拡がり、ふわっと鼻へ抜けた。
生醤油をかけただけだというのに、甘味、塩っぱさ――この複雑な味わいは何だ?
あまり噛まずに呑み込めば、ツルリと咽喉の奥へ逃げるように落ちていく。
たかだか粉を水で練って茹でただけの物なのに、あまりに鮮烈。
単純さの向こうに無限があるのだ。
おれは身体が芯から震えるのを抑えることができなかった。
さすが〈生ける調味料〉である。
と思ったが、うどんを食べているのはおれだけである。
エラはニコニコ笑いながら、おれが食べる様子を見ているだけだ。
彼女はまだうどんを食べていない――つまり、この味には〈生ける調味料〉の力は働いていないのだ。
おれはあらためてハーフエルフの顔を見つめた。
「何ですか? 美味しくない?」
「いや。美味いよ」
おれはそれしか言えなかった。
「じゃあ、あたしにもひと口」
エラは餌をねだる子鳥のようにパカッと口を開けた。
おれは一本箸でつまんで彼女の口へ入れた。
もぐもぐと噛んでいたが、納得いかなかったらしく「寝かしすぎた」とぼそっと言った。
おばちゃんはエラが打ったうどんを茹でて、ケンカでグダグダになった客たちにふるまった。
そこにいた連中はエラの特殊能力により一人残らず悶絶した、おれを含めて。
あまりの美味に失神する者三人、感涙する者五人、笑い出した者二人、しゃっくりが止まらない者一人、失禁した者一人、昇天しかけた者一人という状況であった。
うどん屋のオヤジは涙にむせびながら、店の外へ飛び出すとすぐに汚い板っ切れを抱えて戻ってきた。
「お嬢ちゃん、あんたには負けたよ。こいつは持って行ってくれ」
板にはべつに上手くもない字で「元祖アプレーデルうどん あたりや」と書かれていた。
看板である。
いらねえよ、こんなもん。
「え、いーんですかー? すみませーん。ありがたくいただきますぅ」
エラは満面の笑みで風雨に煤けた板を抱え込んだ。
タダならほんと何でも貰うね、おまえ。
鍋焼きうどんが食べたい。




