第肆話
月明かりを頼りにミラーハウスへ辿り着いた。あれほど気になっていた木々の騒めきさえ、もう聞こえてはこなかった。
ローマ字でミラーハウスと書かれた看板のペンキが所々剥がれ落ちていて、不気味な雰囲気を醸し出している。薄い色で塗られた外壁が暗闇の中で浮かび上がっているのも一役買っているのだと思え、異様で恐ろしいほどだった。
ゴクリ、と唾を飲み込む。余程緊張しているのか夏も間近だと言うのに手足が冷たくなっていた。何度目かの裏ドリで初めてミラーハウスの中に入った時も、こうして手足が冷たくなるほど緊張していたのを思い出す。
実際に中へ入れば、たくさんの鏡に映る色とりどりの服の色に目を奪われた。自分が万華鏡の中へ入り込んだような光景にその場から動けなくなり、急に立ち止まって鏡を見つめる娘を心配しない親はいないなと幼き日の愚行を今更ながらに反省した圭子であった。
先月閉園になったとはいえ、だいぶ年季の入った物だと分かる。ミラーハウスの入り口にもウサギがいて、黒のタキシードを着込んでいる。確か人が通るとお辞儀をしていたはずだった。圭子は試しに前を通ってみるが、何の反応もなかった。
「行こう」
「待って。朔の分も懐中電灯持ってきたから」
「姉ちゃんオレのは?」
「アンタが一緒に来ると思わなかったから用意してない」
「ひでぇ!」
ブーブー文句を言う弟に「無理矢理付いて来たのは学でしょう」と言うと、ぐっと押し黙った。情けない声で“姉ちゃん”と言われ、言い負かした事で気分も良くなった圭子は自分で使おうと思っていた懐中電灯を渡す。
「スマホあるからいいよってか、アンタもスマホにライトアプリ入ってるでしょう?」
「いやー、それがさ。スマホ壊れちゃって古いタイプの代替え機だから分かんないんだよねー。さんきゅ! さすが姉ちゃん、大好き!」
「もー。こんな時ばっかり調子良いんだから」
思わぬ賛辞に気恥ずかしさを感じて、さっさとスマホを取り出しライトアプリを起動させた。これなら時間も確認しやすいし、何かあったら直ぐに連絡できるしと自分に言い訳をした。
「じゃぁ、今度こそ行こう」
「えぇ。何かあったらすぐに連絡ね」
「中は結構複雑だから、逸れて迷子になんなよー」
「……アンタが一番心配だわ」
「それは同意ね」
「二人ともひでぇ!」
朔と二人で笑い合いながら、あの頃とは目線の高さが変わった入口の中へ吸い込まれるように入っていった。
当然の事ながら、月明かりの届かない中は真っ暗だった。懐中電灯が無かったら何も見えなかっただろう。
通路には割れた鏡の破片やお菓子の袋などが落ちていた。
「あ、これ……口紅で落書きしてある」
「こっちはマジックだな」
「皆、何だかんだで来てるんだね」
「姉ちゃん、ココは有名なホラースポットだから」
「そうなんだ」
そんな事も知らないのかと言いたそうな弟は放っておく。裏ドリの数ある噂は好奇心旺盛な少年少女達を見事に刺激しているという事だ。それで入れ替わりなんてあっては堪ったものではないが、と圭子は思う。
「人によってはここで一夜明かしたりもしてるらしいよ」
「好きこのんで来たいとは思わないけどねぇ」
ふと圭子の視界に自分達が使っている懐中電灯の光以外の何かが反射した気がした。
「あっ……?」
「ん?」
「うちらの他にも誰かいるかも」
「えー? 見間違いじゃない?」
また二つ、光が反射して見えた。
ゆらりと鏡に映る光が動き、まるで鏡の中を泳いでいるようだった。今度はきちんと確認できたから気のせいじゃないと二人に訴えた。
「あっ!」
「ね、やっぱり誰か居るよ」
「圭子が言うなら行ってみる?」
「姉ちゃんが気になるなら行こうぜ」
「うん」
弟が先に歩き出し続いて圭子も歩き出そうとしたその時、朔が手をギュッと握り締めてきた。驚いて後ろを振り向けば、微動だにしない朔が佇んでいる。
「行っちゃ駄目」
「朔?」
「ほら、行くんでしょ。ちょっと弟、待ちなさいよ」
握ったままの手を引っ張って弟を追いかける彼女の言動がチグハグで、圭子は聞き間違えたのかと思った。でも前に見た無表情な朔の顔がチラついて落ち着かない。
「朔、さっき……」
「うわぁぁぁぁぁ!」
「え?」
「学!?」
急に聞こえた弟の叫び声に圭子の心臓が大きく跳ね上がった。
ドクンドクンと心臓が脈打っている。嫌な汗がドッと出て、圭子の体を冷やしていった。
「まなぶ……っ!」
弟の元へ辿り着くと、床に転がって掌をさすっていた。急いで近づけばその足元にはビニール袋があり、滑って転んだのだと分かってホッとした。
「イテテ……」
「あー、ビックリしたぁ。弟、思ったよりも鈍臭いね」
「違っ! 横向いてたら足に引っかかっただけだし!」
「学……よそ見しながら歩くと危ないよ?」
「ん、ものすごく実感した」
立ち上がりながら神妙に頷く弟の姿に圭子も朔も束の間の笑みがこぼれた。