忘れられた恋の魔法
ドアを閉める前にフロントは辺りを注意深く確認した。
人の気配はない。
閉じ込めたライガ達が逃げ出した様子はないようだった。
今夜は邪魔が入ることはない、と確信してからドアを閉めた。
部屋の中ではフローレス姫が慣れないヒールを脱いでソファで寛いでいた。
子供のように足をバタバタさせいていたが、眠そうだった。
フロントが戻ってくると、フローレス姫は足をバタバタさせるのをやめて、ちゃんと座り直した。
行儀が悪い、と言われるとでも思ったのだろう。
しかし、ヒールは履かなかった。
気だるそうな視線でフロントを見上げてくる。
ヒールはもう履かなくてもいいでしょう?と、目で訴えているのだ。
フロントは微笑を返してから、
「お水をお持ちしましょう」
と言ってから冷やしてお置いた水差しから水を注いでフローレス姫に渡す。
水を受け取ると、フローレス姫はすぐに飲み干した。
「なんか、体が熱くて頭がボーとする…」
「まだお酒は早かったみたいですね」
「え、あれ、お酒だったの!?」
驚いているフローレス姫を見て、フロントはニヤニヤと笑う。
「おめでたい席だからいいかなと思って、初めての大人の味はどうでした?けっこうおいしかったでしょう?」
「まあ、おいしかったけど…」
顔を膨らませて睨んでくるフローレス姫が可愛い。
その怒り方は成長しても変わらない。
フロントは水を持ってフローレス姫の隣に座る。
自らも水を飲んで一息つく。
横から訝し気な視線を感じる。
警戒を解かなければ。
「やっと、一段落しましたね」
「…そうね、これで一先ず安心だわ。ナイトが来てくれて本当に良かった。一時はどうなるかと思ったもの」
「私もですよ…」
2人の間で微笑が零れた。
フロントはナイトとネティア姫を結び付けるために迫真の演技を演じだ。
そのせいで死にかけたのだ。
「ああ、ナイト、カッコよかったな」
婚約者から労いの言葉を待っていたフロントはソファからずり落ちそうになった。
「ネティアが惚れちゃうのもわかるわ」
「そ、そうですね…」
フロントはジェラシーを感じるも我慢する。
悪役を演じたのだから仕方ない。
「ネティアの花嫁衣裳も綺麗だったわ。何だか、私も結婚したっくなちゃった」
待っていた言葉がフローレス姫の口から出てきた。
「じゃ、次は私達が結婚しますか?」
「ええ、まだ早いわよ」
思い切って切り出したプロポーズを、フローレス姫は笑いながら蹴った。
いつもの冗談だと思ったのだろう。
ちょっと、いや、かなり凹む。
フローレス姫は『早い』と言うが、フロントはかなり待ったと思っている。
婚約者と言う立場でもある。
早いと言うなら、ナイトとネティア姫は早過ぎるだろう。
引き合わせてから1ヶ月ぐらい経つか経たないかのスピード婚だ。
フロントは頬を膨らませてフローレス姫に顔を寄せる。
「え、何、怒ってるの?」
「私は全然早いなんて思ってません。むしろ、遅いと思ってます」
「そう?」
「そうですよ、あなたの双子の姉姫が結婚したんですよ?それに、ナイトは私の弟です。本音は兄の私が先に結婚したかったんです!」
フロントは子供のような不満をぶちまけて、フローレス姫を抱き寄せた。
「フロント、もしかして、酔っぱらってる?」
酒の匂いがしたのか、フローレス姫は顔をしかめている。
「あなたが戻ってくるまでにワインを20本以上空にしました」
「20本!?それ飲み過ぎじゃない!もっと水飲みなさいよ!」
フローレス姫は立ち上がって水差しを持ってこようとするも、腕を掴んで引き留める。
「私は大丈夫です」
「どこが大丈夫なのよ!いつもと全然違うじゃない!」
「少し酔っぱらってますが、全然大丈夫です。それより今大事な話の途中なんですから、ちゃんと聞いてください」
「もう、何なのよ!聞いてあげるから、その後ちゃんとお水飲むのよ!」
腕を振りほどけなかったフローレス姫は観念してフロントの横に腰を下ろした。
フロントは満足して、掴んでいた手を放した。
そして、一呼吸おいてから、話しを戻した。
「フローレス様、私はずっと待っていました。いつまであなたを待てばいいのでしょう?」
「急に何よ?」
「フローレス様…『恋の魔法』のことを覚えていますか?」
フローレス姫の顔が急変する。
驚いて、怒ったような、罰の悪そうな顔をして、顔を背ける。
「……………………・…何よ、今更、そんな話。逃げ回って、掛けさせてくれなかったじゃない…・…」
怒ったような、悲しげな声が返ってきた。
『恋の魔法』と言うのは、率直に言うとキスのことだ。
実はフローレス姫にはフロントの前に婚約者がいた。
フロントと同い年だった彼はフローレス姫を恋愛対象とは見れず、冷たい態度をとっていた。
気持ちはわかるが、子供好きのフロントにはそれがどうしても我慢ならなかった。
彼に変わって、フローレス姫の世話をしているうちに懐かれたのだ。
そして、いつの間に婚約者にもなっていた。
婚約者になったとしてもフロントもフローレス姫を恋愛対象としては見れなかった。
思春期真っ盛りだったフロントは同い年の少女達に目を奪わるのは仕方のないことだった。
しかし、フローレス姫にはそれが許せなかったようだ。
どうしてもフロントの心を独り占めしたかった、フローレス姫は恋の魔法を掛けようとしたのだ。
当然、フロントは逃げ切った。
『……やっぱり、覚えてないのか…・…』
フロントは寂し気に笑った。
フローレス姫がかけようとした時は逃げ切ったフロントだったが、実はその後、『恋の魔法』を掛けられていた。
その時は、錯乱するフロントを救いたい一心だったのだろう。
そのお蔭で深い闇に落ちても、戻ってくることができたのだ。
あの時の感触が忘れられない。
その日以来、フロントにはフローレス姫以外の女性は目に入らなくなっていた。
しかし、その当時の記憶をフローレス姫に思い出させるのは酷だ。
このまま忘れていてくれた方がいい。
「今なら掛けられてもいいですよ」
フロントは唇を突き出した。
ソファにあったクッションを押し付けれた。
「もうフロントが酔っぱらうと性質が悪いわね!ライガ、出てきて!」
フローレス姫は立ち上がってライガを呼ぶ。
しかし、出てくるはずもない。
「………あれ?」
「ライガ達は来ませんよ。私が魔法で監禁したので」
「はあ!?あなた、何してんのよ!?」
「だって、フローレス様との熱い夜を邪魔されたくなかったので」
「何が熱い夜よ!もう疲れたの!私は眠いの!とっとと帰りなさい!」
盛大に拒まれたフロントは大きく溜息を吐いた。
しかし、ただで帰るわけには行かない。
ライガ達が本当に報われない。
「わかりました、帰ります。でも、その前にお休みのキスをしてください」
「お休みのキス!?」
フローレス姫の顔が真っ赤になる。
実は、許嫁でありながらフロントとフローレス姫の間には何1つ起こっていなかったのである。
無論、お休みのキスはファーストキスである。
フローレス姫は露骨に嫌な顔をしている。
「あれ、してくれないんですか?じゃ、ここで寝ます」
「何でそうなるのよ!?」
ソファに横になるフロントにフローレス姫が切れるも、
「そ、そういうは…その…・・ちゃんと、したいのよ…・」
消え入りそうな声をフロントの地獄耳が捕らえた。
「そうですね。じゃ、私があなたに『恋の魔法』をおかけしましょう!」
フロントはソファから飛び起きると、フローレス姫をギュッと捕まえる。
「あなたの目に私以外の男が入らないように…」
さっと念願の唇を奪取したかったが、フローレス姫が顔を伏せた。
また拒まれた、今回も失敗か、と思った時だった。
「…・……・…・・私で本当にいいの?」
思ってもいない質問にフロントは目を白黒させた。
「私より、本当はマリアの方が本当はいいんじゃないの?同じ年だし、マリアの方が美人でしょう。スタイルいいし、お洒落だし…」
フローレス姫はフロントとの5歳の差にまだコンプレックスを抱いていたいようだ。
年頃になったのに、未だ自分を子供だと思っているのだ。
しかし、恋の魔法にかかっているフロントにはそんなものは関係ない。
ずっと前からフローレス姫しか見えていなかったのだから。
「マリア様は確かに美しい。ですが、私にとってはあなたが一番です。あなたが一番美しい」
「……本当?」
潤んだ瞳がフロントを見上げてくる。
あの時、救ってくれた小さな天使が成長して、この腕の中にいる。
抑え込んでいた情熱が一気に溢れてくる。
フローレス姫の頤を掴んで、唇を引き寄せる。
もし、この唇を奪ってしまったらもう、止められない。
『兄ちゃん…・…フローレス…・・…』
不意にナイトの声が聞こえたような気がして、唇を近づけるのを止める。
しかし、ナイトがここにいるはずはない。
ナイトはネティア姫の部屋に行ったのだから。
空耳だと思って、再び続行しようとした時だった。
ドサ!!
何かが崩れ落ちる音に、フロントとフローレス姫は驚いて振り返った。
「え?え?え?え?…・ナイト?」
混乱しているフローレス姫。
ナイトの声は空耳ではなかった。
開いたドアの前にボロボロになったナイトが倒れていた。
尋常ならざるナイトの状態に、ラブロマンスどころではなくなった。
涙を飲んで最愛の姫から離れて、フロントはナイトを助け起こす。
「ナイト、何があったんだ?」
「女王の親衛隊に追い返された…」
「女王の親衛隊・………!?」
フロントは唇を噛んだ。
王の一族に気を取られ、その存在を忘れていた。
女王の親衛隊は王の一族に匹敵する存在だった。
女王のために国中から集められた精鋭中の精鋭。
本来、彼らは女王の命にしか従わないが、実際は王の命に従っている。
それは王には、女王の絶大な信頼のもと兵権を与えられているからだ。
女王に絶対服従の彼らが逆らったことなど今まで一度もなかった。
その彼らがナイトを拒んだということは大問題だった。
彼らも王の一族同様、ナイトを虹の王とは認めないという意思表示を示したのだ。
「大変なことになりました。ちょっと、状況を見てきます」
「わかったわ、ナイトは私が見てるから」
「お願いします…すぐ、戻りますから!」
フロントはナイトをフローレス姫に託すと部屋を飛び出していった。