二人と怪物の口
太陽がてっぺんを回ろうとしたころ、ぐぅ、と私のお腹が鳴った。咄嗟にお腹を押さえるが、それで音を抑えられるはずもない。
「パッペル、」
「すいません。」
「謝ることじゃないよ。じゃあ休憩にしようか。」
黙々と鍬を動かしていたカロスィナトスはそう言って庭の端、森の側の木陰へと向かった。ゆっくりと歩くカロスィナトスの後ろをついていくが、内心は汗をダラダラと流していた。
時は昼時、私はお腹が空いている。昨日温まった懐のおかげでまともなパンが買うことができ、今日のお昼御飯として花の種と一緒に鞄に入れてきた。もちろん、私はそのパンを今から食べるのだろうが、カロスィナトスはどうなのだろうか。
長閑さにすっかり忘れていたが、彼は人喰いと恐れられる怪物だ。会話ができても、優しくしてくれても、もしそれが本当なら彼との食事など恐怖以外の何ものでもない。下手したら私が食事になってしまうのではないだろうか。いや、彼は私を種の運び屋として重宝しているはず、流石に食べたりはしないはず、と頭の中でグルグル考えていると、そう遠くない森の近くまで来てしまった。這う木の根に腰を下ろす彼の側に寄ろうと、ふらつくと、何故か大きな手が伸びる。
「っ……!」
声にならない悲鳴を揚げる。やはり私が彼のお昼ご飯なのか、と死を覚悟するが、大きな手は私を抱えるとそのまま自身の側へと座らせた。茫然と彼を見ていると、くぐもったマスクの下から声がする。
「パッペル。座りたいときやしゃがみたいときは一言言ってくれ。危なっかしい。」
「え……、」
「怪我する前に、私がちゃんと手を貸すから。」
茫然としてから、一瞬でもカロスィナトスが私を食べるんじゃないかと思ったことが恥ずかしくなった。彼は心配してくれていたのに。怪物なのに優しすぎる。手を貸してもらうのも、怪我を心配されるのも、久しぶりだった。街にいてももう私を心配するような人はいない。転ぶのもふらつくのもいつものことだからだ。心配してほし訳でも、手を貸してほしいわけでもなかった。それでもされると嬉しいことに変わりはない。
「ありが、とう。」
余計なお世話とか、必要ないとか、可愛くないことを言う前にちゃんと礼を言えたことに安心する。
そのとき、カロスィナトスが笑った気がした。口元が見えてるわけでも、笑い声をあげるわけでもないけれど、たぶん彼は笑っていた。
私の不安に反して、カロスィナトスは私を食べるわけでもなんでもなかった。コートの中から包みを取り出したけれどその中身は生肉でもなく、普通のパンだった。
「……花の種は買いに行けないのに、パンは買えるんですか?」
「いや、このパンは作ったんだ。花の育て方は知らないけど、パンの作り方なら知ってる。それに小麦は長持ちするから、買いに行かなくてもいいんだ。」
へえ、と相槌を打つ。大きな身体に反し、意外と器用なようだ。パンを作れる、というのも驚きだが、私の興味はそれよりも彼がどうやってそれを食べるのにかに移っていた。顔全体を覆う大きなペストマスク。パンを食べるのだから、そのマスクは外さないわけにはいかないだろう。
自分のパンを食べつつ、彼の方を盗み見る。マスクに手を掛けたのをドキドキしなら見ていると、ガチャンと音をたてて、大きな嘴部分が外れた。
「っ!」
そこ外れるんだ、という驚愕の声は心の中にとどめる。大きな嘴が外され彼の顔を覆うのはマスクの一部だった目元だけ。
嘴の下から出てきた口元は、いたって普通だった。肌は健康的な白だ。顎の骨格も普通の人間と変わらない。少なくとも、今の彼は怪物にはとても見えない。妙なマスクをかぶったちょっと変な人。
ただ、口を開けたら人のものじゃない歯並びで、少しだけ怖かった。
「あの、パッペル、そんなに見られると食べづらいのだが……、」
「え、あ、すいません。」
盗み見てたはずなのにいつの間にか凝視していたらしく、慌てて自分のパンに集中した。カロスィナトスはまた笑った。今度はちゃんと緩やかにあげられる口角も見えた。
彼は、怪物だ。人ではない。でも彼が人喰いの怪物だとは思えない。彼は私を襲わない。街の人たちも襲われたって言ってるけど、たぶん躊躇なく近づいてくる彼を勝手に怖がっただけだと思う。
でもそれなら、あの館に住んでいたという青年はどこへ行ってしまったのだろう。
「午後からは、耕したところに花の種を蒔きましょう。今日はジョウロもあるので、水もやって。」
「そうか。井戸なら近くにあるから私がそこへ汲んでこよう。」
真実がどうであれ、カロスィナトスが私に優しいのは事実。
たとえ彼が化け物であってもそれはきっと些細なことだろう。人間のふりをし続けるなら、私は自分からそれを暴こうとは思わない。
本当に些細で、どうでも良いこと。穏やかなこの庭で過ごす時間に比べたら。
すぐに帰っては疑われるだろうから、大体の作業が済んでからもしばらく庭で時間を潰していた。日が落ちかけて橙に染まる庭を見る。赤い地面に黒く陰る屋敷。この黄昏時が一番怪物の住む館らしくなる気がする。昨日街の男たちが持ってきた土をすべて撒いてしまってもまだまだそれは広大な庭の一画だけだった。この庭全体を花で溢れさせるには、いったいどれだけの時間がかかるのだろうか。カロスィナトスが玩具のように見えるジョウロで水をやる。赤い空に赤い地面、黒い館に黒い影、花の種に水をやる黒い怪物はまるで絵画か何かのようだった。不思議な美しさがあり、カロスィナトスの作り物じみた姿が加えられるとどこか違う世界に紛れ込んだような気分になる。
ふと、黒い影がいくつか飛んできた。そして小さな点のような影はカロスィナトスの周りに着地する。
「鳥……?」
一瞬、朝彼の言っていた人の言葉を話す鳥のことを思い出す。けれど、私の耳にはチイチイ、と普通の鳴き声にしか聞こえなかった。ハッとして彼に近づく。鳥ならば追い払った方が良いかもしれない。種は蒔いたばかりの上に、土の浅い所にある。鳥たちに食べられてしまうかもしれない。
「カロスィナトス!」
「パッペル?」
「鳥が……、」
言わんとすることが分かったのか、ああ、と短く返事をした。
「大丈夫、鳥たちは花の種を食べたりはしない。彼らは賢いし、私たちがここに花を咲かせようとしていることもわかってくれている。」
またファンタジーな話だ。疑わしく、胡乱げな目で見ていたのだろう、彼はマスクの下で笑った。鳥たちは私の周りには寄ってこない。動物に好かれるような性質ではないのは重々承知なので今更思うところもないが、不気味な姿をした彼には寄ってくるのに私には寄ってこないのが少し腑に落ちなかった。一羽が、カロスィナトスの角の上に止まって囀る。彼はそれを振り払うこともせず、ただその鳴き声を聞いていた。
「なんて言ってますか?」
「なに、世間話だよ。」
ますますわからない。黄昏時に、怪物と小鳥が世間話をする。シュールすぎる光景だが、彼がシュールなのは出会った時からずっとだ。鳥たちが、角に乗っても帽子に乗ってもまるで頓着しない。人喰い、と呼ばれるほどの化け物なのだから、小鳥などペロリと食べてしまいそうなものだが、そんなことはまずないのだろう。世間話のできる程度の友人なのだろうし。すぐに逃げ出す人間たちよりも、気安く声を掛けてくれる鳥たちの方がきっといい。私自身、彼から逃げなかったわけじゃない。義足のせいでうまく逃げられなかった、逃げ遅れただけだったのだから。
そう思うと途端に情けなくなり、同時に居心地が悪くなる。もう怖くはないけれど、怖がって逃げだそうと恐怖に震えていたのは他でもない事実なのだから。
「……ここまで来るのに通った森って、全然植物とか木の実とかありませんでしたけど、鳥たちは何を食べているんですか?」
「ああ、彼らが住んでいるのは、あちらの森じゃないよ。」
南、街の中心部の方を指さす。私たちが朝歩いた、背の高い木々が茂る森。
「あちらにも来るけれど、基本的に生活しているのはもっと北の方だ。」
「北……?」
大きな手が、北の方、館のもっと向こう側を指さす。
「北の方には、また違う森が広がっている。そっちには木の実があるし、たくさんの動物たちも住んでいる。豊かな森だ。」
「……そっちの方に、花はなかったんですか?」
「あった。でも種を採れたことがない。咲いている花を何度か移動させて植えようとしたが、数日もしないうちに枯れてしまった。」
土が悪かったのか、種類が悪かったのか、それとも私の植え方がまずかったのか……途方に暮れるように話す彼を見て、私がここに来るまで自分なりに何とか花を咲かせようとしていたのだと気づく。しかし今の現状はまるでその努力が報われていなくて、少し可哀そうになる。何が悪かったか、なんて私にはわからないけれど。
「今度は大丈夫ですよ。私もいますから。」
言ってから、自分は何を言っているのかと我に返る。自分いできることなんてきっと彼とさして変わらないだろうに。けれどカロスィナトスは笑うことも、揶揄うこともせずに言った。
「そうだね。今は私ひとりじゃない。パッペルがいる。」
森での別れ際、頼むよ、と頼んだ彼の声を思い出した。
期待に応えられるように、ちゃんと勉強した方が良いのかもしれない。次に来るときは園芸の本を持ってくることを決意した。