約束と怪物の背
空が白み始めたころ、私は帰路についていた。怪物に背負われて。
森に入ったころ、まさか戻れるとは思っていなかった。一晩空けた今私は生きている。しんとした空気の中、怪物の足音と、彼が手に持った手押し車だけが大きな音をたてていた。長い脚は、私がまる一日かけて歩いた道を迷いなくずんずんと歩いて行く。
不思議な心地だった。死を覚悟したはずなのに、私は生きている。私を食べるかと思っていた人食いの怪物は、人の言葉を介し、私を襲うこともなくただ花の種を蒔いた。そして今、街へ帰る私を背負って、こうして森の中を抜けていた。
怪物の背中は酷く硬い。しかし温かかった。出来心で、首を伸ばしてコートとマスクの間を見てみると、人間のものによく似た肌色が見えて目を丸くした。手袋から見えた手は真っ黒だったが、首は獣っぽい毛が生えているわけでも変な色をしているわけでもない。至って普通の首だった。そこから少し視線を上げると、藍色っぽい髪が見えた。おそらく、髪だろう。街で藍色の髪の人間は見たことがないけれど。背中から見ると、存外人間っぽい。最初見たとき、夜だったこと、私がパニックだったこと、怪物が逆光になっていたことで、ひどく恐ろしげに見えたが、夜が明ければそうでもない。変わったマスクをつけたただの大男だ。ただ、さらに視線を上げるとマスクから角が出ているのが見える。ペスト医師のマスクに似ているけれど、医師のマスクに角はない。
「どうした?」
突然かけられた声に心臓が止まりそうになる。
「何か変わったことでもあったか?」
なにもないだろう、という言葉が裏にある気がして、角の付け根を見ようとした目線をそろそろと落とした。
「……なにも、ありません。」
「そうか。」
また歩き出す。
少しずつ、眠っていた森が起き出すように動物たちや鳥の声が聞こえてくる。化け物といるというのに、この上なく穏やかな朝だった。
「あなたは、」
「なんだ?」
「あなたはなぜ、あの庭にいたんですか?」
自分の庭だから、と答えられたらそれまでだったけれど、それとは違う理由がある気がした。それだけの理由なら、花の種を蒔く私を手伝ったりはしないだろう。
「……私は、あの場所に花を咲かせなくてはならない。」
「あなたもなんですね。」
「ああ、君と違う理由だが。」
ゴロゴロと空の手押し車が音をたてる。
「私は必ず、あの庭を花で満たさなければいけないんだ。」
信念を感じさせるような声に、なぜ、とは聞けなかった。それは彼にどこまで踏み込んでいいかわからない恐怖からと、聞いてはいけない何かのように思えたからだ。
「しかし、私には花の咲かせ方がわからない。種も苗も、何もない。」
花を咲かせなければいけないと言う割に、何の色もなかったのはそれだったのか、と納得する。けれど、人間のふりをしている割に、随分と簡単にぼろを出すことに、関係のないはずの私が心配になる。街に行けばどこでも花の種も苗も、必要な肥料も手に入る。にも拘わらず何もない、ということは街に行けないようなモノ、と言ってるのも同じだ。
だが、ここまで聞いて嫌な予感がした。
「パッペル、君さえよければ花を咲かせるのを手伝ってくれないか?」
くぐもったマスクの中から予想通りの言葉が出てきて、思考を巡らせる。
彼は花を咲かせなくてはならない。街の人間、私もまた花を咲かせなくてはならない。
目的は一緒、本来であれば断る理由がない。だが彼は怪物だ。たとえ今私のことを食べないとしても、気性が荒くないと言えど、不安は付きまとう。化け物とバレた瞬間、ばくり、なんてこともあるかもしれない。正直なところ、私はもう二度とこんな恐ろしい思いをしたくなかった。
「……しかし、あの場所は危険な場所なのでしょう。化け物が住む、と言われているくらいです。」
ぴくり、と不自然に私を背負う身体が硬くなったのに気づき、息を飲んだ。
怪物自身がどう答えるか。どうか最初に言った時のように、私のような娘の来る場所じゃない、と言ってほしい。
「大丈夫だ。今あの屋敷に怪物がいない。だから、」
手伝ってくれないだろうか。
もう一度怪物は言った。
ひどく嘘が下手な怪物だけれど、私の逃げ道を塞ぐには十分だった。
「わ、たしが一度に運べる土と種は少しだけ、です。」
「それでもいい。少しずつだけでも良い。……占い師、の言った予言に期限はあったのか?」
言われてみれば、そんな話は聞いていない。ぐっと言葉に詰まる。町長も他の町人も、そんなことは言っていなかった。いよいよ予言などという怪しげなものの信憑性が疑われる。そんなもののせいであの地の送られたことが虚しくなる。
「……なかった、と思います。」
「では、」
木々を抜け、視界が開ける。朝日に照らされる鮮やかな町並みが現われた
「また君がこの森に入ったとき、迎えに行こう。」
「わかり、ました。あの、」
暖かい朝日を浴びる化け物の姿に、ひどく奇妙な心地にされた。異形であるのに、ただの人間のようにも見えてしまう。
「名前を、聞いてもいいですか?」
「私の名はカロスィナトス。頼むよ、パッペル。」
それだけいうと、光に背を向けるように化け物カロスィナトスは溶け込むように森の中へと消えていった。
背中が見えなくなるのを確かめてから、再び町のほうを見る。もう二度と見ることはないと思っていた町の景色。もっと感動するかとも思ったのに、そうでもなかった。呆然としたような、突然夢から覚めたような、そんな気分でただただそれを眺めた。つい昨日、死を覚悟した場所に私は生きて立っている。
温かい朝日、かすかに香る花の匂い、色とりどりな花弁がここからでも見えた。日が昇るにつれてじわじわと帰ってきたという喜びがあふれてくる。死んでしまうと思っていたのに、生きて帰ってこられた。殺されることも喰われることもなかった。カロスィナトスが運んだ手押し車を手に、街へと歩き出す。何も問題はなかった。少なくとも私が無事帰ってきたと知れば、ほかの住人が行ってくれるかもしれない。安全だとわかれば私以外の人が行ってもいいはず。むしろ一度に多くの量が運べず、足も遅い私が行くよりも大人が数人係で行って作業したほうが効率だって良い。私はこれでお役ごめんだ。
先ほどのカロスィナトスとの会話なんてなかったことにして、私は意気揚々と明るい街へと帰路についた。
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ゴロゴロ、ガツ、ゴロゴロ、ガツ。手押し車の車輪の音と石畳を打つ義足の音は、街の人たちの目を引く。けれど今日は音だけが原因じゃない。
「パッペル!パッペルが帰ってきたぞ!」
そんな誰かの声にまた一人、また一人と北の土地に行ってきた私が生きて帰ってきたことを知る。どこか誇らしげな気持ちで、町長の家へと向かった。建前としては報告、本音は町長のところへ行けば労いか何かで食べ物がもらえると思ったからだ。一晩中起きていたのと、いつもよりはるかに歩き回ったせいでとても眠い。何か食べ物をもらって、一刻も早く家に帰って寝たかった。
「パッペル!よかった!無事だったんだな!」
町長の家に着くと、ひどく喜ばれて少し困惑した。私は確かに怪物がいる館へ行って花の種を蒔いてきた。だが私はそれを証明するものを持っていない。そうである以上、何もせずに帰ってきたのかと疑われるのではないか、と不安だったのだ。しかし一通り喜ばれ、家の中に招き入れられた。想像通り、お茶とともにスコーンが置かれる。がっついているように見えない程度に、スコーンを手に取った。
「……それで、君は北の館まで行けたのかい?」
「はい、着いたのは夜でしたが、無事にたどり着きました。荒廃していて、本当に何もない庭でしたが、とりあえず、持ってきた土を置いて花の種を蒔いてきました。」
「そうか、それならいいんだ……、ただ、」
相変わらず疑うような言葉は出ないが、町長は落ち着きなく視線を逸らし貧乏揺すりをする。
「パッペル、君は怪物を見なかったのかい?」
ああ、と思い当たる。彼に落ち着きがないのは、他に来客の予定があるとか急ぎの予定があるとかではなく、かの人喰いの怪物がどうであったか聞きあぐね居ていたのだ。小さい黒目には明確な怯えが浮かんでいた。きっと昨晩の私も同じように怯えていただろうに、それを棚に上げて大の男が怖がる様を冷静に観察する。
「……怪物、とはどんな姿をしているんですか?」
「……あの館に住み着いている化け物は、二本の黒い角を持ち、獣のような藍色の毛と金色の眼をしてる。手足は黒く、身体が大きい、それから口には牙が生え揃っている。」
特徴を聞くと、やはりほとんどが私の会ったかのペストマスクの男と一致していた。わからないのはゴーグル越しの眼の色とマスクに隠された口の牙だ。
「見たことがあったんですね。」
「ああ、数年前、館に住む青年が街に来なくなってね……。数人で様子を見に行ったら、その化け物がいた。それは私たちが見えるとすぐに襲い掛かってきた……あの恐ろしさはきっと一生忘れないよ。」
人喰いの怪物カロスィナトス。今朝がた聞いた名を思い出す。理知的に見えたあの怪物と、町長の襲われた怪物像がうまく重ならない。屋敷の青年が消えた、というのが他でもない人喰いである証拠なのだろうが、ピンとこない。
「君は、見なかったのかい?あの化け物を。」
「……私が庭に行った時、夜でした。でも明かりは点いていませんでした。そして私が庭で花の種を蒔いている間も、何かに襲われることはありませんでした。」
化け物は、不在だった。端的にそう言う。嘘ではない。明かりは点いていなかったし、襲われることもなかった。怪物は見たけれど。それでも『怪物はいなかった』と勘違いしてもらう方が良い。そうしたら私以外の人が花を植える仕事につく可能性が高くなるだろうから。
「いなかった、のか……?」
「少なくとも、私は問題なく庭で種を蒔くことができました。」
微かな良心により、明言はしない。小さな目を丸くする町長からスコーンに視線を落とした。
町長は再び落ち着きなくそわそわとしだす。それは先ほどの怯えとは違うもので、どこか喜色さえ感じさせた。
なんとなく理解する。町長が、私が怪物の庭へ行って無事に帰ってきたことを疑わなかったのは、そう信じたかったからなのだ。
自分たちが怖がるものはいない。身体の不自由な少女が問題なく帰ってきたのだ。街のためにも、安全にあの場所に花を咲かせることができる。
要は、信じたいものは信じ、信じたくないものは信じない。それだけなのだろう。
「ありがとうパッペル。危険な仕事を任せてすまなかったね。」
もう私のことよりもこれからあの場所に花を咲かせる方法を考えているのだろう、早口に礼を言い、お金の入った袋を謝礼として渡される。庭に行く前にももらったが、お金は生きていてこそ役に立つものだ、と実感した。
スコーンを一つ、席を立つ前に口の中に入れて、私は町長の家から去った。一日ぶりだというのに、ひどく家が恋しい。空になった手押し車は町長の家の前に置いておく。きっともう私には必要なくて、次に行く人たちが使うだろうから。
普段よりもずっと温まった懐に、珍しく食べることのできた甘味。ほどよく満たされた腹に、歩き続けて疲れ切った身体は一刻も早い睡眠を求めている。義足を外し泥まみれの身体を拭くのもほどほどに、私はベッドに倒れ込んだ。疲弊したスプリングが悲鳴を上げる。
泥のように眠る直前、カロスィナトスのことを思い出した。
嘘が下手で、後ろ姿が普通で、私が手伝いに来ると信じて疑わなかった、人間臭い怪物。
掌に収まりそうな程度の良心が痛むのを感じた。けれど、もう二度と会うことはないだろう。私はもうあの場所へ行かない。私の代わりの人たちがちゃんと花を咲かせる手伝いをしてくれるから。いい大人たちだ。きっと私よりもうまくやる。効率だって桁違いだ。下手なことをしてカロスィナトスに食べられることもないだろう。
「頼むよ、パッペル。」
そんな言葉、聞かなかったことにして、私は気絶するように眠った。
これで自分の仕事は終わったのだと、疑いもしないままに。
再び戻った安寧な生活はあっさりと奪われる。