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希望と絶望の残滓

耳元を蓋っていた轟音がなくなり、痛いほどの静けさがあたりを支配していた。恐る恐る目を開けると、真っ暗な見慣れた庭が現れた。あたりも暗く、まだ街の人々がここへたどり着いていないことを知る。間に合った。まだ遅くなんてなかった、と安堵の息を吐いた。初めてこの場所に来てからまだ一年も経っていない。けれどあの夜の今晩は随分と違っていた。

だだっ広く、ひたすらに黒い不毛の土地だった。しかし今は耕され豊かに香る地面に、春に向けて準備を進める苗が植わっている。冷たく白く庭を見下ろしていた月はなく、深い黒いベールを森にも街にも庭にも等しくかけている。あの日地面に這いつくばりカロスィナトスにから逃れようとしていた。しかし今彼の腕に抱えられ、この春を待つ庭を見ていた。

一人きり、いつ死んでも仕方がないと諦めていた私はもういない。私は何を捨てても、彼の隣にいたかった。



「……カロスィナトス?」



まだ街の人たちがここへ来るまでに時間があるとはいえ、悠長にしている時間はない。なのにカロスィナトスは焦りなどまるでないように、夜の庭を見ていた。



「……少し待ってくれ。逃げるにしても最低限のものはいるだろう。」



こちらを見ているのか、見ていないのかわからない。カロスィナトスはつぶやくようにそう言って明りのついていない屋敷の中へと入っていった。人々が火を放つのにやきもきしていたが、彼の言うことも尤もな話だ。着の身着のままに逃げることしか考えていなかったが、実際そんなことをするのは無謀だ。それもまだ冬も半ばの時期に。

カロスィナトスを待ちながら庭を、森を見る。こちらから森の中はまるで見えない。木々の隙間には飲み込まんばかりの黒がある。じぃ、と見てみるがそこに一点の明りもないことに、今だけは安堵する。暗い森に安心するのはきっとこれまでもこれから先もないだろう。


庭は静かなもので、これから焼き払われてしまう可能性などまるで知らず、いつも通りそこにあった。春に向けてつぼみを作り始めていたパンジー。つぼみからは微かに未来咲く花の色が顔を覗かせている。その合間を縫うように、チューリップの球根が身を温めている。あと数ケ月もすれば、この黒い地面を覆いつくすような花が咲き乱れるはずだった。その未来は、数分後に消え入るのだろう。焼けたとしても何もかも失われるわけではない。焼けた草花もまた、いつかの肥料となるだろう。世話をすれば、心を砕けば必ず土地は生き返る。何度でも花を咲かせる。根こそぎ希望を奪われるわけじゃない。



「パッペル、おいで。」



背後から掛けられた声に振り向く。感傷に浸り、戻ってきていた彼に気づかなかった。彼の手にはいくつかの小袋や帽子、それから小さめの鞄があった。駆け寄ると帽子をかぶせられ、鞄を掛けさせられる。鞄は私の身体にあった大きさだった。



「パッペル、よく聞いてくれ。」



時間なんてないはずなのに、カロスィナトスには急ぐ気配がない。宥めすかすように膝をつき私に目線を合わせた。



「この屋敷の裏手に細い道がある。そこから真っ直ぐ、北に進むんだ。鞄には方位磁針が入ってる。」

「カロスィナトス……?」

「歩いて歩いて、そうすれば街に出る。君の身体では時間がかかるかもしれない。けれど諦めてはダメだ。決して希望を捨ててはいけない。」

「待って、」

「街に近づくと寒くなる。雪が見え始めたらもうすぐだ。街に入ってすぐ右手側に『カルディア』という食堂がある。女将さんに「カロスィナトスから聞いた」と言えば良い。君のことを悪くはしない、」

「違くて!」



つらつらと語る彼の言葉を遮る。彼は少しだけ困ったような顔をして笑った。けれど笑っているのは口元だけで、目は少しも笑ってはいなかった。



「そうじゃ、なくて……、」

「なんだい?」

「なんで、なんでカロスィナトスは一緒じゃないんですか?」



彼の言うすべて、私一人という前提だった。よくよく見れば、彼が準備にと持ってきたものはどれも私の身体には余らない物で、彼自身が持つものは何もない。彼はいつも通りの格好だった。黒いコートに帽子。ここ最近と違うところと言えばあのペスト医のマスクを手に持っていることくらいだ。今から北へと旅立とうとしている人の格好ではない。



「私はここへ残るよ。」

「なんでっ……!」

「私は、ここを守らなくてはいけない。ここは希望の庭なんだ。……たとえ焼き払われることを止められないとしても、私はこの場所にあり続けなければならない。」



話せば話すほど、聞けば聞くほど呼吸をするのが難しくなった。全く笑っていない彼が、怖かった。彼のそのどっしりと地面に根を張った大木のような覚悟が、恐ろしかった。私が何を言っても、まるで説得できなさそうで。



「だめ、だめです。もうみんなここへ来てしまいます。」

「そうだね。だからパッペルは早く逃げなさい。」

「焼くだけじゃない、みんなは貴方も殺すつもりなんです。逃げなきゃ、死んでしまいます。」

「……だとしても、私はここへ残らなくちゃいけない。」



何を言っても聞き入れてもらえない。焦る。口が乾いてうまい言葉も見つからず意味もなく開閉させた。

何を言えば、彼は聞き入れてくれるだろうか。何を言えば、彼は生きることを選んでくれるだろうか。いくら考えても、浮かばない。彼を説得できる未来がこれっぽちも想像できなかった。

カロスィナトスは死ぬ気だ。この彼の守る庭と共に。



「……いつか、いつか必ずこの場所に花が咲きます。どれだけ時間がかかっても、どれだけ困難があっても、必ずこの庭に花が咲く日が来ます。」

「…………、」

「貴方は、その未来を見ないつもりですか?花を咲かせなければならないんでしょう?その花が咲く日を、見ないんですか?」



いくら言っても、心に響いている気がしない。心には穴の開いた船のように冷たくてとめどない絶望が流れ込む。それはなぜ彼が逃げようとしないか、私自身がわかっているからだ。


奇病に罹る人々。

怪物に変貌する当主。

逃げ出す人々。

与えられた予言。

燃やされた庭。

逃げられない患者たち。

いなくなった患者たち。

一人残された怪物、カロスィナトス。


「異形の身となった患者に、逃げ場はない。どこにも行けない。だから、」


ぽっかりと残された庭の一画。

当主の青年、カタラ・ポルタ。


「私もみんなも、ここにいるんだ。」


彼の仲間も、カタラ・ポタラも、ここにいる。

一画、花の植えられない庭の、冷たい地面の下に。

彼は庭の番人であり、同時に墓守なのだ。


彼は彼一人で逃げ出すことは決してないのだろう。ここを去らなかったのはその姿だけが理由ではない。土の下で眠る同胞とともにありたかった。彼らの希望であった庭一面の花を叶えたかったからなのだろう。

かつての彼に何があったのか。何を思って過ごしてきたのか、私は知らない。彼の語った範囲でしか、わからない。同胞がいなくなった後、異形の身体を抱えて森の奥、街の人々に怪物と恐れられながら一人、どのように生きてきたのか。どれほどの覚悟をその胸に抱いているのか、私は塵ほどもきっと理解はしていない。



「いつか、いつかここにも花が咲くだろう。」



金色の眼は、私を見ながら私を見てはいなかった。



「私は花が咲くその日、この病から解放されるとき、皆と一緒にいたいんだ。たとえ戻る身体を持っていなかったとしても。……ここは希望だった。みんなのなけなしの希望だった。絶望に満ち満ちた屋敷の中に落とされた小さな望みを掻き集めて託された、希望の庭だ。」



彼の眼は、はるか遠くの記憶と、記憶の中で夢見た未来、その両方を見ていた。



「どうかこの庭が花で覆われる時まで、希望を捨てずに息をひそめてでも生きていこうと、約束した。……私はこの希望の庭を捨てられはしない。もう誰にも蹂躙させはしない。少なくとも、私の命が続く限り。」



それは、死んでもこの土地を離れはしないという決意だった。私にはその決意の折り方がわからない。

私は、命よりも大切なものなどこの世にないと考えている。何を失っても、どれほど傷ついても、命さえあれば何度でもやり直せる。何度でも立ち上がれると。

しかし彼は違う。彼にとって、この庭は命よりも大切なものなのだ。命よりも重い、いやきっと彼にとって自分の命が軽いのだ。庭という場所を守ることに心血を注ぎ、そうすることで生きてきた。そんな人なのだ。

命より大切なものなんてないと考える私は、彼の心を折らなければ、その覚悟を自らの我が儘を以て砕かなくてはならない。



「……希望の庭。花が咲く日まで生きようと思った庭。なのになぜ、今その庭には貴方しかいないんですか。生きていこうと、約束したなら。」

「……絶望はいつも、一瞬の隙をついてやってくる。」



諦めたように、何もかもを気負わなくなったように彼は話し出す。何も知らない子供に言って聞かせるような教授の響きを以て語る。



「絶望は、どんな病にも勝る、死に至る病だ。奴らは背後から、足元から音もなくにじり寄る。つい昨日まで笑いあっていたのに、希望ある未来を夢見ていたのに。奴らは一瞬でその希望も、期待も、生きる活力も皆すべて、奪い去っていった。私が、少し外に出ている、そのたった一日の間に。」



戻ってくると、絶望が嘲笑うように、根こそぎ希望を消し去るように、赤く赤く燃えていた。それをただただ、放心しながら見ていることしかできなかった。



「地面が酷く熱かった。それでも中心に行くとたくさん、燃え残りがあった。真っ黒い地面の上に、煤けた白い燃え残りがあった。」



燃え尽きた希望のあとには、新たな絶望が鎮座していた。

出迎えたのは、笑顔の同胞でも、少し神経質な青年でもなかった。それらであった、絶望に侵された骨だけだった。

彼らは死ぬことで、病という絶望から逃れたのだ。きっとそう足元にあったものにそそのかされて、甘美な解放に誘われて、赤に包まれた。



「私だけが、絶望からも、死からも、解放からも逃れてしまった。」



乾いた笑みの張り付けられた彼の表情に暖かさなんてない。仕方ない、というように包み込む柔らかさはなかった。初めて見たむき出しの彼は、ただただ痛々しかった。

カロスィナトスにとって彼は、死に損ねた亡霊なのだ。絶望により燃え尽きたはずのかつての希望にしがみ付いたまま、動くことすらもできない怪物なのだ。

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