結末と怪物の世界
ざわざわ、ざわざわ。人々の声が酷く耳についた。手押し車をいつもより早く押す。とにかく、街から早く出たかった。先日の火事から街の人たちは疑心暗鬼になっていた。あの火事は何だったのか、と。ただの火事だったのか、占い師が予言した『災厄の炎』もしくはその前兆なのかと。確かに予言が告げられた時、人々は怯えた。だがそれでも心のどこかでは本気にしていなかったのだ。グラオザームに『災厄の炎』から襲われる謂れはない。だから怯えつつも、根拠のない余裕を持っていた。だが今回三軒の家が全焼した。人死こそなかったものの、家財を失うことは死活問題で、だれも他人事と見ることはできない。今まであまり信じていなかったうえに、『災厄の炎』を防ぐために、と怪物のいるという北の庭に私を送っていたため、安心していたのだ。だが安寧は崩れた。今やだれもが、次に火事が起きるのは自分の家なのではないだろうか。次は街全体が炎に包まれるのではないか。戦々恐々としている。
そして、急かすように疑うように、彼らは言う。
「北の森の奥、恐ろしい怪物のいる庭に、本当に花は植えられているのか。」
「そもそもあの足で森の奥まで辿り着けるのか?」
「今までずっとみんなを騙してたんじゃないか?」
「ああほら、今日も行くのだろう。」
「いったいどこへ?」
ぼそぼそと、いや隠すつもりもないのだろう。得体のしれない『災厄の炎』よりも、目に見える私という存在の方が、不安不満のはけ口にしやすい。噂話、疑念の眼。実害がないと言えばないのだが、不愉快だ。そして何より、気が滅入る。小さなコミュニティでつまはじきにされるのは命に係わる。今まで何とか生き延びてきたが、それも無に帰っていた。保護されなければ、私みたいなのはまだ生きていけない。
怪しむならついてくればいい。疑うなら確かめに来ればいい。不安なら庭を造る手伝いをすればいい。そう堂々と言えたならどれほど楽だっただろうか。私はただ、何も聞こえないふりをして足を動かした。
正論とはいえ、それを言っても彼らが来ないのは目に見えていた。そして私自身、来てほしくない。疑いは晴らしたい。けれどあの庭に、他の人が入ってきてほしくなかった。あの場所を、あの空間を壊されたくない。だからこそ、私は黙っていた。少なくとも、明確な実害がない限り何も行動を起こしたくない。
次の春、次の春が来ればあの庭は花で咲き乱れる。そうすれば『災厄の炎』は訪れないと自信をもって言える。花が咲けば、占い師の言っていた通り『災厄の炎』が防げる。カロスィナトスも病気が治って人の姿に戻れる。そうなれば北の地に街の人たちも来ることができる。彼らの恐れる怪物はいない。予言通りの花は咲いている。そうなればもう、疑いの目は向けられない。そうなれば何もかも平和になる。
次の春、次の春が来ればすべて解決する。静かで穏やかなあの場所はきっと失われてしまうだろうけど。前の生活に戻るだけ。それだけだと思えばいい。
少なくとも、春までは私とカロスィナトスのささやかな平穏は続くんだ。まだ誰も知らなくていい。疑うなら疑えばいい。その息苦しさの代わりに、私は優しい怪物と共にいられるから。
全ては花開く春に。だからそれまでは。
ガラガラと音をたてる車輪に意識を集中させた。
森の中は相変わらず茂る葉に陰っている。街に比べて日が当たらないため寒いけれど、針の筵のような場所よりもずっと落ち着く。いつものように鳥が私を追い越すように森の奥へと飛んでいった。鳥は、森の奥の屋敷よりもずっと先、北の森に住んでいるとカロスィナトスが以前言っていた。その先は寒い場所らしい。けれどこの森よりも植物が豊かで動物たちもいる。前に話に出たとなかいというものもきっとそこにいるのだろう。
ふと、思った。私はどこにもいったことがない。グラオザームの町の外に出たことは数えるほどしかなく、ほかの町に行ったこともない。今までどこかに行きたいと思ったこともなかった。外に出れば保護してくれる人もなく野垂れ死ぬのは必至。楽ではないけれど街の中で生きていられた。必要以上に外に目を向けることもない。けれど今、私は街の中よりもほかの場所に平穏を見出している。
私の足じゃ遠くへいけない。どこにも行けない。けれど、彼がいれば行けるだろう。彼は私を庭まで連れて行ってくれる。
そこまで考えて自嘲する。そんなことに彼を付き合わせてはいけない。それは私の我が儘でしかないのだから。
彼と一緒にいられるのも、そう長くない。春が来れば彼は元に戻り人の中で生きていける。
カロスィナトスは優しいから、私が頼めば一緒にいてくれるだろう。我が儘も聞いてくれる。でもそれじゃあダメだ。いつからなのかは知れないけれど、彼はずっと一人だった。彼の人柄は穏やかで、元来一人で過ごすような人じゃないのだろう。奇病のせいで一人でいざるを得なかっただけで、きっとあの人は人に囲まれて過ごすような人なのだ。
怪物がいなくなったとあれば、私の仕事は終わる。安全なのが分かったらお役御免。庭仕事はきっと私よりももっと上手な、それを生業にするような人が引き継ぐだろう。私にしかできない仕事はなくなり、私はまたヒエラルキーのはるか下に一人沈んでいくことになる。それが果たして、前と全く同じかは分からないけれど。
「この館よりずっと先かい?」
水やりも一通り終わりココアを飲みながら庭の端に座ってカロスィナトスと話していた。
「はい、この先には何があるんですか?」
館越しに北を見るけれど私には町までの道を塞ぐ高く深い森にしか見えない。北には動物が住んでいて寒いけれど動物が生きていけるだけの草も花もあると言っていた。今まで一度だって私の方から質問なんてしたことはなかったけれど彼が怪訝な顔をすることもなくことも無さげに言ってみせた。
「しばらく森が続くけれど、森を抜けた先には雪の街、ネーヴェがある。」
「雪の街?」
「ああ、そこは豪雪地帯でね。冬になると街のどこを見ても真っ白、毎日雪かきをしなければ追いつかないほど。」
「へえ……!」
ネーヴェ。聞いたこともない街の名前だった。
グラオザームにも雪は降るけれど、雪かきなんてしたこともない。雪は積もらない。いつも空から降ってきて、それから地面に吸い込まれて消えてしまう。ごくごく稀にうっすらと積もることもあるけれど、雪かきなどしなくても一日経てば溶けてなくなってしまう。
「寒い所だけど、夏は涼しい。冬はこちらよりも長いけど良い所だよ。大きな池があるんだけど、冬になるとそこが凍り付くんだ。その上でスケートをしたり、穴をあけてワカサギを釣ったりもする。」
「釣り……、」
釣りなんて一度だって見たことない。そもそも魚なんて高級品ほとんど食べたことがなかった。グラオザームと交流があるのはいつも南や東の街々。深い森が横たわっているせいで北方とはかかわりがないのだ。
ネーヴェ、聞けば聞くほどに行ってみたくなる。そこにはきっと私の知らない世界がある。
「行ってみるかい?」
「え?」
「気になるんだろう。落ち着いたらネーヴェに行ってみようか。庭の花が咲けばひとまず時間もできる。」
思わず目を見開いたことに気づいたカロスィナトスは不思議そうに私を見た。
「パッペル?」
「……ありがとうございます。でも、」
思ったままのことを言おうとして、口を噤んだ。そんなことを聞くなんて可愛くないから。何も深くは聞かず、社交辞令のように礼だけ言えばいい。それはきっと余計なことだろうから。
なんでもないです、そう言おうとしたがグ、と近づけられた顔に言葉を失う。ピントの合わない視界に金色の大きな目が見えた。
「パッペル、言いたいことがあるなら言って良いんだよ。私と君の仲じゃないか。」
冗談めかすように言って大きな手が私の頭を撫でる。少し重くて冷たい掌に身体の芯が暖かくなるのを感じた。
気を悪くしないだろうか。面倒くさいと思われないだろうか。鬱陶しくないだろうか。瞬く間に不安が湧き上がってくるけれど、大らかに撫でる大きな手にそれは泡沫のように消えた。
「邪魔じゃ、ないですか?」
「まさか、邪魔なんかじゃあないよ。君と話すのは楽しいし、好きだ。君のことを疎ましく思うことなんてないよ。」
低い声が心地よく上から降ってくる。身体の中心に焼き石でも入れてるんじゃないかってくらい、全身火照るように熱くなった。
「ありがとう、ございますっ……、」
きっと私は、今以上の幸せを感じたことはないだろう。そして多分、この幸福感以上のものを彼以外の人からもらうこともない。
熱い喉から絞り出されたそれは無様に掠れていたけれど、カロスィナトスは呆れるでもなく微かに困ったように笑った。
「パッペル、泣かないでくれ。君に泣かれてしまうと私はどうしたらいいかわからない。」
いつの間にか溜まっていたらしい涙を黒い指先が攫って行った。真冬なのに、顔も喉も身体も、燃えるように熱かった。
「君が望むなら、どこへでも行こう。美しいものは草花以外にもたくさんある。この世界はきっと君が思ってるよりもずっと広いんだ、パッペル。」
その言葉一つ一つが、私を泣かせる原因だと彼は知っているのだろうか。いや、きっと知っているのだろう。彼は敏い人だから。その言葉はどれも私を泣かせるけれど、そのどれもが私を心の底から喜ばせるものだから。
カロスィナトスは飽きることなく滑り落ちる涙を困ったように、でも少しだけ嬉しそうに拭っていた。