疑念と火事の炎
朝、カロスィナトスに連れられて街へと戻ってきた。森を抜けると冬の朝らしい目が痛いほどの白い日が街の向こう側から上がってきていた。背から降りて空の手押し車を受け取り、街へと向かう。軽快な音をたてる手押し車を手に歩いていくと、ふと何かの匂いが鼻についた。くん、とかいでみて、血の気が引いた。記憶がひっくり返され、吐き気がせりあがる。
何かが、大きな何かが焦げる匂い。
「火事……!」
すう、と鳩尾が冷たくなり気づけば足を走らせていた。手押し車が跳ねるのも義足の装着面がずれるのも気にならず、街の奥へと向かった。街の入り口あたりで、匂いが強まるのを感じた。走っていても街の人々の声が聞こえてくる。
「やっぱり乾燥してたからかしら……、」
「火元はどの家……、」
「風が強かったんじゃ、」
「燃え移ってしまった……、」
皆一様に同じ話をしている。汗が流れた。それがらしくもなく走っているせいか、それともにじみ出る冷や汗か。
「郊外、」
何度かその言葉を聞いてさらに身体が冷たくなった。もしかしたら、自分の家かもしれない。自分で言ってしまうのもあれなのだが、私の家はきっと燃えやすい。何もなく、何の対策もしていない。木だけで作られた私の家は、きっとよく燃えるだろうから。
「はっ……うあっ!」
珍しく走れていたがやはり無理が来るもので派手に転ぶ。がらがらと音をたてて手押し車が一人で進んでいく。勝手に前へと行く手押し車をを見て少しだけ落ち着いた。走っても走らなくても、起きたことは変わらないのだ。街の中はざわついてるけど危機感を感じるほどじゃないし、落ち着いていて他人事のように話してる。たぶん、もう火はおさまっているのだろう。燃えたのが私の家だろうとなかろうと、もう何も変わらない。
立ち上がろうとしたところで声を掛けられる。
「パッペル大丈夫!?どうしたの?」
「ネルケ……、」
ひとりでに動く手押し車をネルケが捕まえて、無様に倒れている私に駆け寄った。相変わらずきれいな格好をしている彼女を見て途端に恥ずかしくなり、さっさと立ち上がる。服についた砂を払おうとして、庭仕事で土塗れになっていたことを思い出し諦める。
「……火事が、火事があったって聞いたんだけど、どこで、」
「ああ、奥だよ。端の方。昨日の夕方に火が出たの。最初は一件だけだったんだけど、北風が吹いてたせいで広がっちゃって、三軒が全焼。」
私の家は、と聞こうとしたが、相変わらず能天気に話す彼女を見て、私の家ではなさそうだと判断する。流石に家の燃えた当人を前にしてこうもケロッとしているとは思えない。
手押し車を押すネルケについていくと、彼女の家、町長の家に向かっているのではないことに気づく。おそらく、その全焼したという家の方へ行くのだろう。野次馬のようで嫌だけど、自分の家ではないと確信したい私は何も言わず彼女の後ろをついていった。
焦げ臭さが少しずつ増して酸っぱいものが喉元までこみ上げてきた。嫌なことを思い出す。
郊外、と言っていたが私の住んでいる地区ではなかった。数分歩いた先、枠組みだけが綺麗に残った家だったものの姿が見えた。支柱と土台だけが唯一それが家であったと証明している。煙もなく、水で消化されたのだろう家の残骸は真っ黒になりながらその匂いを残していた。
「その、ここの家の人は、」
「大丈夫!みんなすぐに逃げたから少し怪我したくらいだよ。」
死んだのか、とは直接言い辛かったが察した彼女の返答に安堵のため息を吐く。別にこの家の人々が知り合いなわけでも、友達なわけでもない。顔すら知らない。けれど、火事で人が亡くなる、というのは嫌だ。何か明確な理由があるわけではないけれど、とにかく生理的に嫌だった。一番の理由はきっとフラッシュバックなのだろうけれど、火が何もかもを飲み込むそれがもう二度と起こってほしくない。
「よかった……、」
「よかったものか!」
安堵の息とともに零れ落ちた言葉を拾われ、バッと後ろを振り返る。見知らぬ男性がそこに立っていた。見覚えのないかおに少し困惑する。
「これから冬も本番だってのに、全部燃えちまって……これからどうしろってんだ!」
それを聞いて彼がこの燃えた三軒の内の一軒の家主だと理解した。そして良かった、という言葉を聞かれたことにバツが悪くなる。そんなことは重々わかっている。確かに人が死ななかったのは不幸中の幸いだ。だがなんにせよ当事者からすれば不幸以外の何ものでもない。生き残ったとして、これから冬を越すのにどうすれば良いのか、絶望に暮れるのは同じこと。少なくとも私自身そう思ったのだから。私の家には私以外いない。燃えても誰も死なないが、生活はたちまち立ち行かなくなる。他人事だから、「誰も死ななくてよかった」などと言えるのだ。
「……その義足、お前が化け物の庭に花を植えてる奴か。」
「はい、私が、」
唐突なそれに首を傾げるが、すぐに何を言われるか思い当たり青ざめた。逃げ出したくなるが、きっと逃げたら妙な噂が広がる。
「お前本当に花を植えてるのか!?順調だなんだって町長に報告してるみてぇだが、見てみろ!『災厄の炎』は結局来た!」
「ちょっと貴方!」
「植えています。……ですが占い師の言っていた『花が咲き乱れる』という状態にするまでどれだけの時間がかかるかくらいはわかるでしょう?」
食ってかかるネルケを抑えて、努めて冷静に、言葉を選んで答える。嘘は、何もついていない。私は言われた通りに花を植えているし、まだ完成もしない。グラオザームの町人たる彼もまた草花に関わっている仕事なのだろう。花畑を作る難しさ位、わかっているはずだ。それも死んだ土地と呼ばれていたやせた土地に。
「……っそもそもお前以外誰も花が本当に植えられているか知らない!嘘ついて森の中に種を捨ててるかもしれないだろ!」
わかっていても、引っ込みがつかないのだろう。言葉を重ねる彼に苛立ちが生まれたがそれは焦りに覆される。騒いでいるせいで、周りの目を引いていた。この男性がどういう人なのか知らない。けれどきっと私よりもこの街になじんでいる人なのだろう。多くの人に囲まれれば、目の敵にされるのは善悪どうであれ、私の方だ。
「なら、来れば良いでしょう。」
「なっ……!」
「大人の手があれば、助かります。人手はあって困るものではないので。……私が嘘を吐いているか確かめたいのなら、私と一緒に森の奥、館の庭へ向かいましょう。花が植わっているのが、見えますよ。」
とにかく話を終わらせたかった。こう返せば何も返せないことをわかって選んだもの。
最初、私はこの仕事を押し付けられた。怪物がいるからと、誰もが怯え、恐れていた。そこで死んでも困らない私が選ばれ、森の奥へと送られた。私が無傷で戻ってきたとき、皆驚いた。そして何度行っても問題なく帰ってくる私を見て、それが普通の光景になった。それでも、皆恐れていた。私が無事で帰ってきても、皆恐れたまま、怯えたまま、時折疑いの眼差しを私に向けつつも、だれも確信を突いてこなかった。
確かめるためには、恐ろしいあの庭に向かわなければならないから。
たとえ私が無事に戻ってきても、次襲われないかわからない。その恐怖心がみんなの口を塞いでいた。責任者たる町長さえも、一度たりとも私についてきたことはない。
「そうよ!パッペルは一人で頑張ってるんだから!」
黙り込む男性にすっかりを機嫌を損ねたネルケが私の手を引いて街の中心へと促した。その助け舟にこれ幸いと飛び乗り、現場を後にした。
私は一切嘘を吐いていない。正論しか言っていない。最初から痛くもない腹なのだ。疑われようが何だろうが、私は間違ってなんかいない。ただ、思うところがないわけではない。
疑わしいなら確かめに来い。その目で確認すると良い、と大見得切ったが実際に来られるのは、困る。確かについてきてもらえれば疑いは晴れるだろう。だがカロスィナトスはどうしたら良い。彼はまだ怪物の姿のままだ。街の人々来てしまえば、彼の居場所はなくなってしまう。彼はあの場所から動けないのに。それにもし彼の存在がバレれば問題が起こらないわけがない。
あれこれと理由はあるけれど、ただ何より、あの二人だけの空間を壊したくなかった。私だけの友達。私だけの同士。私たちだけの庭。私たちだけのあの平和な時間。そのすべてを、きっと奪われてしまうから。独占欲なんて、我ながらみっともないと思うのに、考えるまでもなく、私はそう思ってしまうのだ。
それを奪われるくらいなら、疑念なんて安いものだ。
ぷりぷりと怒るネルケを見ながらふと先程の男性の言っていたことを思い出した。
彼はこの火事もまた、災厄の炎だと言うが、違う。少なくとも私は反射的そう思った。
『災厄の炎』があの程度なわけがない。
今回は確かに三軒の家が焼けたが、それだけだ。怪我も少し、死者はいない。果たしてそれは『災厄の炎』と言うにふさわしいだろうか。
彼は当事者だからそう思うだけ。最初、『災厄の炎』の予言を聞いた人たちとて、それこそ街全体が炎に包まれるくらいの、凄惨な光景を想像し身震いしたのだろう。数軒の火事程度だとは誰も思ってない。冬は火事になりやすい。それだけのことだ。
「災厄の炎は、起きない。」
花はちゃんと植えているんだ。災厄の炎が街を襲うことはない。
今回のことは私とも、予言とも何も関係ない。ただの偶然だ。
しかしそれを偶然で片づけられるほど、人の心は平静ではなかった。