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後編

 いきなり手紙が届いて驚いたと思う。住所は学校で失敬した。手紙の送付にしか使ってないから安心していい。

 この手紙が、俺が君を君として認識してから、ちょうど一年経った日に届くのかと思うと、妙な心地になるね。配達日指定、一回やってみたかったんだ。、ら

 さて、この手紙が届く頃、俺はもう、とっくにこの世にはいないだろう。なんて、本当に遺書みたいだな。手紙で遺書を送るなんて、「こころ」みたいだ。俺は先生ほど苦しんだわけではないしそこまでは長くないけど。あれって便箋何枚分になるんだろう。定形外郵便になりそうだよな。

 なんとなく、俺がいなくなって君が気にしているんじゃないかと思ったから、一人くらい俺たちのことを知っている人がいてもいいかという気になったんだ。俺のことなんか忘れたというのなら読まなくていい。というか、読まないほうがいいんじゃないかとすら思う。これは俺の自己満足でしかない。

 俺は、兄さんに愛されていた。俺の世界法則は兄さんを基準に決められていた。それでいいと思っていた。

 この時点で嫌な予感がしたら読むのをやめておくことをお勧めする。


 まずは、俺の母の話でもしよう。

 君と俺は全くの他人だ。君は俺について何も知らないに等しいだろう。俺の名前をどう書くのかも、ひょっとしたら今知ったくらいなんじゃないかな。

 それなのになぜ俺自身ではなく母の話から入るのか、不思議に思うかもしれない。けれど、母の話をするということは俺が産まれた経緯を話すということだ。俺という個人の発生から、遡って話したいんだ。

 俺の母は、ここからは遠く離れた田舎町に生まれた。兄が一人いて、兄妹仲は、幼い頃は良かったが成長するにつれて互いに互いを煩わしく思うような、きっと、普通の枠組みからは一歩も出ないようなものだと思われていただろう。

 母が都会の大学に通うことを決めたとき、母の兄は地元の大学を卒業して地元で公務員になることが決まっていた。親が約束した結婚相手もいたらしい。母は、ちょうど今の俺のような状態だったわけだ。兄さんも来春には市役所の職員になってるはずだったんだ。

 母は、大学で父と出会った。馴れ初めは、兄さんから聞いたことがあるようにも思うけど、思い出せない。おおかたサークルやゼミの先輩後輩だったのだろう。

 二人は母が大学を卒業する前に結婚した。兄さんができたからだ。いろいろと大変だったらしい。けれど、兄が立って歩くようになる頃には、二階建ての小さな家を、父方の実家のそばに建てて、親子三人睦まじく暮らしていた。

 ここまでの母の人生は、イレギュラーはあっても、平凡の域を出ないものと思われていた。それ以上のことを、誰にも覚らせなかった。

 兄が三歳になった年に、母は、兄の七五三の写真を届けるついでという名目で里帰りをした。

 このときのことは、断片的にだが、母から繰り返し聞いた。頭がおかしくなりそうなくらいね。


 兄さんが築いた家庭というものを見たらいろんなことが、全部清算されるような気がしたの。

 兄さんは私にたくさん酷いことをしてきたのよ。だから、私、兄さんのことが嫌いだった。兄さんが嫌いだから、あんたのことも嫌い。あんたは兄さんに瓜二つなんだもの。兄さんも、顔だけはとてもきれいだったわ。

 あんたたちの顔はぞっとするほど似てる。

 けど、性格は冬夜の方がずっと似てる。

 血は争えないのかしらね。ほんとうに忌々しい。

 明るい間は冬夜の写真を見て、みんなが笑っていた。何事もなく終わるんじゃないかって、少しだけ期待していたのにね。あの人はやっぱり来た。ひたひたと木の廊下を歩くのが聞こえるの。昼間、どんなに慎重に歩いてもぎいぎい鳴る床が、静かなの。

 冬だったから、兄さんの手が死んでるみたいに冷たかった。視線と入ってる部分だけが熱かった。怨念と抱き合ってるみたいだった。

 次の朝は、兄さんは普通に、仕事に行った。義姉さんの作った料理を食べて、義姉さんに笑いかけて、いってきます、とキスさえしたわ。そしてそのまま帰ってこなかった。納屋でぶら下がってた。そのときの私の気持ちがわかる? 

 あの人は私をめちゃくちゃにしておいて、自分はすっかり満足して死んだのよ。

 酷いでしょう? そのうんと酷いことの結果があなたなのよ。

 だからあなたは家族じゃないの。みんなあなたが嫌い。あなたの名前だって、私たちが考えたんじゃない。終わりのときだと悟ったんですって。私に当てた遺書しかなかったからって義姉さんにずいぶん恨まれた。兄さんが勝手にしたことでどうして私が嫌な思いをするのよ。義姉さんが愛されてなかったからって八つ当たりして。私は何も悪くないじゃない。

 その目は何。兄さんと同じ顔で、哀れんだ目をしてんじゃないわよ。私を憐れむくらいなら、死ななければよかったのよ。


 一字一句同じとはいかないが、毎回、こういうことを言われながら殴られてね。物心ついたときからそうだった気がするな。

 ときには母の兄が母をどんな風に抱いたのか、具体的な話までされた。両親のそういう話を聞かされるのは結構きつかったな。まぁ、普通の下ネタも、俺はあまり得意じゃないんだけど。

 母の兄は、母が幼いときから継続的に母を犯していたのだと思う。俺が出来たときの行為が合意だったのか強姦だったのかはわからない。俺を堕ろさなかったんだから合意だったのかもしれない。

 でも、母は生まれてきた子供――、俺のことを愛さなかった。食事を抜くのも殴るのも当たり前。二言目には冬夜に近づくな汚らわしい。こういう態度だと、強姦の果てにできた子供だとも思える。正確なところはよくわからない。

 俺が生まれたことで、母の平凡そうに見える人生は終わった。俺たちの家はどこからどう見ても異様な家庭になった。

 毎日女の怒声と子供の悲鳴が聞こえるんだもんな。よく通報されなかったものだよね。近所の人はみんな事なかれ主義だったのかな。


 とにかく、俺の生まれについてはこれで分かってもらえただろう。俺と兄さんは異父兄弟で、俺は兄妹間の子供。だから、兄さんとはだいたい半分しか血が繋がっていない。

 母からはよく暴行を受けていた。たまに父にも殴られた。理由は覚えてない。兄さんは殴られる俺を守ろうとしてくれたが、あまり効果はなかったな。申し訳ないから守ろうとしなくていいと言ったこともあったんだけど、兄さんは俺を守ろうとしてくれた。

 いや、ちょっと違うかな。確かに両親の暴力からは守ってくれたけど、第三者の目からしたら、ある意味兄さんも俺を虐待していたと言える。

 性的虐待というやつだ。

 もちろん俺はそんな風に思ったことはない。俺は兄さんのことが好きだった。兄さんから逃げれば母と父に捕まるしな。

 初めてキスされたのは俺が小学校一年で兄さんが五年のときだったかな。家族の頬にキス、というのは、君も幼稚園児の頃なら覚えがあるんじゃないのかな。一般家庭でもそのくらいなら普通だと聞いている。

 俺は、兄と唇を重ねる行為もその延長線上だと思っていた。もしおかしいと思えていたら拒んだかというとそんなこともなかっただろうけど。兄さんに逆らえば両親に殴り殺されると思っていたから。ああ、もちろん幼少の頃に限った話だよ。

 でも、省みてみると、兄さんの言うことに逆らったことがない。兄さんとしていることは誰にも言うなと言われたから言わなかったし、死なないで欲しいと言われたから死ななかったし、笑っていて欲しいと言われたから笑っていたし、愛して欲しいと言われたから愛した。

 小学校三年生くらいになるとさすがにおかしいと思い始めた。けど、それを口にするのはいけないことのような気がした。だって、兄さんがそれをするのは、俺のことを愛しているからなんだ。



 俺は手に持った紙の束を投げ捨てた。胸が重くなってきて、繰り返し唾を飲む。

 手紙にはまだ続きがある。これからエスカレートしていくのは目に見えていた。何が起こるのか想像がついてしまう。

 床に横たわる紙束に目を向けた。あの日見た、桜の色と同じだ。可愛らしいと思った紙片が禍々しいものに映る。

――このまま捨ててしまおうか。

 俺は、目を細めながら便箋を拾い上げた。

 これを読んでも、知らなくていいことを知るだけだ。ちょっと会話したことがあるだけの先輩の最期なんて、知る必要ない。

 それなのに、俺の目は、再び字列を追い始めていた。



 その頃には、触れるだけだったキスは舌を絡めた濃密なものになっていたし、親が寝静まってから俺の部屋に来て体をまさぐられるようにもなっていた。ああ、そう、殴られたりはしてたけど、部屋はちゃんとあったよ。父方の祖父母がよく訪ねてきたから。体面を気にする人たちだったから、身綺麗にはさせてもらえてたんだ。

 初めて、兄さんの性器に触れたのは四年生のときだったかな。四歳違うとそこの様相はかなり違うから、なんだこれ、って奇妙に思ったの覚えてるよ。触られるのには慣れてたけどね。

 口でするようになるのはすぐだったな。歯を立てないって結構難しいんだ。口が小さいから、いっぱいいっぱい開けて頑張るんだけど、それでも歯が当たるんだ。君、彼女ができたらあまり無理をさせてはいけないぞ。

 アナルセックスもな、あれはされる方は大変だ。

 まず浣腸しないとならない。どんなに下準備を念入りにしたって、違和感しかないし痛いしな。回数をこなせば慣れてくるけど。あと、長時間の正常位もお勧めしない。少しならいいけど、結構腰にくる。

 ああ、あと、君はきっとする側だろうから忠告するが、生はダメだぞ。感染症の原因になるからな。泌尿器科の世話になりたくなければやめておくといい。

 こんなこと淡々と書かれていて異常だと思うかな。少しくらい為になることを書こうと思ったら他に思いつかなかったんだ。

 最初は、あまりに痛くて兄さんに嫌われたんだと思った。死を覚悟したよ。兄さんは俺を愛しているからそうしているんだと言ったけど、信じられなかった。本当に痛かったからな。だいたい、小学五年くらいじゃ、まだセックスなんてそんなに話題に上らない。愛の行為だって知らなかったんだ。

 以来、俺は何度でも兄を受け入れてきた。男同士だとか兄弟だとかいった疑問や不安は抱いたことがなかった。兄さんはずっと怯えていたみたいだけどね。ま、その割にやることはやってたけど。

 中学生になると、途端に性が話題のトップに上がる。いろんなことがわかってくる。兄さんのことを嫌だと思ったことはない。苦痛だったことが本当に愛からくるものだとわかって安心もした。

 それなのに、不意に死にたくなった。どうしてなんだろうな。

 兄さんには感謝してたんだ。俺に食事をくれたのも兄だし、殴られないようにかばってもくれた。俺が中学を卒業したら兄さんが家から連れ出してくれることになってた。高校に入ってからは兄さんと二人暮らししてたんだ。

 親に怯える必要がなくなる。毎日、十分に腹を満たして眠れる。幸福なはずだ。

 どうして死にたかったのか、俺自身わからない。

 ずっと死にたくて、中学の卒業式の日に死のうとした。桜が綺麗な季節だった。天気も良くて、薄青い空に少しだけ雲があった。風が程よく吹いていて花を散らしていた。

 今日だ、と思った。

 どう死ぬかは決めていた。頸動脈を掻き切る。汚れきってる血を撒き散らして死のうと思っていた。刃物は、キッチンに使われていない包丁があるのを知っていたから、兄さんが夜這いに来なかった日に、一本拝借した。

 死ぬ前、兄さんに遺書を残そうと思ったんだ。

 愛していたと書くつもりだった。

 けど、書いているところを兄さんに見つかった。俺としては終わりを悟った気でいたけどまだその時じゃなかったんだと思うことにした。さっさと書いて仕舞えばよかったのに、どうにも筆が重かった。もしかしたら、死にたくなかったのかな。

 生きていてくれればそれでいい、生きていてほしい、と言われた。だから、生きることにした。俺よりも早く死なないで、と言われたから、死なないことにした。

 兄さんと二人で暮らしてた間は穏やかな毎日だった。幸せだったと思う。

 引越し先は親に教えていなかった。兄さんは通っている大学が知られていたから、尾行されないように毎日気をつけて通っていた。二年間、なんとか誤魔化して生活できた。

 けど、去年の冬、母に住居が知られた。ついに後をつけられたらしい。連れ戻されはしなかったけれど、たびたび家に訪ねてくるようになった。今思うと、俺たちに隙が生まれるのを狙ってたんだろうな。

 いつの間にか、鍵が一本盗られて合鍵が作られていた。

 で、やってる最中に、両親に入ってこられた。

 母が悲鳴をあげて、兄さんを殴った。兄さんが殴られてるのを見たのはあの時が初めてだったな。俺の方を殴りに来なかったのが不思議だ。

 嫌な予感がしていたらしいよ。実家で暮らしてた時から、兄さんは俺のところに来るとき、両親の酒に一服盛ってたとか。そこまでしてセックスがしたかったんだなって驚いたよ。そういえば、俺も殴られながら兄さんに何か変なことをされてないか問い詰められたことがあったかもしれない。

 そんななのに、二人暮らしで何もないはずがないって思ってたんだって。兄さんと母の兄が似ていたからかな。

 兄さんが、母さんは自分の兄を愛していたから俺のことを産んだんだろう、と言った。父の顔が凍りついた。父は母と母の兄の間にあったことを何も知らなかった。

 阿鼻叫喚の修羅場になっているところを、俺はぼんやり見ていた。どんなやり取りがされていたのかあまり覚えてない。裸でいるのもなんだしとりあえず服を着ていたら、言い訳の一つもしてみろと父に怒鳴られたのは、覚えている。

 これをきっかけに、両親は離婚した。俺は一人暮らしになって、兄さんは父と共に父方の祖父母のところに行った。母は兄さんを受け付けなかったし、父は俺を嫌悪したから。

 父がいない昼の間、俺は学校にいるから手出しができない。老人たちにどんな説明をしたのか知らないけど、兄さんが出かける時には必ず祖父母のどちらかが付いて行ったらしい。それでも、ときどき目を盗んで俺に会いに来ていた。外で数分立ち話するくらいしかできなかったけどね。

 兄さんは、死にたいと言っていた。こんな風に会えない時間が続くなら死にたいって。

 一緒に死んでくれって言われた。だから死ぬことにした。

 これも、君からしたらおかしいのかもしれない。でも、俺なんか、兄さんがいないのに生きていたってしょうがないんだ。

 死に場所は決めていた。母方の実家の近く、山深い湖がある。人なんかこないところだ。


 最期だからお金は使い切ろうと言って、兄さんは俺をあちこちに連れ回している。兄さんは死ぬのを躊躇っているのかもしれない。

 身辺整理は済んだと思う。引っ越すから、と家財も処分したし、家の契約も打ち切った。学校だけはどうにもできなかったけど。退学の手続きをしようと思ったら先生がやたら止めてくるんだ。親もつれて三者面談をしようとか言うからやめにした。周りには転校すると言っておいたけど、嘘だとバレるのに時間はかからなかっただろう。

 あとは君への遺書を書ききって、投函するだけだ。捜索願を出す人もいないだろう。両親はきっと俺たちが逃げたことに気づいただろうけど、もう関わりたくないんじゃないかな。

 俺は綺麗に死ぬことができるだろう。

 それとも君は俺が死んだら泣いてくれるのかな。そうしたら、完璧とは言えなくなるのかな。

 死ぬって苦しいだろうか。どんな気分だろう。こんな遺書を送りつけるより、死んでから枕元に立って、死ぬって案外苦しいからやめたほうがいいぞとか、案外楽だから死ぬなら入水がオススメだとか実体験を語ったほうがよほど役立つかもな。

 君ともう少し話してみたかったような気がする。どうして君なのか、わからないけど。そうだな、君には俺よりも明確に死ぬ理由があるにもかかわらず死ななかった人だからかな。

 君が高い位置から中庭を見下ろしているたびに、いつ飛び降りるかと思っていた。でも、君は飛び降りなかった。死にそうな顔なのに、生き続けていた。それは、なんだか凄いことのように思えたんだ。

 遺書が送られてきて、君は迷惑したかな。うん、迷惑だろう。俺の死を背負わせたようでなんだか申し訳ない。送るのやめようかな。

 ぎりぎりまで送るかどうから考えるよ。兄さんがやっぱり帰ろうって言わないとも限らないし。もし送られてきたら、うだうだと迷っておいて、結局死んだのか、と軽く受け流して、記憶の底に沈めて、忘れ去ってくれ。

 すまなかった。

 君はどうか、その脚と共に幸せに生きてくれ。



 周東終悟



 勝手な手紙は俺の幸福を祈って締めくくられていた。

 あの人は綺麗に死んだんだな、と思った。湖の底で醜い水死体になり、腐敗し、今頃は美しい骨になっているのかもしれない。そのうち、聞いたことのない地名の聞いたことのない湖から白骨が上がったとニュースで見る日もくるのだろうか。

 とりとめのないことを考えながら、俺は自分が思いの外、冷静であることに驚いた。気持ち悪かった桜色の便箋はただの紙切れとしか思わない。

 読んでいる間、あの人の告白は嫌悪をもたらすものだった。異常な兄に対して疑問を持てなかったあの人が哀れだとも思った。

 けれど、読み終わってみると、何もない。最後まで変な人だったなと思う。何かしら役立つことを書かないとって、遺書なんだからどうでもいいだろ。

 目の前にいたら突っ込めたのに。言わなかったけど、いきなり人にもう死にたくないのかなんて聞くもんじゃない。足がないから死にたかったのかとか、無神経にもほどがある。兄が死んだら悲しいかって聞いたのに一緒に死ぬから関係ないって、それは答えになってない。

 こんな遺書を送りつけておいて、俺に送った理由はなんとなく気にしてそうだったからってなんだよ。もう忘れかけてたよ。忘れてるならそれでいいって、どういうことだ。思い出すに決まってんだろ。軽く流して忘れろって言うくらいなら、遺書なんか送りつけるなよ。

 なんで、桜の季節なんだ。俺を初めて認識したって、初めて話したのはもっと後だったろ。目があったなって俺が思ったときには、七割がた桜散ってたんだけど。今、満開なんだけど。去年も多分満開だったはずじゃないのか。しかも、なんで日付なんか覚えてんだよ。

 言いたい文句が浮かぶたびに涙がこぼれた。

 笑えてくる。あの人の綺麗な死に、ケチをつけてやった。

 嗚咽と笑いがごちゃまぜになって、息ができないくらい苦しくなった。

「おい、どーした兄ちゃん」

 部屋のドアが開く。弟が、号泣している俺を見てぎょっとした。

 なんでもない、と、言おうとした。手からあの人の半生と最期を綴った手紙が落ちる。下手に空中で掴み直そうとしたら、指先が弾いて広がった。中身が中身だから慌てて拾おうとしたら、弟に押しとどめられた。

「座ってろよ。――可愛い便箋だな。ラブレター? 、って、感じじゃないか」

 俺は遺書の回収を弟に任せて、みっともなく鳴り続ける喉を止めようと口を押さえた。感情の奔流は指の間から漏れてくる。

「あ、これ知ってる」

 弟が手を止めた。

 怪訝に思って見つめると、弟が便箋の裏を差し出してくる。

『玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば しのぶることの 弱りもぞする』

「授業で出てきたんだけど、日本語訳聞いても意味わかんなくて。そしたら女心のわからない男認定されて腹立ったんだよね」

 意味。確か、恋心を隠しておけなくなるなら早死にした方がマシみたいな意味だった気がする。ちょっと違う気もする。

 集められた紙束を順番通りに並べて、裏がえす。和歌の書かれた便箋はほぼ真ん中あたり。床にぶちまけなければ、絶対に気づかなかっただろう。

「兄ちゃん、結局これなんなの?」

 どうやら、弟は表面を全く見なかったようだ。そういう常識がちゃんとあるのを意外に思う。生意気でガサツな奴だと思っていた。

 俺はどう答えていいかわからないまま封筒に手紙を戻した。一年近く前の消印を指でなぞる。指定日配達のシールは、当たり前だけど今日の日付だ。

 俺は乾いた涙の筋をこすって、一呼吸、大きく吸って大きく吐いた。


 そもそもは、結構前に「心中BLのレビュー」が話題になったので読んでみて「うんうんわかるよ」と思ったから書こうとした。

 書き始めから書き終わりまで、時間がかかったぶん書き終わってみたら「思ってたんと違う」って感じだ。

 でも、これはこれで好きだからよしとした。

 終悟先輩はきれいに死ぬつもりなんか最初からなかったんだと思う。

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