前編
中庭にいるその人を見て、きれいな人だな、と思った。俺は三階にいたから顔なんかほとんど見えなかったんだけど、なんとなく、きれいだと思った。たぶん、中庭の真ん中に生えてる桜がいい感じに満開だったせいだ。
しんどいことが多くて、三階から落ちたとしても失敗すれば寝たきりだろうなとか考えてたところだった。俺なんか生きてたって人類に何の貢献もできない。だから、さっさと死んだ方が両親も無駄な教育費を払わなくて済んで弟に金と手間をかけてやれるしみんな得するはずだ。
でも、桜が揺れる中に立つその人はすっごくきれいで、はかなくて、死ぬのが嫌になった。
生きる意味とかそんなポジティブなもんじゃない。ネガティブが突き抜けて死ねなくなった。
俺なんか、死んだところで美しく散っていくことさえできないんだと思ったら、むなしくなったんだ。
そのあとも、何回か中庭でその人を見かけた。なんでなんだか、半分くらい、目が合ってる気もした。
初めて中庭以外でその人を見たのは、最初に見つけた日から一か月後くらいだった。ちょうど外で体育をするのに入れ違いになったのだ。
玄関ですれ違ったその人もやっぱりきれいだった。きれいに見えたのは桜マジックだけではなかった。
背は、俺よりもちょっと低いくらい。初めて同じ高さに存在していることに緊張して、ちゃんと顔が見れなかった。振り向いたら、ジャージの背中が細かった。あんな体でも普通に歩いて、走れるんだと思うと、また死にたくなった。なんで、こんなにもはかない人が当たり前にできることが俺にはできないんだと思ったら、嫌になった。
上履きの色で三年だってことはわかったけど、やっぱり俺にとってその人はなんかきれいな人ってだけで、ちょっと特別な、俺が一方的に知ってるだけの関係だった。
少なくとも俺はそう思っていた。のに、どうやら向こうもこっちに気付いていたらしい。
放課後、俺は保健室で窓のサッシを歩くテントウムシを見ていた。
「いつも中庭を見てるよな」
視界にその人が飛び込んできた。微笑みながら少しだけ首をかしげていて、長めの前髪がさらさらと風にゆれていた。背後の桜はとっくに葉桜になっていて、その人にもはっきりと存在感を与えていた。
俺はなんて答えたらいいかわからなくて、テントウムシを見たまま曖昧に頷いた。その人は、見た目の細さに反して、明確に男の声をしていた。不思議な感じだった。見た目が中性的な人は何もかも中性的だと思っていたからだ。
俺みたいな役立たずに見られているのは不愉快だという話でもするんだろうか。欠損品は消えろとかそういうことが言いたいんだろうか。ネガティブ街道を突き進んでいる俺に見られていると気分が悪くなるとかいう文句だろうか。
でも、ほんの少しだけ、こっちを気にかけてくれてたらいいなとか期待してみたりして、次の一言を身を硬くして待った。
「もう死にたいとは思わないのか?」
「え……」
俺は思わず顔を上げた。その人はさっきちらっと見たときと同じ顔をしている。天然発言なのか、険も哀れみもない。
俺が固まっていると、その人は不思議そうな目をして、はっとして苦笑した。
「ああ、悪い。ほら、死にたいと思ってる奴の顔ってわかるだろ?」
「いや……はぁ……」
同意を求められても困る。この人、きれいであることの代償として、脳味噌スポンジにされちまったんじゃなかろうか。
「……俺が死にたいと思ってるかなんて、誰でもわかることですし……」
俺は窓枠に腕を置いて顔を伏せた。風と日差しのさわやかな匂いに、埃臭さが混ざる。
去年の今頃は、毎日が楽しくて仕方なかった。高校受験の勉強はしなくてよかったから俺の方こそ脳味噌スポンジだったけれど、野球のことばっかりが吸い込まれてずっしり重たかった。冬、事故にさえ合わなければ、今も、打って走って守ってをやっているはずだったのだ。せめて、ダメになったのが膝から下だけなら、義足でプレイすることもできたかもしれないが、腿の半ばから切断したため、歩くのもやっとというありさまだ。それでも何とかならないかと思ったけれど、100mの日本記録を知って絶望した。とても走塁できる速さじゃないし、スライディングなんてもっと無理だ。
「あいにく、俺は君がどこの誰なのか知らないんだ」
俺は顔が熱くなっていくのを感じた。義足になって学校に行ったとき、一瞬で周囲に知れ渡ったものだから、この人も知ってるんだとばかり思っていた。思い上がりだった。なんか恥ずかしい。
自分で自分を憐れんでいたみたいで、悔しい。
「なんで死にたいんだ?」
その人は、天気の話でもするような気軽さで言った。いや、もしかしたら、傘を忘れたときに予報を気にするほどの関心もないのかもしれなかった。
哀れみでも、好奇心でもない、単なる世間話とか話のきっかけをつかみたいとかそういうときの適当な問いかけと同じだった。
なんで、そんな軽くこんな重い話をしなきゃならないんだ? 名前も知らない相手に?
俺は顔を上げなかった。
その人はしばらく俺の返事を待っていたみたいだけど、やがて諦めたようにため息を吐いた。
「……他人に話せないほど、重苦しい理由が必要なんだな」
「あなたは死にたいんですか」
うつむいたまま問いかけた。その人が、どんな顔をしたのかは知らない。けれど、その人は考えるように唸ってから言葉を発した。
「俺は別に。死んでほしいと言われれば死ぬかもしれないけど、生きて欲しいと言われた命だから、今のところその気はないな」
その人は、自分の命を他人の所有物のように語った。
「なんとなく死にたくなって死のうとしたけど止められて。その人に止められなかったらたぶん、俺は死んでた。その人は命の恩人なんだ。その人がして欲しいことはなんでもするよ。生きろって言われて生きてるんだから、死ねって言われれば死ぬだろうね。ほかにもいろいろ、助けてくれた人だし恩は返さないと」
変な人だ。生き死にはその人が決めるという、冗談のような言葉が本気だとわかる。恩返しといったっていくらなんでも行き過ぎだ。
「このごろ、その人が死にたそうにしているんだ。だから、死にたそうな人に聞けば少しくらい何かわかるかと思ったんだけどね」
さして落胆した風でもなく言って、その人の足音は遠ざかっていった。
俺は中庭を見るのをやめることにした。
死にたい人の気持ちをわかろうとするその人は、しばしば俺の視界に映り込んだ。けれど、俺はできるだけその人に近づかないように気を付けた。
狂人に近寄りたくなかっただけじゃない。再び顔を合わせた時に同じ質問をされたとして、俺は答えられない。だから避けたのだ。
俺は、死ぬ気がない人ほどに死ぬということについて深く考えていなかった。俺にとって死は生きていくうえでこれから向き合っていかなきゃならないいろいろな面倒から逃げる甘美な妄想であったのだ。
死ぬための痛みや、苦しみや、周りへの迷惑や悲しみなんて、欠片も考えていなかった。なんとなく、ソーダの泡のようにシュッと消えるような感覚で死をとらえていた。そんなわけないってわからない歳じゃないのに。生きていて恥ずかしかったけれど軽率に死にたいとも思えなくなった。
そう言ったら、あの人が俺にどんな言葉をくれるのか、知りたくなって、しばらくしてからまた中庭を見るようになった。美しい人が葉桜の陰にいることは少なかった。その少ないチャンスに駆けつけることができるほど、俺の足は動きが良くない。もっと走る練習しとけばよかった。
あるとき、帰ろうと思ったら校門前にその人の姿を見つけた。胸が高鳴って、なんだか苦しくて、早足になった。足も杖をつく腕もしんどかったけど頑張った。
俺は歩いているところを見られるのが嫌で、かなり時間を置いてから帰る。課外講習を受けた三年生が全て帰った後から部活勢が帰る前まで、そのほとんど人がいないタイミングを狙うことが多かった。今日は人がいて、しかもそれがあの人だなんてすごく幸運だと思った。
その人は、校門前に来ていた大学生ぐらいの男の人と何か喋っていた。すごく、幸せそうな、俺に話しかけたときの微笑なんか屁でもないくらいの笑顔。
一発で、この人が例の命の恩人だってわかる顔を、していた。
なんとなく、横を知らんぷりで通ることも、声をかけることもできなくて、中途半端な位置に止まっていると、その大学生の方が俺に気付いた。
「シュウゴ、友達じゃない?」
その人は俺を横目に見て、特別な笑顔を止めた。
たまらなくなった。俺は、この人の名前さえろくに知らなかったのだ。
「あの、俺、友達じゃなくて、なんていうか、ただの顔見知りです」
「あ、そう言えば名乗ってもなかったな」
そう言って、その人は名前を教えてくれた。隣に立つ人は兄だという。
兄という人は、俺より少し背が高くて、その人に似た顔をしていた。優しそうな顔だちで、どこか頼りない。
俺も流れで名乗ると、その人は「ああ、あの」と名前と顔が一致したようだった。やはり、知られてはいたようだ。嫌になる。
「君にとってその脚は、死に値するものか?」
「ちょっ、シュウゴ!」
その人は兄の嗜める声に不思議そうな顔をしている。素晴らしき無神経だ。
俺は、兄の方にも聞かれるということを少し渋って、けれど、黙ることもできなかった。
「死ねば、俺は命ごとこの足を手放すことができるけど、でも、生きていて恥ずかしい以上に、死ぬことが恥ずかしいです。綺麗に死ぬって難しいし」
人に迷惑をかけて、挙句醜い肉塊になるだけなら、まだ無様でも生きていた方がマシだ。死ぬなら、せめて迷惑をかけない方法を見つけて、消えるように死にたい。
生まれ変わった時に一生五体満足でいられる保証があるなら周囲など無視してさっさと死んで人生やり直したいとも思うけれど。
その人は、不思議そうな顔をした。
「綺麗な自殺体は存在しない。そういうこともまた、君の命を繋ぐ要因なんだな。死んだ後の肉体なんて、どうなろうと構わないと思うんだけど」
「いや、そうじゃなくて……。綺麗っていうのは、立つ鳥跡を濁さず的な意味で……」
「ああ、そうか。なるほど。君には死んだ後に泣いてくれる人がいるわけだな」
その人はすっきりした顔をした。まるで、自分にはいないから想像もできなかったみたいな……。
「先輩にはいないんですか?」
俺が尋ねると、その人は悪戯っぽく兄を見上げた。
「兄さんは俺が死んだら泣いてくれる?」
「当たり前なこと聞かないでよ……」
兄は、今まさに弟の訃報を聞いたかのような顔になった。それほどに、この人にとって、弟の死は現実的なものなんだろう。死ねと言われればすぐに死んでしまいそうな危うさが、その人にはあるから。
「先輩だって、お兄さんが死んだら悲しいんでしょ?」
俺はつい、疑問を口にした。だって、この人が俺に声をかけてきたのは、死にたがっている兄を救いたかったからだろうと思い込んでいたから。
俺はこのとき、「先輩が死んだら俺は悲しいですよ」と言うべきだったんじゃないだろうか。
「俺は絶対に兄さんより先に死なないし、兄さんが死ぬときは俺が死ぬときだから」
その人は朗らかに笑った。背筋が凍るほど完璧な微笑だった。
それが、最後に見たその人たちの姿になった。
あのきれいな人を見かけなくなって一週間は、特に気にしなかった。いや、気にしすぎているから、姿を見ないことが不安につながっているのだと思って、気にしないように努めていた。それまでは一週間くらいならどこでも姿を見ないなんて当たり前だったから。
二週間経つと、本気で心配になってきて、俺はその人のクラスを調べて話を聞いた。
「あいつなら、ちょっと前に家庭の事情でしばらく学校に来れないって連絡があったよ」
少しだけ安心した。どこかで死んでるんじゃないかと思ったから。
そのまま転校するようだと聞いたときには、残念さよりほっとする気持ちの方が大きかった。そのときには疑問を抱かなかったけれど、俺はたぶん、このときからその人たちの死について、関わりたくないって思いがあったんだと思う。遠くに行ったのなら、俺の耳にその人たちの死が伝わることはない、と。
つまり、俺は、その人たちが死ぬことを確信していたのだ。それが今なのか、来年か、ずっと後かはわからなくても、俺よりは早いと予感していた。
一ヶ月経つと、その人が行方不明になったと噂で聞いた。やっぱりなと思った。きれいな人だったからあれこれと憶測が飛び交った。その中で、その人たちの両親が急に離婚したことを知った。離婚したのは俺がその人と初めて会話した葉桜の日の、少し前だった。
夏休みを挟むと面白おかしい推測が消えて、俺も少しずつあの兄弟を忘れ始めていた。
そして、年が明けて三年生になった春。桜が満開になって、あの人のことを久しぶりに思い出したとき。
一通の手紙を受け取った。
差出人は『周東終悟』とあった。あの人だ。
俺は封を開くかどうか悩んだ。住所、宛名は、ちゃんと書いてある。消印は知らない地名だ。日付は去年の夏。配達日指定というやつだ。住所を教えた覚えはない。どこで知ったんだ。わからない。
俺は私室に謎の郵便物を連れ込んで、ベッドに腰をかけた。
桜色の可愛らしい封筒だ。厚みがある。
悩んで、悩んで、今読まなくてもいずれ気になって開封するときが来ると思ったから、シールを破った。