4・わたしも、あれがファーストキスだよ
昼休みは古屋くんと学食でのランチするのが恒例になっている。付き合っているのだから当然だけど、彼と一緒にいる機会が多かった。
授業終了のベルが鳴って、教科書、ノートを仕舞おうとすると、姫子が購買のパンを一番乗りするように急いでやってくる。私の腕を引っ張っると、先生よりも早くに教室を出ていった。
「ちょっ、ちょっと!」
私は、声を荒らげて抗議する。
「レッツゴー」
姫子は遠慮なしに私を連れて行く。細い腕なのに、驚くほど強い力だった。
「彩花、お借りしまーすっ!」
隣クラスのC組に元気よく声をかける。古屋くんがポカーンとこっちをみていた。教室にいる他生徒も同じく。私は、片手をあげてゴメンねポーズを取ったけど、メガネがいらない程度に視力の悪い彼なので、見えてなかっただろう。
後で、メールで謝ろう。
「到着!」
連れてこられたのは、特別教室棟にある部室だった。
引き戸をあけると、畳のにおいがツンとした。8畳ほどの畳の上には、正方形の座卓に、座布団が4枚敷いてある。上には空の菓子鉢がポツンとあった。
「へぇ~、うちに和室なんてあったんだ」
知らなかった。私は帰宅部なので、特別棟にいく機会は少ない。
「茶道部」
「茶道部?」
姫子に指を向けると、ふるふるっと首を振って否定した。
「廃部。二年前にね」
「それにしたら綺麗ね」
「掃除してあるから、私が。えっへん」
姫子は、自分に人差し指を向けて、ポケットから鍵を見せた。どんな理由かは知らないけど、ここの管理をやっているようだ。
「姫子って、ひょこっと居なくなることがあるけど、ここにいたわけ?」
「あはは、大抵は。昼ごはんは、いつもここだし」
「一人?」
「そっ、一人で寂しくお食事です」
「男の人、連れてきたり?」
「なんでよ」姫子は笑った。「わたしは基本、一人でいるのが好きなんだ。ここに連れてきたの、彩花が初めてだよ。だれーもいないから、だんだんと眠くなってきちゃって、うとうととしてたら、放課後になっていたことは結構あるかな」
「自分用にしちゃってるわけ?」
「んー、そうでもないよ。昼は私が独占しているけど、放課後は別の生徒が憩いの場として使っているよ。他校の生徒が来た時の待機所や、少人数の部が合宿するときここを寝泊まりに使ったり。あそこの押し入れに、布団があるんだ。二人で寝よっか? 夜までたっぷりと。もちろん、寝かせない意味で」
ヒヒッといやらしい笑いを浮かべた。
「寝ません」
「まだ早いかー」
「まだもなにも、遅くなっても来ない」
「私は直ぐにでも、そういう関係になりたいな」
カチャッと、和室の鍵をかけた。
「そんなこと言われながら鍵かけられると、もの凄く不安になるんだけど」
「不安にさせるために、鍵をかけました」
トンと一歩、スキップするように足を前に出して、姫子は顔を近づけてきた。
私が構える前に、チュッと軽いキスをする。
「や、やめて……」
両手で、姫子の体を押した。
「……といいながらも、彩花、喜んでる」
「嫌がってるっ!」
「不潔なことされたと、手で拭ったりしていない」
言われて私は、その通りにキスされた唇を拭いた。
「遅いってば」ペットショップの子犬を見たように姫子は笑った。「本気で嫌なら、する前にぶん殴るもんでしょ。なのに彩花は、キスの待機してるんだもん」
「そうしたかった。その余裕がなかっただけ」
「じゃあ、前もって言うね。わたしは五秒後に、彩花にキスする」
姫子の顔が近付いた。
私の目を見つめながら、三秒ほどジッとする。
「嫌なら逃げてね」
姫子の感触がやってきた。
今までの中でもっとも短い。ツン、と触れあうだけのキスだった。
「やっぱり、逃げない。キスされるの待ってる」
「待ってない。仕方ないから、されてるだけだし」
「普通ならどん引き、拒絶ものだよ。私のことを軽蔑して、緑川姫子はレズだとみんなに言いふらして、ゴキブリを発見したように嫌うものだよ。なのに彩花は、照れ隠しに嫌がってるだけだもん。かわいい」
「別に、そんなんじゃないし」
「ほら。いつまでも突っ立ってないで、入った入った」
上履きを脱がせて、一段高くなった和室にあがらせる。姫子は、放り投げるように脱ぎ捨てられた私の上履きを、自分の上履きの隣に丁重に揃える。
座布団の上であぐらをかいている私とは違って、姫子は正座だった。痺れないのだろうか。背中をピンとした、見本となる正しい姿勢だ。
そういうところに、私と姫子の育ちの差を感じられた。
「じゃーん」
座卓の上に2つの弁当箱が置かれた。
「緑川姫子特製、愛情たっぷり愛妻弁当だよ」
アルミの弁当箱を開けると、おむすび2つに、卵焼き、ミートボール、ほうれん草のコーンソテー、とシンプルなものだ。
「姫子って料理できるんだ」
人は見かけによらない。
私と同じく家事全般はダメなのかと思っていた。
「あはは、まあ、ちょっとだけ。みて分かるように、この程度ならってところ」
料理に関しててんでダメな私は、この程度もできない。
「いずれ来る未来のために、家政婦さんの料理を手伝ってるんだ」
「未来のためって?」
まさか、花嫁修業とか。
「ん? 一人暮らしだよ。大学に入ったら、親元から離れる予定。あ、でも、今は変わっている。彩花と二人でラブラブに暮らすんだ」
「お断わりします」
無視して、姫子のお弁当を食べることにした。
「お箸は?」
私の分がなかった。
「わたしが食べさせてあげる。あーん」
「お箸はっ!」
「あーん」
「しません!」
用意はしてあったようで「ちぇっ」と不満げに渡してくれた。
「美味しい?」
「普通」
「美味しい?」
「いいんじゃない」
「美味しい?」
「美味しいってば」
「美味しい?」
「美味しい、美味しい、美味しい!」
「私とのキスは美味しい?」
「まずい!」
「ちぇっ、釣られなかったか」
「当たり前でしょ」
「その卵焼き、美味しい?」
「あのねぇ……」
ひとくち口にするたびに聞いてくる。
「どれも美味しいから、しつこく聞いてこないで。全部食べます。この中に、私が嫌いな食べ物もありません。これでいい?」
「良かった。口に合わなかったら、どうしようかと思った。こっちの口は、めっちゃ合っているようだけど」
右から左へと自分の唇をペロッと舐める。
「そういうの、男にやればいいのに」
「なぜ?」
「姫子ってモテるじゃない」
「興味なし」
「噂はどうなのよ」
スマホが震えた。
メールが来たようだ。
相手は予想通りの古屋くん。
私のことを心配してくれているようで、居場所を教えたら、駆付けるとの内容だった。
姫子と顔合わせしたら修羅場となるのは想像がつく。面倒ごとは避けたかった。
『ごめん。大丈夫だから一人でたれて』
姫子が覗いているので、素っ気ない文を打った。送信したときに、誤字に気付いた。
「噂って?」
スマホをしまったタイミングで、おむすびをモグモグしていた姫子が聞いた。口の中が見えないよう、手で隠している。
「付き合っている男がいっぱいいるって噂」
「あー、あったねぇ。そんな噂がばらまかれたこと」
驚くことも怒ることもなかった。
「本当?」
「処女膜みたい? 確認したことないけど、破られたことないから、あるはずだよ」
ちらっとスカートの端を持ち上げた。黒っぽい下着が見えた。
私は慌てて、目をそらした。
「見るわけないでしょ」
「自分では分からないからねぇ。彩花に調べてもらいたいな。ついでに、たっぷりとキスしてほしい」
「い、嫌よっ」
「つーか、彩花のを見せろ、嗅がせろ、舐めさせろ」
「あんた、なにいっているのよっ!」
「でも、信じてくれるには、それが一番でしょ」
「口で否定するだけでいいの。噂のこと気になってただけで、信じてはいなかったもの。どーせ、アンタのことが気にくわない女が流したものでしょ」
「相手も知ってる。沢木泉さん」
「え、あの人っ?」
優等生の女子生徒だ。
休み時間にいつも予習している超真面目な人という印象しかなかった。
「自分がこんだけ勉強しているのに、わたしのほうが成績いいのが気に入らないの。そして、思うように成績が上がらない自分にストレスが溜まっていって、あることで解消していたわけ」
「どんなこと?」
「セックス」
「えっと……」
目をそらしてしまう。
その手の話題は、思春期として興味はあっても、聞くのも話すのも苦手だ。
「相手は、おじさん。父親ぐらいじゃないかな。もちろん愛はない。テクが上手い人を選んで、メロメロにしてもらって、辛い現実を忘れたがっているみたい。女子高生という旬な商品のおかげで、お金まで貰えるから、ラッキーっていったところね。まあ、悪く言えば売春なんだけど」
「それ、ほんと?」
沢木さんが、そんなことしているなんて信じられなかった。
「初めて付き合った男がそういう奴だったのよ。中学生のときの家庭教師が、エッチな勉強を教えるのが大好きなドスケベ野郎で、沢木さんは、そいつに恋をした、というか、運命の恋のように演出されて、コロッと騙されてしまったの。無垢な沢木さんの体はそいつによって開発されていき、家庭教師のエッチなテストに、次々と満点を取っていった。最終テストにもクリアして、沢木さんに淫乱にバージョンアップ。それは家庭教師にとっては、うぶな少女から、ただの女になってしまったということ。ポイッと捨てられちゃった。哀れな沢木さんは、セックスの味を覚えたのに、相手がいなくなって、欲求不満になってしまい、そういう男を探し求めるようになった。出会い系でエッチしてくれる人を募集して、色んな男を試しているときに、ダンディーなおじさまと出会ったの。ホテルにいったら、ああ、なに、こんなのはじめて、あの家庭教師はなんだったのって、たまらなくなりました」
「えーと、それ本当の話?」
「八割方妄想かな」
「本当のこと話しなさい!」
顔を赤くして聞いていた私の反応を楽しんでいただけだった。
「でも、おじさんとエッチしてるのは事実だよ。お金貰っているのもね。それがわたしにバレて、自分のことを、わたしがやっていることのように噂したってわけ」
「それバレない?」
「バレないよ。表向きは地味で大人しい優等生だもん。まあ、だからこそ、なにか発散するものが欲しくて、それがセックスとなったんだろうね。沢木さんもそんな自分に後ろめたさがあるんじゃない。だから、わたしのこととして流したの。そういう噂が流れて、わたしと沢木さん、どっちがやってそう?」
「それは……」
「わたしでしょ? そういうことよ」
「姫子はそれでいいわけ?」
「別にいいわよ。流されたから、私の体が汚れるわけじゃないんだし。嘘ってバレて、ヤバい思いするのは沢木さんのほうでしょ? しょーこもあるしね」
万が一のために、とっておきのなにかを持っているようだ。
「だから、わたしは何一つとして、後ろめたいことをしていません」
「タバコ……」
姫子も、大人しくも地味でもないけど、猫かぶりの優等生だ。そんな彼女とって発散するものは、男ではなくて、タバコだったのかもしれない。
「禁煙してるじゃない」
唇を突き出した顔がこっちにきたので、手を伸ばして押し戻した。
「デマでホッとした?」
「本当だろうと嘘だろうと、どうでもいいし。私には関係ないことだもん」
目をそらしてしまう。口とは逆に、どうでも良くないと言っているようなものだった。
「元から、信じちゃいなかったわよ。姫子が男じゃなく、女の子が好きだってのは分かっているんだし」
「違うよ」
ニッコリとして、
「女の子が好きなんじゃなくて、彩花が好きなの」
「同じじゃない」
「違うよ」これが言いたいとばかりに、さっきよりもニッコリとする。「女の子だから誰でもいいって訳じゃない。私は彩花のことが好きです」
「えーと……」
相手が女の子であるとはいえ、そう、はっきりと言われたことは初めてだ。古屋くんは彼氏であるけど、好きだとハッキリと言ってくれたことはなかった。告白されたときも、「トップクラスに好きだ」だった。
トップクラスである。
好きと言われてはいるものの、俺の好きな動物ランキング一位を発表されたような響きがあった。そもそも私は人間ランキングでいったら三位だった。トップクラスは嘘なのである。
姫子のように「彩花のことが好きです」と、真っ正面から言われたことは一度としてない。彼にしてみれば、恥ずかしくて言えないだけだろう。
言わなくても分かるだろ系である。
けれど、言われるのと、言われなかったのとでは、だいぶ違う。
頭の中で思っていることはテレパシーで伝わらない。ちゃんとこの耳で、その気持ちを聞きたいものだ。
「あ、ありがと」
照れくさくなって、目線を逸らしてしまう。
「どういたしまして」
声の響きから、姫子が喜んでいるのが分かった。
「勘違いしないでよ。私は別に、女の子が好きじゃないし、姫子のことも好きじゃないもの」
「彩花って、素直じゃないよね。ツンデレ可愛い」
「正直な気持ちです」
ちらっと姫子を見て、
「私のどこを気に入ったわけ?」
と聞いてみた。
「んーとね」と下唇に指を触れながら。「一緒にいて楽しいじゃない。それに、地のわたしをみせても、どん引きしなかった。これが一番だね。彩花といるのって居心地がいいんだ。それに、いいことも教えてくれたしね」
「それ、キスしてくれる女の子なら誰でも良かったってことじゃない」
「そんなことないよ。キスしたいって思ったの、彩花だけだもん」
姫子は楽しげに私のことを見る。
「いい迷惑よ。人の初めて奪っておいて」
「わたしも、あれがファーストキスだよ」
「嘘」
信じられない。あのキスは慣れたキスだ。私以外に何十人もの女の子を泣かしているはず。
「本当。だからって証拠は見せられないけど。こっちはあるんだけど」スカートを軽くめくって、すぐに戻した。「わたし、男に興味なかったけど、だからって女の子に興味あるとも思ってなかっもん。あ、初恋はあるよ。近所に住む、4歳離れたお兄さん」
「男?」
「そっ、男なの」
姫子は残念そうに言った。
「その人とはどうなったのよ?」
「別に。初恋は実らないというから、とりあえず適当な相手を選んだだけ。ラブレターは渡したよ、結果は分かった上でだけど。姫子ちゃんかなしー」
うぇーんと泣き真似をする。
「それって、初恋っていわないんじゃない?」
「初恋ってことにしたいの。本当の恋は実りたいもの。わたしはいま、彩花に恋しています」
「恋って言わないで」
「だって恋だもん。他にいいようにないよ。何度でもいえるよ。私は彩花が好き。恋しています」
初っぱなからキスをした強みなのだろうか。よくそれを、本人の前で照れもせず、嘘のない目で言えるものだ。しかも相手は同性だ。信じられない。
けれど、姫子らしかった。
なんとなく思うこと。それは古屋くんが、姫子のようなら良かったのに、ということ。
それを意味することは、あまり考えたくない。
「ごめん。私は彼氏がいるから」
古屋くんへの罪悪感でいっぱいだ。
「彼女はいないからいいじゃない」
「恋人がいますんで」
言い直した。ただ、古屋くんは彼氏であっても、恋人というには違和感が非常にあったけど。
「古屋は、初恋?」
「え? あ、まあ、初めての彼だし、そうなるのかな」
どうかな、よくわからない。でも、そうでないというのは、なんで古屋くんと付き合っているの? ということになるし、彼に失礼である。
「だったら実らないね」
姫子は、両手を畳につけて近寄ってきた。
「だから、次の恋の相手のわたしがいただきます」
そう言って、私にキスをする。
これで姫子とキスするのは何度目だろう。抵抗感がなくなった、ということはないけど、諦めに近い気持ちがあった。
「んんっ」
丸いものが口の中に入ってきた。あめ玉のような甘さがあったけど、堅くはなく、柔らかかった。
「な、なに?」
「食後のデザート」
サクランボだった。