2・なにか、あったのか?
ファーストキスは、なんの味?
と言うけど私の場合は間違いなくタバコの味。それにブラックコーヒーの苦みが交じっていた。
「なにか、あったのか?」
古屋くんが、言った。
な、に、か、あ、っ、た、の、か。
言葉を発する彼の口をジッと見つめる。
この唇と重ね合わせる日が来るのだろうか。古屋君と付き合って二ヶ月半ぐらいという、未体験が不思議なぐらいな関係だけど、彼とのキスを想像しても実感がわかない。
生理的にダメだというわけではない。
なんというか、サンマの塩焼きの内臓を食べるような、あの苦みは苦手だけど、食べないのもなあ、といった迷いがあった。
彼の唇を見つめても、それに憧れて胸がときめく、なんてことはない。やっぱりサンマの内臓である。好きな人は好きなのだろうけど。
付き合ってはいる。
一応は。
でも、身体を許すどころか、キスひとつしていなかった。
「彼に悪いかな?」と思うことはあるけど、好きだからではなく、悪いからするというのもかえって失礼な気がした。別に貞操観念があるわけではないけど、そんな軽い気持ちで身体を許せば、私自身が後々になって後悔してしまいそうだし。
「彩花?」
私の名を呼ぶ彼の声。
「彩花っ!」
「え?」
怒鳴るに近いトーンでやっと、目の前にいる古屋くんが架空上の人物でないと気付いた。
低価格が売りのファミリーレストラン。
私は、休日恒例となった古屋くんとデートの最中だ。
お互いに学生の身なので、いつまでも金が続くわけがないから、そのうち安いところ、安いところと選択するようになって、マンネリ気味となっている現状だ。
今日は、ショッピングモールをぶらっとするだけの、安あがりなデート。
そもそも、なんで古屋くんと一緒に過ごしてなきゃならないのか、疑問を感じるぐらいだ。
彼氏と彼女。
休みの日はデートする。それが普通なのだろうけど、一緒にいて面白い相手ではないし、せっかくの休みを無駄にしている気がしている。
「なにか、あったのか?」
同じセリフ。さっきよもり早口になっていた。上の空でいる私に苛立ってきたようだ。
「なにもなかったよ」
今日はなかった、という意味では嘘をついていない。
「なら、いいけどさ」
よくないのだろう。指先で、タンタンタンとテーブルを叩いていた。
私はジッとそこを見つめていると、古屋くんは、その視線に気付いて手が止まった。
「ごめん、ちょっと考え事」
「俺のこと?」
トントンと、何回か指が動いた。空手をやっているだけあって、ごつい手をしている。手を握って歩いたら、力強くて、痛い思いをしたことがある。
「んっと、自分のこと」
姫子のこと、とはいえない。
今日はなかったけど、昨日はあった。姫子にキスをされた。大嫌いなタバコの味。不味かった。だからこそ、一生忘れることができない味となっている。
そして、忘れられない最大の理由。
初めてのキスだったから。
――わたしの禁煙、協力してくれるんでしょ?
また、彼女がタバコを吸いたくなったら、キスされるのだろうか?
されるのだろう、きっと。
彼女が求めるならば。
なぜ、こんなことになったのやら。
姫子にキスをされなきゃならない理由なんてない。なんで、姫子を禁煙させるために、私がキスされなくてはならないのよ。
まさか、古屋くんより先に、私の唇を奪う人が現れようとは。
しかも同性だ。どうせいっちゅうねん。
唇を奪われたなんて、古屋庄司くんにいえるわけがない。彼は、気が弱い自分を強くするために、空手部に入って身体を鍛えている。彼女の初チューを奪われたことに激怒して姫子に殴りかかったら、たまったものじゃない。
「今日のおまえ、ちょっと変だぞ」
「自分では、けっこう変だと思ってるけどね」
ドリンクバーで持ってきたメロンソーダを、ストローでかき回すけど、氷はすっかり溶けていた。
「自分でいうかぁ?」
「自覚してるから」と彼に目線を向ける。「ごめんね。家庭のことで色々とあってさ。こんな気分でデートできないから、断ろうとしたんだけど……」といってから笑顔を作って、「古屋くんといれば、元気でるかなって、ね」
フォローを入れて、炭酸が抜けかけたソーダを飲んでいく。
「あ、いや、そうだな。俺といることで、元気でてくれると嬉しいよ」
照れている。そういう単純なところは可愛い。だけど、言葉の表面を信じすぎて、その真意を探ろうとはしない間抜けさにちょっと呆れる。
古屋くんは、彼女が二股をかけていたとしても、決定的な現場を目撃しないかぎり気付かないし、信じないタイプだろう。
「彼氏だもんね」
「おう、頼りしてくれ!」
元気いっぱいに胸を張る彼氏だけど、その自信はプラスチックで出来た偽のダイヤモンドのように脆いのは、私がよく知っている。
古屋くんは、高校二年の夏休み前に、彼女を作っておきたい気持ちがあった。好きな女子のランクのなかに、私こと宇津彩花は三番目にランクインされていた。
一番、二番、ではない。
三番目である。
上位の二人に告白しなかったのは、フラれるのが確実な相手だったからだ。
三番目の私は、告白しやすいタイプであり、OKしやすいようセッティングできる相手だった。
「トップクラスに好きだ」
と古屋くんは告白したきたとき、私は三番目だろとツッコミたくなったものだ。
本気で惚れていたわけではない。
彼女持ちというステータスに憧れて、私はそのお眼鏡にかなっていただけだ。
私にとって古屋庄司くんは、トップクラスどころか、まぁまぁな評価だった。好きとか嫌いとかではなく、この年に入ると彼氏の有無がパラメーターとなってしまう時期だ。
いないと、周りが色々とやかましい。
それに古屋くんの告白は、そのやかましくする周りがセッティングしたものだ。
断ったなら「なんでフッたの」「空気よめよ」「バッカじゃない」と文句が来るのを想像ついた。下手すれば、いじめの標的にされてしまう。
古屋くんのことは、友達としてはよい評価を持っていたし、相手として嫌ではなかった。フッて慰め会を開催させるのも可哀想かなと、「とりあえずは」とつきあい始めた。
そんな消極的な付き合いは、古屋くんを災いした。
古屋くんは夏休みに初体験するぞ、という下心があったのだろう。告白を受け入れたとき、エッチなことでいっぱいな顔となったので、「隠せよ!」と私が心の中で突っ込んだぐらいだ。
プールのデートでは、彼の水着が元気に盛り上がっていたし、いざというためのゴムを隠し持っているのも知っている。
なのだが、彼に押しがなかった。
デートの回数が増えていっても、進展は亀のように鈍く、夏休みが終わろうともキスひとつなかった。
別に、許してないわけではない。
私の方から、したいと思わなかった。それだけだ。
つきあい始めのころは、「日曜日に童貞卒業だ」と友達に宣言していたけど、最近は「大切にしてるんだ」に変わったらしい。
我が彼ながら情けない。
しかも、その童貞卒業宣言が、彼女である私の耳に入ってしまう口の軽さである。
エッチしたら、全校生徒にバレるのを覚悟したほうがいい。そのリスクを冒してまで、私はしたくはない。その気になれない最大の理由がそれであるけど、古屋くんはまったく気付いていない。
古屋くんの口が硬くて、押しが強かったなら、とっくに身体を許していただろうな。
そう、姫子のように……。
「そろそろ、行こっか?」
また姫子を思い出してしまった。
それと同時にタバコの味も。
気まずさから、伝票を取った。
「え、あ、うん」
古屋くんは上の空で頷いた。
「割り勘でいい?」
「俺が払うよ」
「悪いよ」
いつものことだ。レストランで食事をしたら、お金を払う、払わないで、軽くもめてしまう。
「気にするな、夏にバイトしてるんだ」
ホテル代のために、との皮肉が喉まで出かかった。
彼は友人に誘われて、二週間ほど海の家でバイトをしていた。休憩中にナンパをして、成功しているのも知っている。まあ、グループでだし、その女の子たちとは、なにもなかったようだけど。
「使ってばかりだと、直ぐになくなっちゃうよ」
また「ホテル代」が喉まで出かかった。
「使うためにバイトしたんだ」
「自分のために使いなよ」
「彼女のために使うのも、自分のためだろ」
結構いいセリフだったけど、「決まったぜ」とニヤケ顔になったのが台無しにしている。
「じゃあ」と財布から100円玉を3つ取って、彼の前に出した。「ドリンク代。料理のほうは、古屋くんのおごりでいいかな」
「おごってやるのに」
「おごられるのって苦手なの」
いつも、こういう形で妥協していた。
「分かったよ」
多分、私のそういう性格を、古屋くんは好きになったのだろう。「男なら彼女のためにパーン!と金使え」な、男をATMとしか考えない彼女ならきっと幻滅したはずだ。
「あ、これも、使って」
新聞のちらしに入っていた、100円引きクーポンを渡す。
「……サンキュー」
こういう貧乏っぽいところは、いい印象を与えていなかった。