いつもの図書館
落書きがところどころ書かれている机。少しだけくたびれたクッション張りの椅子。ちょうどいい高さに畳んだコート。僕はここにいると自由な世界にいるような気がする。
大学二回生、平凡な成績に平凡な顔・スタイル、髪は茶色にそめてはいるがそんなに目立つような派手な色でもない。趣味は図書館へ行くことだが、本を読むためでもなく勉強しに行くためでもない。一通り友達と一日の授業を受け終わると僕はいつも一人で大学の中にある図書館へ行き、日が暮れて閉館になるまでずっと特定の机と椅子で眠る。別に家に帰って眠れないということではない。ただ僕は、此処が好きなのだ。
四階建ての最上階の入り口から一番遠い隅っこにある個別ブースが僕の居場所であり、左のブラインドが垂れ下がった窓から下を見下ろすと、歩道と片側二車線で中央分離帯のあるそこそこ交通量のある道路が、先が見えなくなるまで真っ直ぐに通っている。僕はコートを上手く折りたたみ、それを枕にして窓のほうへ顔をやる。歩道をだらだらとあるく学生達、律儀に停留場のまん前でとまる市バス、その市バスを邪魔そうにみながら避けていく白い軽自動車。そんなものを何も考えずぼーっと見ながら幻想の世界へ落ちてゆく。このまま目覚めなければいいのに…。しかし現実はそう甘くなく、僕は館内放送の音楽ではっとこの世界に引きずり戻される。自由時間のエンディング曲がながれるのをまだ半分目覚めていない頭でききながら、再びかったるい日常への一歩を踏み出す。
十二月十日、あと二週間ほどで冬休みがくるということで学校の雰囲気はどことなく明るかった。友達のほとんどは彼女と遊びに行ったり家族で旅行を楽しむ予定がある中、僕は一人で過ごすと思われるクリスマスやお正月を思い浮かべてため息をつき、呪文のような授業を一通り受けていつものように図書館のあの場所へと向かった。
周りとの雰囲気のギャップで少し落ち込んだ気分を回復させるために、という幻想の世界へ逃げ込む意味の無い理由を思い浮かべながらエレベーターから降り一番遠い隅っこを目指し歩いていった。しかしそこにはいつもどおりの個別ブースがなかった。僕のいつもの居場所に、見知らぬ女がぴんと背筋を伸ばし何やら横文字で書かれた本を開いて座っていた。
「そこは俺の居場所だ。 どけ」
思わず、きつい口調で命令してしまった。この個別ブースはこの時間帯の図書館の利用者の間では僕の居場所であると有名らしく、ほとんど誰かが座っているということはなかった。たまに座っている人はいたが、使いたいとお願いすればすぐにかわってくれた。そう、こんなにきつい口調で言った事はないのに。それに俺なんて言葉、キレた時しかつかわない。俺は何でこんなにイラついているのだろうか?いや、イラついているのか?
「ここ、あなたの場所でしょ?」
「知ってるならはやくどけよ」
「あなたの名前は?」
わけが、わからない。いきなり俺の居場所にあらわれて、自由時間を奪って、この女は何がしたいのだろうか?それになんで俺の名前を聞く?こんなわけわからんやつに名前を教えるやつなんていないだろ、と思っていたのにとっさに答えてしまった。しかも、聞かれていないことまで余計に付け足して。
「つきかげゆうき。 ハタチの二回生」
「へぇ。 ゆうきっていうんだ。 苗字もかっこいー!」
「なんでもいいけどそこどいてくれない?」
本当はわからないことだらけでなんでもいいなんてことなかったけど、早く居場所を取り返したかったのと、このよくわからない気持ちを落ち着かせたかったからそう言った。
「私はあすか。あなたがいつもここで眠ってるの知ってるよ」
「何度もいうけれど。 知ってるならさ、その場所あけてくれないかな?」
「今日は満足したからこれで帰るー」
「そりゃよかった。 おつかれさん」
「じゃぁまたね、つきかげゆうきくん」
そういって本を片付け、彼女は足早に去って行った。僕はようやく自分の居場所を取り戻し、そしていつものように枕を作りいつものように窓のほうに顔をやり、いつものように幻想の世界へ旅立とうとした。しかし、先程の彼女のことが気になってしまい上手く眠れなかった。
次の日の朝、僕はなんともいえない違和感を感じながらも学校へ行った。そして授業が終わった後、僕は何故かあのあすかという女の子にまた会うような気がした。いや、また会いたいという期待をもっていたのかもしれない。そんな気持ちを感じながら教室がある建物のエレベーターより少し広々とした図書館のエレベーターを降り、いつもの場所へ向かった。そして、期待通りに彼女はそこにいた。
「やぁ。 つきかげゆうきくん」
「昨日も言ったけどさ、そこ、俺の場所なんだ。 だからどいてくれない? 」
本当はさっさとどいて何処かへ行ってほしくはなかったのに、本当はもっとしゃべっていたいのに、僕は彼女をさけるような口調で言ってしまった。
「昨日はよく眠れた?」
「君のせいでうまく寝れなかったね」
「何故?」
何故?それは僕が聞きたいことだ。何故君はここにいて、僕に話しかけて、へんな違和感を与えるのか?けれどもそれを口に出さなかった。
「しるかよ。 それよりそこ、あけて」
「それしかいわないんだね」
そういうと彼女は少し笑った。
「からかってるならもういいよ。 帰る」
「あら、今日はここで眠らないの?」
「あすかがいるから眠れないんじゃないか!」
少し暗い、静かで暖房のよく効いている暖かな図書館に僕の声が響いた。僕は無意識のうちに声が大きくなっていることに気づき、後悔に似た恥ずかしさを感じて急いで図書館から出ようと動き出すと彼女は僕にしか聞こえない、僕ですら聞き逃しそうになるぐらいの小さな声でつぶやいた。
「あすかって言ってくれたね」
ふと、足を止めて振り返ろうと思った。でも、やめた。僕はいつもと違う図書館を、出口を真っ直ぐ見ながら外に出た。そしてそのまま一直線に学校の正門を出て、このまま家に帰ろうか、どこかでいつもの時間まで過ごそうか迷った。どうせ家に帰ってもすることがないし、家で眠ろうと思っても昨日のように眠れないのが安易に予想できる。どうしようか考えていると後ろから再びあの落ち着いたトーンの声がした。
「ねぇ、ゆうきくん。一緒におしゃべりしない?」
僕は普段無口な方で、友達はいるが休み時間の間ずっとしゃべるということはなかった。しかも女の子と会話するなんていつぶりだろうか。上手く話せる自身は全くなかったが、他にすることも無かったし、それになによりも心の底で本当は話してみたいという気持ちがあったから話すことにした。
僕たちは学校の近所にあるファーストフード店へ行き、僕はいつも飲むコーラを頼み、彼女は温かいコーンスープと僕の食べたことの無い小さなスポンジケーキのようなものを頼んだ。ファーストフード店へ行く間、僕は一言も話さなかった。元々自分から話を切り出すほうでもない上、彼女について僕は名前以外何も知らないから何を言ったらいいのかがわからなかった。彼女は彼女で誘ってみたはいいが何を話そうか考えている様子だった。それとも、話したいことが多くてどれから話そうか迷っているようにも見えた。
「これ、食べたことある?」
「ない。 ってか俺はあんまりこういうとこで食べ物を頼まない」
「そーなんだ。 おいしいよ! 食べてみる?」
そんな、苗字の知らない彼女と他愛無い会話をしているだけなのに次第に僕は嬉しくなってきた。始めはいつもと違うことが不愉快だったのに、今はいつもと違うことが楽しい。あすかも僕も会話に慣れてきたのか、どんどんと話が進んでゆく。どこに住んでるの?一人暮らし?など、あすかは質問攻めであったが、会話が進んで行くうちにそれもなくなり、ほとんど初めて会った人同士であることなんか忘れてしまうぐらい笑いあって時間も忘れて話し合った。
外は真っ暗になり、月明かりと照明に照らされた学校がふと目に入って、僕はいつもの時間より大分と遅い時間であることに気がついた。
「帰らなくていいの?」
何の気なく、普通に僕は言った。
「あ…そうだね。 帰らなきゃ」
「途中まで送っていこうか?」
「いや、いいよ。 家近いし」
あすかとファーストフード店の前で別れ、僕は一人暮らしの真っ暗な部屋に帰った。そしていつもどおりに食事をして布団に入った。何か、今日の朝とは違った違和感をもちながらもそれを気にする間もなく僕は心地よい疲れが全身にまわり眠った。
その次の日から僕は図書館に行く目的が変わった。あすかと会話するという非日常が、日常に変わった。僕とあすかは冬休みが訪れるまで毎日図書館で会話するようになり、成績優秀なあすかに勉強を教えてもらうのも当たり前のようになっていった。そしてクリスマスにはあすかの買い物についていったり、お正月は一緒に初日の出を見に行ってそのまま初詣へと出かけた。あの、あすかと初めて出合った十二月十日にはクリスマスもお正月も楽しくないと想像していたのが懐かしく思えた。
そして冬休みは終わり、秋学期のテストもあすかのおかげで今までにないぐらい良い手ごたえを感じることができ、あすかも相変わらずいい結果を残せそうな手ごたえを感じたそうで、冬休みよりも大分と長い春休みの計画を二人で立てようと思い、テストが終わった日にいつものようにあの場所へ向かった。するとそこには、いつも僕より先に居るはずのあすかの姿が無かった。あすかの代わりに一通の手紙が置いてあった。
『つきかげゆうきくんへ』
全部ひらがなで書いてある宛名書きを見て、初めて気づいた。僕もあすかも名前をどの様な漢字で書くのかということをお互い知らなかった。しかも僕は、まだあすかの苗字すら知らないということに気づいた。というか、僕はあすかに何も聞かなかったから、初めて会ったときのあすかという名前しかない情報から全く更新されていなかった。僕の名前は月影優輝だということを伝えていない人とこんなにも仲良くなれるということに少し驚きを感じつつも、そこにある手紙の内容が気になっていつもの少しくたびれた椅子に座り封を切った。
『今日はここに来れなくてごめんね。ゆうきくんがここで眠っているのを初めて見たときから声をかけるチャンスをうかがっていたんだけれども、なかなかタイミングが合わなくてもう眠っちゃってたり、間に合ってもなんて声をかけたらいいのかがわからなくてなかなか出会えなかった。だから私は自分自身から逃げないためにも、あの場所に早いうちから居座ることにしてゆうきくんと無理やりにでも会話するようにもっていったんだ。思いのほかゆうきくんが怒ってしまって焦ったんだけどね(笑)。それでもその後すぐに私と会話しようと思ってくれて嬉しかった!
それで今日此処へ来れない理由っていうのは、もうゆうきくんと会えないから。私の母親なんだけど元々病気がちで体が弱くて、それで昨日倒れて入院したの。お医者さんに聞くところによるとかなり悪いらしい。母と二人暮らしでずっとやってきて、付き添っていられるのは私しかいない。ずっと看病しながら学校に通っていて、疲れてきてたところにゆうきくんと出会って楽しい時間が増えてよかった。けど、私が家にいない分母親に負担がかかってたみたいで、もうこれ以上母親につらい思いしてほしくないからもう此処へは来ないね。いままで仲良くしてくれてありがとう。そしてさようなら。
世越 飛鳥』
一気にすべての文章を、瞬きせずに読みきった。出会って二日目の夜に感じた違和感がよみがえってきて、そしてそれが何だったのか今はっきりとわかった。あすかは楽しい時間を過ごしている幻想のような場所から、家に帰ると看病しないといけないという現実に引きずり戻されたのである。僕の何気ない一言で引きずり戻されたあすかの表情が目の前に浮かんできた。それに気づかずにずっと幸せの中に眠っていた自分自身に腹が立った。どうにかできないものかと必死に考えながら封筒の裏を見たが当たり前のように住所は書かれていない。僕は世越飛鳥という名前だけを頼りに、そこらへんにいる図書館の利用者たちに聞きまわったが決していい結果とはいえなかった。
いるとは思わなかったが少しの望みをかけてクリスマスやお正月、冬休みに行ったところをすべてまわってみたが予想通りあすかはいない。太陽はとっくに沈み、淡い月明かりと街灯が2年間住んでいる町を照らした。気がつくと、学校の近くのあの、あすかと初めて笑いあったファーストフード店の前に来ており、僕は途方に暮れ、疲れていたのともうどうでもいいような投げやりな気持ちでその店に入った。
「こちらでお召し上がりですか?」
かわらない、店員の声・台詞。そしていつものように、はいと答えた。そしてメニューを見ていつものようにコーラを頼もうとしたが、あすかに会えるような気がして、いや、あの日のようにまた会いたいと思って温かいコーンスープと少しだけかじったことのあるスポンジケーキのようなものを頼んだ。
そして初めて笑いあった日と同じ席で食べようと思い、席に向かったがそこにはすでに先客がいた。あきらめて別の場所で食べようと向きを変えた瞬間、その席に座っていた女性が勢いよく立ち上がって叫んだ。
「ゆうきくん!!」
はっとして振り返るとそこにはコーラをテーブルの上に置き、目を涙で一杯にした、今まで見たことの無い飛鳥がそこに居た。
「飛鳥……?」
「もう会わないって決めたんだけど、会いに来ちゃった」
涙を流しながら、いつも見せる少し茶目っ気のある笑顔を僕に向けた。
「手紙を置いた後、病院へ行って母に付き添ってたんだ。気持ちがばれないようにしていたんだけど、私ってすぐ顔に出ちゃうみたいで母はすぐに気づいて行ってこいって言ってくれて、私はすぐに図書館に戻ったの。でもゆうきくんはもう図書館から出て行っちゃった後みたいで、どうしようか迷ってたところに月がみえて、思い出してここで待ってることにしたの。」
「俺も……!」
周りのほかの客のことなんか気にする余裕はなかった。どんな目で見られようが関係ない。再び飛鳥に会えたこと、それがすべてだった。僕は飛鳥の横に行き、じっと飛鳥の顔を見た。
「飛鳥、俺の名前は……」
「月影優輝。 でしょ?」
もう目には涙がなく、しっかりとしたいつもの飛鳥に戻っていた。そしてファーストフード店のチラシの上に手に持ったボールペンで僕の名前を漢字で書いた。
「何故知ってる?」
「さっき気づいたんだ。優輝くんの名前が、私を呼んだの。」
「月影優輝…あぁ、そうか、月明かりか。 いやしかし、それは俺の名前を知っているから月を連想したんじゃないのか? そうじゃないと、説明がつかない」
「私の名前、覚えてる?」
「世越飛鳥、だろ?」
飛鳥からボールペンを借り、月影優輝と書かれている隣に世越飛鳥と書いた。
「そう、世界を越えて飛ぶ鳥。幻想の世界と現実世界を越えて飛ぶ鳥」
飛鳥が何を言いたいのかわからなかった。だから僕は素直に聞いた。
「どういう意味?」
「それはね……」
するといきなり、ながれるはずのない、いつものあの場所で聞く音楽がながれた。
僕ははっとして顔を上げた。するとそこには、ファーストフード店ではなく、落書きがところどころ書かれている机の上にちょうどいい高さに畳んだコートがあり、僕は少しだけくたびれたクッション張りの椅子に座っていた。わけがわからず、手元にあるケータイを開いてみた。
「2007年12月9日」
ようやく僕は半分目覚めていない頭で理解しだした。そう、ずーっと長い長い夢を見ていたのだった。そして僕は何か大きなものを失ったような感覚に襲われながらも、いつものように真っ暗な一人暮らしの部屋へと戻り、食事をして眠った。
十二月十日。僕は昨日何か壮大な夢を見た気がしたが、どんな夢であったのか全く思い出すことができない。何か、重要であったような気もするがいくら考えてもわからない。夢ごときで頭をつかうのも馬鹿らしく思えてきたので考えるのを諦めた。
そして僕はいつものように、しかし何かが違うような感覚をもちながらも広々としたエレベーターを降り、いつもの場所へ向かった。するとそこには一人の、見たことも無い女が背筋をぴんと伸ばし何やら横文字で書かれた本を開いて座っていた。見たこともないはずなのに、何処かその女性は懐かしくて、愛おしいような気がして、聞かれていないのに僕はこういった。
「僕は月影優輝。 ハタチの二回生」