また私は間違える。
――どうしてこんなことになったのだろう。
私はきっと最後まで、そんなことを思うのだろう。
――とは言ったが、まさかその二日後に、本当にそう思うとは想定外だった。
いや、だってあれは、ただ単にカッコつけたかっただけだから、正直いってあんまり思わないはずなのだ。
「いや、本当にどうしてこうなった……?」
「ん……、お母さん、大好き」
隣のベッドで眠っているはずの少年が朝起きると私のベッドで眠っていた。
どんだけ寝相が悪いんだとか、シチュエーション的に男女が逆だろとか、そういう身も蓋もないツッコミは頭の中だけにしておいて、この少年は多分、何かがあるのだと思う。
目の辺りには白い包帯が何重にも巻かれ、体中には痛ましい傷が刻まれている。
打撲や熱傷、痣に切り傷。まともに生きていて、それらの傷が体中に出来るはずがない。
跡が残っているのではなく、その傷そのものが残っている。まるで日常的に暴力を受けているかのような、そんな傷の付き方だ。
体は細く、小学校低学年ぐらいの背丈しかない。
「……君もこっち側、か」
私は知らない間に呟いていた。
こっち側。――世界に嫌われた側。理不尽に、自動的に、何もしていないのに負け組へと落とされてしまった側。
こんな小さな子供が何をしたのだろうか。私だってあの時はこの子と同じぐらいの歳だった。
私は何もしなかった。何もしていないのに、非ぬ疑いをかけられ、まるでそれが真実であるかのように誹謗中傷を受けた。
理不尽に、自動的に、為す術なく。
「……大丈夫だよ、きっと。君を守ってくれる人が現れるから」
そうでなければ、あまりにもこの世界は理不尽すぎる。
悪人でもない限り、この世界にいる人間は全て、それなりの幸福を得るべきだというのに。
どうして、大して何もしない人間ばかりが幸せになって、私達のように何の悪行もしていない人間が不幸せにならなければならないのだ。
「……大丈夫だから」
最後の一言は多分、少年に言ったのではなく、私自身に言い聞かせたのだ。私はどれだけ傷付いても大丈夫だと、そう言い聞かせでもしないと私はもうやっていけないのだろう。
「起きたか……、って何してんだよ、このショタコン女が」
「一発目から酷いですよ明さん。あと、どちらかと言うと明さんの方がショタコンっぽいです」
病室に入ってくると同時に、明さんは真顔でそんなことを言って来た。
「俺の性癖は――」
「興味がマイナス方向に全開です。っていうか何しに来たんですか。また暇潰しですか」
「えらく辛辣だな。まぁ、それが八割だな」
「正直すぎるでしょ」
八割って、体裁的にどうなのだろうか。非常にまずい気がするが。いや、まぁ、明さんらしいと言えば明さんらしい。明さんらしすぎる。
「残り二割は?」
「そいつについて説明しとこうと思ってな。昨日は眠かったから言うの忘れていたし」
理由が社会人として失格な気がする。いや、失格か。この人、色々とぶっちゃけすぎるし、ダメダメすぎる。
「名前は大宮有紀。俺の遠い親戚だ。まぁ、色々と察してるだろうけど、父親に虐待を受けていた」
何でも、親戚間で有紀の父親の力が強くて手が出せなかったが、流石に危険だと判断して明さんとその他数人で引き取ったらしい。
それでも遅かったようで、病院に運ばれた時、有紀はかなり危険な状態だったそうだ。何とか手を尽くして一命は取り留めたが、抉られた目は完全に失明している。それ以外の傷はゆっくりと治っていくが、目の辺りは深く傷付いている為、一生傷は残ってしまうらしい。
「で、本題はここからなんだが。――こいつは人に対して恐怖心を抱いているから気を付けて欲しいんだ。それと、可能な限り恐怖を克服出来るようにしてやって欲しい。本当は俺の仕事なんだが、どうも有紀と折り合いが悪くてな」
「なるほど、有紀に集中させる為にボランティアを利用した訳ですか。つくづくサボる口実作りが上手いですね」
「なんでこの話の流れで俺の批判になんだよ!?」
「引き受けることを知っていてお願いするような性質の悪い人には、批判がお似合いじゃないですかね」
明さんのような計算高い人は正直言ってあまり好きじゃない。何となく、素直に答える気が起きない。
明さんは、捻くれ者とだけ告げてそのまま病室から出て行った。よく分からないが明さんの後輩が明さんを捕まえたらしく、明さんが全力で悔しがっている声が聞こえた。
「んぅ……、うるさい……」
明さんとその後輩の騒ぎ声で目覚めたらしい有紀が呻くようにして呟く。外では明さんが逃げたらしく、またまた騒がしくなる。一体病院で何をしているのだろうか、あの騒音発生機は。
「んぅ……、あっ、お母さん。おはよう」
意識がハッキリした有紀はそのまま私がいる場所とは、少し違う方向に朝の挨拶をする。
「こっちだよ、有紀。おはよう」
有紀は声に反応して、ちゃんと私のいる方向を向く。耳がいいのだろうか、まるで見ているかのように正しい方向を向いている。
「久し振りだね、お母さん。今までどこに行ってたの?」
薄々気付いていたが、有紀はどうやら私のことを母親と勘違いしているらしい。純粋無垢な笑顔で、有紀はこちらに信頼をぶつけてくる。――残念だけど、それは私には重すぎる。
「有紀。その、実はね――」
「――まぁ、いいや。だってお母さんは約束通り、ちゃんと来てくれたもんね! ボク、お母さんのこと信じて、待ってたんだよ! これからはずっとお母さんと一緒だね!」
真っ直ぐで屈託のない笑み。蓮斗と同じ、純粋な笑み。だからなのだろう。有紀と蓮斗の姿を重ね合わせていた。
この信頼には必ず応えるべきだと、直感的に思ってしまう。有紀を裏切ってはいけないのだと、そんな強迫観念に駆られる。――そして私は、それに打ち勝てない。
打ち勝ってしまったならば、私は必ず後悔する。蓮斗と違ったのは、その一点だけだった。
騙した後に気付くのではなく、騙す前から気付いている。気付いていて、後悔すると分かっていても、私はそれを避けられない。
もし、避けてしまったならば、私は後悔するだろう。いつもの後悔とは比ではないほどの後悔が、私を襲うだろう。
何せ、分かってやっているのだ。有紀が悲しむと分かって、私は母親ではないと言おうとしているのだ。
「――お母さん?」
選択を急かすように、有紀が不安そうにこちらの様子を伺う。目が見えない分、私の顔が見えない分、有紀の心情は不安なのだろう。今にも泣きそうな表情で、私を感じようとしている。
結論として、私は耐えられなかった。
「どうしたの、有紀? お母さんに、言ってみて」
「ううん、なんでもないっ! ……えへへ」
嬉しそうに。楽しそうに。有紀は私に抱きつく。ぎゅっと、私を――母親を逃さないように、
「そっか、よかった」
有紀のぎこちない笑顔を見て安堵すると同時に、後悔する。
後悔しない為に、自己保身の為にしたこの嘘で、私は後悔した。そう、これはどんなに考えても、私は必ず後悔するはめになるのだ。何せ、二択の内二つが後悔するのだから。
今はまだ大丈夫だ。夏休みもずっと会える。――だけど、その後はどうなる。
答えは、どうにもならない。
もともと、私と有紀は別々の場所で生きていた。物理的にも環境的にも精神的にも私や有紀には接点はなかっただろう。今回出会ったのは、幾らかの偶然によって出てきたのだ
だからいつか、私と有紀には別れが来るはずだ。それまでと同じように、同じ場所で生きなければならない時が来るはずだ。
具体的には夏休みが終わる頃。多分、私と有紀はお別れをしなければならない。
それを何とか回避出来たとしても、やがて有紀の精神が熟成すれば、事実に気付くだろう。
その時、有紀はどうなるのだろうか。
泣くのだろうか。絶望するのだろうか。私を裏切り者だと罵るのだろうか。
多分、私はそれを全て受け止めて、そして死にたくなるほどに傷付くのだろう。
そんな、暗い思考に耽っていると、病室の扉が開いた。
「姉さん、おは――誰、その子」
だから男女が逆だろ。
浮気現場に現れた彼女に言われるであろう台詞をまさか蓮斗に言われるとは思ってもいなかった。




