僕は考えて、
一体いつからそうだったのかと考えてみても僕には分からない。ただ、それを自覚したのは三年前のあの事件の後からだった。
姉さんは元々、色々と厄介ごとを引き受けては、文句を垂れ流しながらも解決していく人だった。どれだけピンチになっても、最終的に姉さんは無事解決していた。
僕はそんな姉さんを尊敬し、憧れていた。そして多分、好きだった。曖昧で暖かくて心を落ち着かせてくれるその気持ちを、僕は誇りのようなものだと思っていた。
だけどあの事件が起きて、その気持ちが誇りじゃないと分かった。
お父さんとお母さんが死んだと言われても、どういう訳か僕は涙が流れなかった。姉さんが狂乱する姿を、僕はどこか他人事のように見ていた。
漠然と姉さんを見ていると、暖かい気持ちが強くなっていく気がした。姉さんがとても綺麗で美しいと思った。そして、守りたいと思った。もっと言うなら、独り占めをしたいと思った。 姉さんを僕だけのものにしたいと思った。
勿論、そんなことをする方法なんて分からず、だからそんな気持ちを、僕は燻らせるだけだった。
姉さんが心神喪失状態だと分かり、明さんが姉さんの側にいるようになったのと同じ頃に警察や雑誌、テレビなどから事情聴取や取材を受けた。
心神喪失だった姉さんは反射のように、私のせいだと呟き続けていた。
それらを雑誌やテレビは面白おかしく、無邪気な子供が玩具で遊ぶように、事実を改編して姉さんを犯罪者に仕立てあげた。姉さんが気付いた時にはそれが当たり前となっていた。
姉さんがまともな思考になるまで、かなりの時間があった。だけど、僕は姉さんのそれを否定出来なかった。
否定して、受け入れられてしまえば、今の姉さんは確実にいなくなってしまう。今の、綺麗で美しい姉さんが消えてしまう。そう思うと、僕は何も行動出来なかった。
姉さんは自分の現状に気付き、焦り、様々な行動をした。だけど、それらは全て逆効果になった。
フィクションにおいて、第一発見者というのが一番怪しいのは定番だし、犯人は必ず犯行を否定するもの。そんなくだらない固定観念が、姉さんの主張を茶化した。そして何より、僕が何も言わなかったことが一番の怪しさを生んでいた。
もしこの時に、僕が姉さんの言葉を肯定していたら、姉さんが自己否定をすることなく、僕も今のような状態に追い込まれることにもならなかったのだ。
だから、僕が悪い。僕が、姉さんを独り占めしたかったから、バチが当たったのだ。
姉さんが犯罪者だと皆が思い込んでしばらく経つと、潔癖な人々達の中に悪は倒すべきだなどという考え方が広まり、電話やメールによる誹謗中傷、近所の人の暴言が出てくるようになった。それらが激しくなった頃になって、叔父さんが迎えに来てくれた。
僕だけを引き取ろうとしていた叔父さんを説得して、姉さんも一緒に引き取ってもらうようにした。
納得がいかなったからか、それとも誹謗中傷が数日の間だけ叔父さんの家で起きたからか、叔父さんは姉さんに対して酷い言葉を浴びせた。叔父さんが姉さんに汚い言葉を浴びせる度に、僕の心の中にはどす黒いものが芽生えていた。殺意が湧いていた。
姉さんが壊れてしまう前に、僕がどうにかなる前に、叔父さんの気を逸らした。
姉さんではなく、僕に気を惹かせた。幼い子供のように純粋な言動をした。
純粋な僕に慣れた時に、普通の僕がどこかに行ってしまったことに気付いた。僕が一体どんな人間だったのか、忘れてしまった。
だけど僕は全然焦らなかった。何も思わなかった。姉さんに対しての独占欲が、それをどうでもよく思わせていた。
そして、何のキッカケもなくその日が来た。僕自身ではなく姉さんが望む白井蓮斗でいようと思った日が。独占欲が恋愛感情に昇華した日が――姉さんのことを好きだと確信した日が。
その頃になると、転校先の学校にも何人か友達が出来て、叔父さんが危ないからと言って外で遊んだりは出来なかったけど、学校にいる間だけは普通に遊べたし、友達もみんなそれを理解してくれた。
それに、犯人が捕まって、姉さんが悪い人じゃないことも、友達はみんな理解してくれた。
大変だね、とか、そんな言葉も掛けてくれた友達もいた。作り上げられた真実に囚われずに、事実をハッキリと判断してくれる人が、いてくれた。
真実に囚われてしまう人と、そうでない人の違いは、歳とか知能とか、そんなものではないのだと、その時になって思った。
誰かに合わせなければいけないような環境で生活しているか否か。それが、真実に囚われやすさに大きな影響を与えているのだ。
正しさや理由を度外視してまで合わせなければならないような空気に居続ければ、人間はその空気に適応しようとする。むしろ、適応能力にだけは長けている人間が適応しない訳がない。
そうして空気を読み続ける人間は、決まって意思がなくなる。意思を失い、理由を失い、目的を失い、それでも尚空気を読み続ける。
楽しいだとか、面白いとか、仲間内で、だとか、そんな戯言を多様する人間ほど、大したことも出来ずに、のうのうと、つまらない人生を送るのだ。
そんな言葉を多用して、確認しようとしている時点で、楽しくも、面白くも、仲間内でも、ないのだ。本当に確信できるならば、そんな言葉を口にする必要すらないのだから。
イジメがよく起きる場所は、そういう環境だし、全く起きない場所もまた、そういう環境なのだ。誰かが、無謀なまでに大きなことをしない限り、その環境は改善されない。その癖、問題提起だけはちゃっかりとする。
この問題はどうすれば解決するのだろうかなどと真剣に、議論という名の自己主張を繰り返し、繰り返すだけ。
今の僕と同じだ。どうすれば、姉さんといつものように笑えるのだろうか。
そんなことを一人であれこれと考えて、しかし何も出来ない。ただただ考えるだけ、思い出すだけなのだ。
だから僕は、ハッキリと、しっかりと思い出す。
その時は丁度理解してくれる友達と笑いながら帰り、分かれ道で友達と別れたところだった。
目の前に突然、姉さんが現れ、僕を押し倒したのだ。
沢山のことに驚いた。
急に姉さんが現れたこと、姉さんが傷だらけなこと、姉さんが僕を押し倒したこと、姉さんが部屋から出てきたこと、姉さんが家から出てきたこと、姉さんが――泣いていること。
僕が驚きの声を漏らしても、姉さんは僕を抱き締めて、ただひたすらに涙を流していた。
姉さんは何も言わずに、ただただ僕を見つめて泣いていた。口を動かしてはいたが、声なんて出ていなかった。ただただ、姉さんは泣いていた。
それでも、姉さんが言おうとしていたことは分かった。姉さんはずっと、ごめんなさい、と口を動かしていた。
僕は知らない間に、姉さんを抱きしめ返していた。姉さんの体はとても柔らかくて、あと少し力を入れてしまえばぽっきりと折れてしまうような、そんなか弱さがあった。
事件の日から心神喪失状態を経て、元に戻ったはずの姉さんは、部屋に閉じこもっているうちに、そこまで弱くなってしまった。
僕の知っている、どんなことも解決し、楽しそうに笑い、僕を守ってくれる、そんな姉さんは、どこにもいなかった。
だけど、それでも僕の心の中には、姉さんを大切にしたいという気持ちが強く残った。事件のあの日から、一切変わらず、姉さんを美しく綺麗だと思った。
最初に抱いていた憧れや誇りの感情を失わすような、そのときの姉さんを見ても、僕はまだ姉さんを尊敬し、誇ることが出来る。そう確信した時に僕は理解した。
これは、恋なのだと。
どれだけかっこ良くても、どれだけかっこ悪くても、どんな姉さんでも、僕は姉さんのことを愛することが出来る。どんな姉さんでもいい。だけど、姉さんじゃないといけない。
そんな、単純な感情だった。
そして、それを自覚すると共に、明確に姉さんのことを好きになった。絶対に言語化出来ないような、単純で複雑で綺麗で奇怪で、そしてあらゆる論理を無視する、そんな感情として僕の心に焼き付けられた。
一体どれだけの時間、僕と姉さんは抱きしめ合っていたのだろう。空が橙色だったから、一時間とか二時間は、そうしていたのだと思う。
家に帰って僕は話をしようと決心した。謝ろうと思った。姉さんに纏わり付く嫌な噂を、払拭できなかったことを、今の身動きのしにくい状況を作ったことを。
だから、叔父さん達が完全に眠る深夜に、僕は姉さんの部屋を訪ねた。姉さんはすぐに扉を開けて、部屋の中に入れてくれた。
中は、酷い有様だった。周囲にはガラスやプラスチック、木材の破片が飛び散り、それらを壊す時に出てしまったらしき血痕が、生々しく残っていた。
「あははは……、ごめんね。私も、なんでこんなことになったのか分かんないんだよね」
そう言って、姉さんは目を逸らしながら笑った。姉さんの体をよく見ると、僕のもとへ走ってきた時には付きそうにない傷が、いくつかあった。
姉さんはそれに気付いていないらしく、きょとんとした表情で僕を見つめていた。
自傷行為なのだろう。自分の体を傷付け、その痛みによってまともでいようとしているのだ。
「姉さん、これ以上自分を責めないでよ。もう、自分自身を傷付けないで。どうしても我慢できなくなったら、全部僕にぶつけてよ。僕が全部受け止めるから」
元々、姉さんがこうなったのは僕のせいだ。だから、姉さんが傷付ける相手は、姉さん自身ではなく、僕なのだ。
だけど、それから今に至るまで、姉さんは一度しか、僕を責め立てなかった。その一度も、僕の素っ気ない態度が原因の、ありふれた口喧嘩だけだ。それ以外のあらゆる場面で、姉さんは決して、僕を責めなかった。
――まだ、分からない。
そもそも、僕は何を考えていたのだろうか。何のために、僕は昔のことを思い出していたのだろうか。
分からない。分からない。何にも、分からない。




