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それでもバレてしまう。

「じゃあ、私は昼過ぎまでボランティアに行ってくるね。蓮斗も有紀も喧嘩しないでね」

「はーい!」

「うん。大丈夫だよ」

 姉さんは最近になって、少しだけ前に進もうとしている。積極的に人と関わろうとしている。

 いつもなら明さんに叔父さんに言いつけるぞと脅されて仕方がなく行くのだが、今日に至っては自分からボランティアに行っている。

 ボランティアが本来の意味で使われているね、と姉さんは呟いていた。

「……さて、課題しよっと」

 余計なことを考えてしまうよりも前に、僕は行動に移す。そうじゃないと僕は、どうにかなりそうだった。ワークを広げて、解けそうな問題から集中して解いていく。

「…………」

 何も考えない。何も考えない。何も考えない。ずっと、ずっと僕は頭の中でそう唱え続ける。

「ねぇ、蓮斗」

 有紀のその声にも気付かないぐらいに、問題と復唱に集中していた。

 お昼前になって、スマートフォンのアラームが鳴った。もうしばらくすれば、姉さんが返って来る。今日は僕の予想を超えて二教科も終わったのだ。姉さんはたくさん褒めてくれるだろう。そう思うだけで、思わず表情が緩んでしまう。

「あ、蓮斗、終わったの?」

 僕が課題をやっている間退屈していたらしい有紀が、少し嬉しそうに尋ねる。

「うん、終わったよ」

「蓮斗、すっごい集中してたね。ボクの話全部無視してさ……」

 むぅ、と拗ねたように有紀は頬を膨らませる。

 いつもと変わらない有紀の姿がそこにあった。それだけで少し安心する。今の有紀は安全なのだと確信できる。今の演技中の有紀は、絶対的に安全地帯なのだ。

「あはは、ごめんね、有紀」

「ううん、いいよ。これから蓮斗で遊ぶからね!」

 逆に言えば、演技を止めた有紀は、とてつもなく危険なのだ。

 有紀の雰囲気が変わった。言葉に毒があった。

 蓮斗で遊ぶから。と、ではなく、で。

 有紀が一方的に僕で遊ぶ、ということだ。――つまり、本気で僕に害を成そうとしているということだ。

「――有紀。取引をしよう」

 だから先手を打つ。可能な限りの頭を使って、僕の安全を――僕と姉さんの仲の安全を得る。

「取引?」

「うん。僕はね、ただ姉さんと一緒にいたいだけなんだ」

「ボクも、お母さんと一緒にいたいだけだよ?」

 そう言って有紀は可愛らしく小首を傾げる。悪意のある純粋さだった。

 僕と同じだ。

 悪意のある純粋さは、そうだと理解していなければ全く気付けない。気付かないまま遅効性の毒のように相手を、じわじわと殺しにかかる。

 純粋さは周囲を巻き込み是とする。そして、毒に気付ける人間を悪として叩き潰し必ず純粋の張本人が正義となる。

 純粋に善のイメージを抱く人間は何も知らないのだ。純粋ということがどれだけ悪なのかが。

 知らないだけならまだいい。知っていて、それを利用する人間は最悪だ。

 最悪で、そしてそれが僕であり、有紀だ。

「お互いにさ、姉さんと一緒にいられるように、ルールを決めよう」

「ルール?」

「姉さんのいる前では、お互いに余計なことをしない、とか、そういうルール。別に僕らは、お互いを潰そうとかはしてないでしょ?」

 ほんの少しの考える素振りの後、有紀は満面の笑みになった。何かを企んでいるような、そんな笑顔だった。

「うん、分かった。でも、一つだけお願いがあるんだ」

 お願い――要は交換条件。それは何となく分かっていた。

 このルール制定に、有紀は何の利益も得ない。ただ一方的に、有紀の行動が制限されるだけだ。だから、可能な限りの要求は飲むつもりだった。

「何?」

「――お母さんに吐いている嘘のこと、話して欲しいんだ」

「……っ、分かった。話すよ」

「ありがと、蓮斗。ちゃんと、全部話してね。――話してほしいよね、お母さんも」

「……え?」

 有紀の盲目の視線が僕を貫く。僕の真後ろに視線を向けていた。

 この家にいるのは、僕と有紀と――。

「蓮斗、どういうこと?」

「――姉さ、ん」

 声が掠れる。

 時間を見ると、正午を少し過ぎていた。

 しまった、と思う。

 姉さんが僕や有紀のことを――信頼した人間のことを心配して早く帰ってきてくれることなんてざらにあるのだ。

 ついさっき、有紀が笑ったのは姉さんが帰ってきたことが分かったからだ。目が見えないならば他の感覚が鋭くなってもおかしくない。大方、玄関の扉が開く音でもしたのだろう。

 そして、タイミングを計算して、会話の一部を聞かせた。

 有紀の策略に僕は気付かなかった。こんな単純で、簡単で、致命的なミス。

 またか。また、僕はこうやって、失うのか。

「……蓮斗、説明してくれるよね?」

 姉さんは優しく諭すような口調だった。

 頭が真っ白になる。意味もなく体が震える。心臓が締め付けられるような気がした。

 何かを考えないと。そう思っているのに、考えれば考えるほど、頭の中は空白になっていく。

「……ねぇ、蓮斗」

「――ッ!!」

 僕は耐えられなかった。

 今の状況に。姉さんの絶望し掛けている表情に。――何もかもに、僕は耐えられなかった。

「蓮斗っ!?」

 姉さんを突き飛ばして自分の部屋に駆け込む。扉を閉めて鍵を掛ける。これだけで、この部屋はもう誰も入れなくなる。

 扉に背中を預けて、そのまま座り込む。震える両手で頭を掻きむしり、蹲る。

「……ぅ、あ、あああ、ああああああああああっ!!」

 吼えた。多分、生きていた中で一番大きな声で。お父さんとお母さんが死んだ時でも、こんな声は出なかったはずだ。

 声が枯れる。無理やりに吐き出したその声のせいで感じた焼けるような喉の痛みに、噎せ、咳込み、痰を吐き出す。

 一緒に、今の感情も流れ出てしまえばいいのに。そう思うが、感情はしっかりと僕の心の中に留まったままだ。

「違う、違う、違う、違う、こんなの、全部おかしい!!」

 黒い感情が、心の中で反転し、思考を純白にする。脳が完全に思考を拒絶している。全てから逃げ出したいのに、今の僕が入られる場所はここしかない。逃げ出す場所がない。

「なんなの、これ。なんで、なんでこんなことになるのっ!?」

 どうしてこんな目に遭わないといけないのだ。これから一生、上手くやっていけると思ったのに。

 そう訴えても、誰も答えてくれなかった。いや、多分聞こえていても、僕の耳はそれを聞き逃しているだろう。

 今、僕の意識の中にいるのは、薄暗く、ドス黒く、醜い僕だけだ。

 枯れた声のまま、僕はずっと叫び続けた。僕の心にある真っ黒な感情を、声で、喉を突き破るような痛みで、肺の中の全ての酸素を絞り出すような苦しみで、誤魔化す為に。

 数時間、僕はそうやって現実を拒絶していた。

 やがて体力が尽き、声を絞り出す気力も失ってしまうと、自然と涙が流れた。涙と共に無音の嗚咽を繰り返す。

 訳が分からなくなって、頭を扉に何度も叩きつける。

 そこからの記憶は僕にはない。何もしていないのか、意識朦朧としていたのか、どちらかは分からないが、少なくともこの部屋から動いてはいないらしい。いや、意識のある時点でそんな気力は失せていたし、当然といえば当然である。

 次の日の朝、こんな時でもしっかりと、空腹によって僕は目覚めた。

 いつの間にか、座る力すらなくなったらしく、僕は扉を背に向けて倒れていた。起き上がる体力は今の僕の体にはなく、僕はただひたすらに暗い雰囲気に飲まれていた。

「……姉さん」

 呟いてみる。今までとは違う感覚がした。どこか遠くにあるものの名前を呼ぶような、そんな感じだ。

「……姉さん」

 もう一度呟く。呟いても、その感覚は変わらなかった。もう二度と届かない存在のように思えて、思ってしまって、枯れたはずの涙が流れてしまう。

 涙が枯れることなんてないのだ。流そうと思えば、いくらでも流れる。

「……っ」

 堪える。幾らでも流れるような涙で、今の悲しみが表現されてたまるか。そんな意味不明な意思で、僕は涙を堪えた。

 ゆっくりと回り始めた思考で、考える。

 もう、姉さんとの関係は終わってしまった。

 姉さんに嘘を吐いていることがバレて、その理由を説明せずに、姉さんを突き飛ばして今に至る。

 姉さんが望んでいた白井蓮斗が、紛い物で偽物で偶像だったことを姉さんが知ってしまった。

 姉さんが最も恐れていた裏切りを、姉さんが最も信頼していた僕がやってしまった。

 いや、違う。最初から僕は裏切っていた。裏切っていたから、それを隠す為に嘘を吐いた。

 その嘘を姉さんが完全に信じ込み、そして本当のことが言えなくなった。

 嘘を隠すために嘘を吐き、やがて僕は僕じゃなくなった。

 だから、答えられなかった。

 一体何に嘘を吐いたのかと聞かれたなら、全てにとしか答えられない。だけど答えてしまえばそれで、確実に全てが終わってしまう。

 何も行動出来ない。何をしても、今の現実から逃げられない。

 いずれ姉さんは気付くだろう。

 姉さんは本当に頭がいいのだ。僕が考えていることも、僕がやったことも、姉さんは全て気付くだろう。

 ああ、本当に。本当にどうして。

 ――どうしてこんなことになったんだろう。

 僕は思い返す。

 あの時の――三年前の僕の選択は間違いだったのだろうか。

 白井蓮斗という役を捨てた僕は考える。

 僕は正しいのだろうか。

 圧倒的に正しい姉さんが、自分自身を否定するように。

 正しいことをしていると思っている僕は、間違っているのではないか。

 そんなことを考えている時に、姉さんの声が聞こえた。

「……蓮斗。いつでもいいよ。いつでもいいから、出て来てね」

「…………」

 僕はそれに答えられなかった。裏切り者の僕が、一体どんな顔をして、姉さんに顔を合わせればいいのだろうか。

 僕には分からない。

 姉さんは、一体何を思って、叔父さんのあの部屋から出てきたのだろうか。出てきて、僕に会いに来たのだろうか。

「……分からないよ、姉さん」

 既にどこかへ行ってしまった姉さんに向かって呟く。

 分からない。全く分からない。

 何が、姉さんを突き動かしたのだろうか。考えても、考えても、分からない。

 抜け切った力を無理矢理に込めて立ち上がる。ふらふらと、足取りもおぼつかないままで机の前まで歩く。机の引き出しを開けて、何十冊もあるノートを乱雑に取り出す。

 そこには、僕が最大の嘘を隠すために吐いた嘘の数々が全て書かれている。

 馬鹿げていると僕も思う。

 何度も何度も見返し、ノートに書かれている嘘は、見なくても全て暗唱出来る。

 ――僕は純粋なんかじゃない。

 ただひたすらに、純粋な白井蓮斗を演じていた。純粋ならば、悪意を知らずただひたすらに善意を貫くような人間ならどんな行動をするか、それだけを考え続けて行動していただけだ。

 ――同じように、僕は忘れっぽくも、天然でもない。

 ごくごく僅かな都合の悪さを、そういう言動で誤魔化していただけだ。

 ――僕は姉さんの望む白井蓮斗ではない。

 僕は、姉さんの望む白井蓮斗を演じ続けた。偽物でいいから、僕は姉さんの望み通りの白井蓮斗でありたかった。その為だけに生きたせいか僕が一体誰なのかなんていう問いは、誰でもないという答えで集結してしまっている。

 そして、――僕は姉さんのことが大好きだ。

 蓮香お姉ちゃんと呼んでいた頃から、多分僕は姉さんのことが大好きだった。だけど、それも嘘だ。姉としてではなく、たった一人の女の人として、僕は姉さんが大好きだ。

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