誤魔化して、
焼き肉の日から二週間が経った。あの日から有紀は姉さんの前でも僕の前でも、変わらずいつもの有紀であり続けた。
まるで、これが大宮有紀の全てだと言っているかのような、完璧な有紀だった。
あの時の有紀は僕が見ていた夢なのではないかと、そう疑ってしまうほどに有紀の演技は完璧だった。僕の零に等しい語彙では伝えきれないほどの完璧さだった。
でも、だからこそ、それが演技だと分かった。
ドラマの行動や仕草、アニメなどで流れてくる声、ゲームや漫画などの熱い友情、それらを現実でやってみれば違和感を覚えたり、やけに冷めてしまったりする。
ドラマだと、アニメだと、ゲームだと、漫画だと分かっているからこそ、それにのめり込めるのと同じように、有紀の行動が全て嘘だと分かっているからこそ、その演技は完璧に見える。
有紀の言動が全て真実だと思っている姉さんから見れば、有紀の振る舞いはどことなく不自然に見えるらしい。
「有紀はなんか無理してるね。人に好かれようとしてるのかな。それも大事だけど、有紀は極端過ぎる。あれじゃあ、自分を見失っちゃうよ」
「……うん」
肯定も否定も出来ない。有紀のそれは、そのまま僕に突き刺さる。僕はもう、僕が誰なのか分からなくなっている。
本当の僕が一体誰なのか、分からなくなっている。
僕という形がないから、僕らしさを詰め込めない。詰め込もうとしても、あちこちから出て行ってしまう。
「まぁ、自分はどうあがいても自分だから、私達は何も出来ないけどね」
自分を変えられるのは自分だけ。それが姉さんの心情だ。
周りからの影響はあっても、結局のところ、人が変わるか否かは自分次第。他人にすぐ影響されて何かを変えてしまうのならば、そこに自分らしさはない。それ以外の場所のどこかに自分らしさがあるか、初めから自分らしさが存在しないかのどちらか。
それが姉さんの考え方だ。
他人に合わせ続けていれば、自己は消えてしまう。一度消えてしまえば、それを取り戻すのは難しい。
姉さんは矛盾している。僕には正しく生きる必要はない、間違っていなければいいと教えながら、姉さんはただひたすらに正しい選択を望んでいる。
正解しなければ、と脅迫観念に囚われている。
勿論、姉さんもそれに気付いている。気付いていて、変えられない現状に焦っている。
焦って、落ち着こうとして、訳が分からなくなって、そして諦めている。
よく言えば悟っている。
「ほら、有紀。そこの数式、なんで答えが三十五兆になってるの?」
「あ、あれ……? なんでこんな式に……?」
なんてことを考えながら、溜まりに溜まった課題を姉さんと一緒にしている。
基本は黙って、たまに有紀のことを話して、たまに姉さんが間違っているところに指摘されて、たまに無駄口をして。そんな、ありふれたことをして、ゆっくりと課題をこなしている。
「蓮斗は字が汚いからね。ノートをメモ代わりにして解いていくのもいいけど、それで問題を間違えるのは勿体無いよね。授業の時とかは普通に解けるのにテストの時はよく失敗しやすいって、ホント? ……って、蓮斗はそうだよね。それで数学のテスト二十点ぐらい落としてるし」
「あはは……、だって数学とか意味が分からないんだもん。なんでサイン、コサインと来てタンジェントなの……? タインとかでいいじゃん……」
「あんなのただの記号だよ。そこに悩んじゃダメ。解き方を覚えて、あとはそのまま数字を当てはめるだけ」
「姉さんは理系だよね……。理系の女の子って何て言うんだっけ? リケン……? あれ? 何があるんだっけ?」
「それを言うならリケジョかな。ちなみに何細胞もなかったよ。あれ、どこぞの研究機関の陰謀なんじゃないの……?」
「何を言ってるの……?」
「あはは、なんでもない」
自然に会話が途切れて、手元の滅茶苦茶な数式を書き直す。
「……蓮斗、どうしたの? 最近、なんか様子おかしいけど?」
「え?」
突然、姉さんはそんなことを言った。前々から思っていたんだけど、と補足してから、姉さんは続ける。
「何かに焦ってるみたいな感じがするの。蓮斗、最近あんまり笑わなくなったよね。何か困ったことがあるなら言ってよ? これでも一応、姉なんだし」
姉さんは本当によく人を見ている。――人をよく見てしまっている。また、三年前のようなことになるのではないかと、心の底から恐れている。だから、人の様子を伺う。
言葉の一つ一つの、裏の意味を理解しようといる。
「ありがとう。でも、大丈夫だよ」
「そっか。うん、信じてるからね」
そして姉さんは、本当に僕を信じてくれている。僕は姉さんを裏切らないと、そう信じてくれている。
勿論、僕は姉さんを裏切らない。裏切れない。
ダメだ。これ以上は考えてはいけない。そう思えば思うほど、考えてしまう。
三年前に姉さんに降りかかった理不尽は全て僕のせいなのだ、と。そう思いだしてしまう。
「……姉さん。今日はもう止めにしない?」
提案というよりは、懇願だった。今の僕を、姉さんには見せたくなかった。僕自身を姉さんは望んでいない。僕は姉さんの望むような白井蓮斗でいなければならないのだから。
「っと、もう十二時か……。そうだね。今日はもう終わりにしようか」
「ごめんなさい、姉さん。課題手伝ってもらって……」
「気にしないで。明日、私がいない間も、課題頑張ってね」
そう言って、姉さんは僕の頭を撫でてくれた。とても暖かくて、
「うん」
多分、明日は課題が捗るだろう。課題は丁度、思考の逃避に最適だ。僕は今までもそうやって逃げて来たのだ。今回もいつもと変わらず、そうやって逃げ切ることが出来るはずだ。
しかし、その後僕がした予想は全て、あっさりと外れてしまう。




