嫌な思い出は、
少し前のことだ。ほんの少し、ほんの三年前の話だ。
私はあの時から大きく変わり、それから何も変わっていない。
キッカケは私の責任感のなさだ。
コンビニに行く程度なら家の鍵を掛けていなくても大丈夫だろう。などという気の緩みが百パーセントの原因だった。
当時は、私、蓮斗、両親、の四人暮らしだった。両親は共働きで、土日や祝日は基本、昼を過ぎてから目覚める。だから、どこか連れて行って欲しいところがあれば平日の間に告げておくというのが、我が家の暗黙の了解だった。
その日は夏休みのど真ん中で、私も蓮斗も特に連れて行って欲しいところもなかった。
お母さんが作り置きしてくれていた昼食を食べても少し物足りなかった私は、コンビニで腹の足しになるものを買いに行った。
ついうっかり、その時だけ、私は家の鍵を閉め忘れていた。
嫌な予感。どういう訳かほんの少し落ち着けず、普通の毎日なのにどこか違和感を覚える。
何かが起こりそうで、だけど起こってほしくなくて。
訳が分からない感覚が、ぬるま湯のような温度で纏わり付いていた。
私はそれを気のせいだと断じ、コンビニに行って適当にスナックを買って、家に帰った。
私がしたのはたったそれだけだった。
扉を開けて真っ先に目に入ったのは、廊下に残った土で出来た靴の跡。
何かがあった。少なくとも、誰かが入った。――嫌な予感が確信に変わった。
逃げ出したいと告げる体を無理矢理に動かして、家の中をゆっくりと進む。
私はまだ、軽く考えていた。蓮斗が靴を履いたまま忘れ物に気付いて、それを取りに戻ったとか、そんな軽い考えでいた。
だけど、そんなことではないことぐらいは分かっていた。自分を落ち着かす為の方便だということぐらいは分かっていた。
まず、リビングに蓮斗が倒れていた。ぱっと見、怪我はなかった。
どちらかと言うと、眠っているようにも見えた。――だから、私は眠っていると思い込んだ。
誰かに殴られたとか、そんなことを決して思わないようにしていた。
受け入れられなかった。そんな、唐突で突飛で突発的な、ありえない事象が起きるなんて、想像もしたくなかった。
次に私は、両親の部屋を確認した。そこで両親が何事もなく眠っていればそれでいい。――そう思おうとした。
それは即ち、そうであって欲しいという願望であり、私は薄々勘付いていたのだ。何せ、鉄っぽい臭いが両親の部屋に近付けば近付くほど、強くなっていたのだから。
母親が血溜まりの上に倒れ、父親の腹部に見覚えのある包丁が刺さっていても、私は悲鳴をあげることはなかった。重苦しい絶望が私を襲い、体の力が奪われた。
その場に座り込む。べちゃっと変な音がする。それが血の音なのだと絶対に認識しないようにして、呆然とその場に座り込んでいた。
やっぱり、私はそれだけだった。
次には、強い衝撃が意識を掠め取り、目覚めた時には病室のベッドだった。
両親が死んだ。
さらっと告げられたその事実は、私にまるで初めて知ったかのような衝撃を与えた。
言葉を認識して、意味を理解して、だけどその認識と理解を受け入れられなかった。混乱し、狂乱し、錯乱した。
泣いて、笑って、怒って、諦めて、――壊れた。心が崩れた。
悔しくて、悲しくて、腹立たしくて、苦しかった。
感情が、涙と血涙と鼻水と鼻血と吐瀉物と涎と吐血によって、体から溢れ出る。
過呼吸、貧血、脱水症状、その他の肉体的な弊害に、精神的な無気力と自責。あらゆる負が重なっていた。生きる意欲が完全に失せていた。
両親が死ぬ。それは避けられない事実だ。だけどそれがこんなに早く来るとは思わなかった。 あまりにも早過ぎて、あまりにも唐突過ぎる別れ。しかも、その原因は私だ。
私が家から出なかったら、私が扉に鍵を掛けていたら。そんな自責の念に駆られていた。
今でも、あの事件は私のせいだと思う。私が何もしなければ、今も尚、ごく普通な生活をしていたのだと思う。私もこんな風にはならなかったのだと思う。
その時の私は、自分のことで精一杯だった。自分を責め立てることで精一杯だった。
精神的に不安定な私は自殺も幾度となく考えた。そんな私を助けてくれたのが明さんだった。
明さんは何週間もの時間をかけて、私の心を落ち着かせてくれた。
私の心が落ち着くまでの間に、警察、雑誌、テレビ、新聞、その他の情報機関から、執拗にことのあらましを答えさせられた。私はその頃の記憶があまりにもぼやっとしていて覚えていない。
私の心が落ち着き、周囲の情報を冷静に受け取れるようになった時には、私が両親を殺したのではないか、という噂が完全に浸透していた。
いつからその噂が巻き起こっていたのかは分からない。だけど、私が気付いた時には、もう取り返しの付かないところまで広まっていた。
それがまるで事実であるかのように信じられ、だからそれが真実となった。
事実はどうであれ、各々が信じたものが真実となる。
多くのマスメディアが面白おかしく取り上げたことで、大衆の集合知となって、社会的な真実となった。
どこからか私の家や携帯の電話番号、メールアドレス、学校名、クラス名、出席番号、それに誕生日や家族構成までもが流出し、嫌がらせや悪戯の電話やメールが連続した。
理不尽だと思った。だから私は必死に訴えた。私は両親を殺していない、と。何度も何度も何度も。だけど、真実を知っている人間は決して自分の間違いを認めず、私の訴えをただの言い訳だと一蹴した。
そんなものだ。
一度思い込んでしまえば、それを絶対的なものだと思う。
どんなくだらないことでも絶対的なものを欲しがるのが人間だ。だから、知らない間に知らない人間が傷付く。
必死に訴えれば、分かってくれると私は思っていた。思い込んでいた。皮肉なことに、そういう先入観を持って、思い込んだ。
だけど、結果は違った。人々は私のことを無様に、浅ましく、醜く、言い訳をし続ける犯罪者としか見なかった。
人々は、私を悪だと断定したのだ。何の判断基準もなく、何の証拠もなく、ただの思い込みで、悪だと断定した。
私は悟った。もう、誰も私を信じてくれないのだと。
鳴り続ける電話とインターホン、それに近所の住人の犯罪者は出て行け、という罵倒の声。
最低最悪のBGMの中で、私は諦めた。
少し離れた街にいるホームレスが金に困って家に侵入、起きてきた両親に出くわし、念の為に持っていた包丁で殺した、という事実が明るみになるまで、それらは続いた。
逆に言えば、それで私に対する誹謗中傷は全てなくなった。
マスメディアは親殺しというカモを得たつもりだったというのに、実際はどこでも起きそうなホームレスによるくだらない事件だった。
マスメディアの関心は、嫌味なまでに急速に薄れ、それに従って人々の関心もなくなった。
ぱったりと、何も起きなくなった。
何もなかった。
謝罪も、間違った情報を流した人間の追及も、嬉々として誹謗中傷をした人間の批判も、何もなかった。
まるで、何もなかったかのように、社会そのものがこの事件を忘れようとした。そして恐らく、今となってはもう、誰の記憶にも残っていないのだろう。
最近のまとめブログやテレビは、大勢の人間が気付かないような小さな誤字を訂正しお詫びをする。
私には何もしなかったくせに、有名人や政治的な影響を恐れてお詫びをする。そりゃ、そんなのに比べれば当時小学校六年生だった私の影響力なんて、ゴミカスみたいなものだろう。
だけど、そんなのはおかしい。おかしいのに、おかしいことを世界は気付こうとしない。
学校の行事が失敗しても、このクラスらしいだとか、この学校らしいなどと宣う。結果的な失敗をすれば、過程だけを評価する。過程で失敗すれば、私の中で一番のと結果だけを評価する。それと一緒なのだ。
集団であれば集団であるほど、失敗の責任は全員が分散し、個人個人の責任を少なくする。
そして、何の影響力もないものに対しての失敗ならば、見て見ぬふりをする。みんな何も言わないならそれでいいか、などと思う。
そんなことを知っていても尚、私も同じようなことを思い、言い、そして見て見ぬふりをしたりする。分かっていても、それを変えることができない。
人間は絶対的に愚かで、矛盾していて、間違っている。
再び絶望した。考えれば考えるほど、社会の、常識と呼ばれるものの、世界の、矛盾点に気付き、逆にそれまで私が何も気付いていなかったことを突き付けられる。
私が犯人でないことが確定した一年後になって、叔父は私と蓮斗を引き取りに来た。そして、蓮斗には空いている大きな部屋を、私には物置となっていた小さな部屋を、置かれていた荷物はそのままで与えられた。
叔父は露骨に蓮斗と私で態度を変えた。蓮斗に対しては手厚くもてなし、思いやり、共感し、私には犯罪者が、などという暴言を浴びせた。
犯人でないことが確定しても、自分の思い込みを変えることが出来ず、変えようとせず、信じ込もうとした。自分が間違っていた、などと認めたくなかったのだろう。
身内のそんな態度に、私は失望した。同情の一言ぐらい掛けてくれるだろうと思っていた自分に失望した。
人間の本性を知って、私は同じ人間であることに絶望した。それでも私は、彼らとは違うのだと何度も自分を説得して、折り合いを付けようとした。
そんなことをしている時点で――私は間違っていないと自分自身を説得している時点で、十分に人間らしいと気付いた私は、その後即座に考えることを放棄した
考えれば考えるだけ、私は闇に引きずり込まれる。だから、もうこれ以上は落ちたくなかった。落ちぶれたくはなかった。
どれだけ人を嫌っていても、その人が作り出した社会で生きていかなければならないことは分かっていた。考える時間はいくらでもあった。むしろ、考える時間しかなかった。
私は落ちぶれたくなくて、だけど誰とも話したくなくて、その両立が不可能と分かっていて。
考えても考えても、解決の糸口は見つからなかった。考える時間しかないくせに、何も結論付けられなかった。
どれだけ時間があっても、その時間を私は無駄にするだけだった。
どちらかを諦めればそれで済む話だというのに、私はそれが出来なかった。私はどちらも同じぐらいに大切だった。
もう二度と人を好きにはなれないだろうし、だからと言ってこの社会から逃げることも出来ない。
悩みに悩んで迷いに迷って苦しみに苦しんだ私は、何をとち狂ったのか両方を強行した。
叔父に与えられた狭い部屋に引き篭もり、全てを拒絶した。
誰とも会わずただひたすらに狭く暗い部屋で眠り、考え、ご飯を食べ、排泄し、また眠った。
トイレの時に偶然出会うことはあったが、私は彼らを気にせず、自らの欲求だけを優先した。
食事は部屋の前まで運ばれて来た。私はそれを食べて、食器をまた部屋の前に置いた。
何かを考えていたことは覚えているが、何を考えていたのかは覚えていない。その時の私は、多分泣いていたのだろう。
両親の死が、自分の迂闊さが、身内の愚かさが、社会の矛盾が、世界の全てが、あまりにも理不尽過ぎて、私は泣いていたのだと思う。
泣き続けて、涙とともに、そういう記憶は全て抜け落ちたのだろう。
二週間以上続いたその生活は、記憶に残っていなくても私に大きな影響を与えた。
今の私の、どうしようもない自己否定は多分、その二週間で根付いたのだろう。




