自分本位に都合がいい。
八月の始め。暑さが嫌味に感じる程度には主張が激しくなり、引きこもりである私がクーラーの効いた病室で優越感に浸るようになった頃、有紀の退院が決まった。
一週間と数日。未成年ばかりが集まる病室だけではなく、社会体験という名目で一般の病室にもお邪魔させてもらった。予定より、数日早いのだから十分な方だろう。
そのおかげなのか、有紀はあっという間に人という存在に慣れていった。勿論、有紀の頑張りが主要因だが、その頑張りのキッカケに少しでもなれたのだと思うと嬉しくなる。
泊まりがけで有紀の訓練と面倒を見ていたが、本当にあっという間だった。思わず時の流れの早さを感じてしまった。
「有紀、いよいよ明日退院だね」
「うんっ! そうだね!」
体をすり寄せてくる有紀の頭を優しく撫でる。
今では有紀は触れても体を跳ねさせることなく、すぐに甘えたような声を漏らす。これもある種の人馴れした成果なのだと思う。
人は基本的に無害であり恐怖の対象ではない。もし、恐怖すべき人間がいるのだとすれば、それはその人間が特例だっただけ。
有紀が人馴れしたということは、言葉としてではなく、感覚として、直感としてそれを認識し始めたということだ。
人と話すことにも慣れ、ある程度なら接触しても怖がることはなくなった。もう十分、普通の域に達していると思う。
そう、普通が一番なのだ。平和で退屈で、両親に反抗して、友達と笑いあって、部活をして、定期考査で赤点を取るか取らないかぐらいのところを行ったり来たりして、運が良ければ恋人が出来て、誰かを嫌って、誰かに嫌われて、人間関係の板挟みにあって――。
そんな何の面白みのない、くだらない、味気ない日々を、学校という機関に通っている間に嫌というほど経験すればいい。
盲目は、私の想像を超えて厳しいハンデだろう。推測なんて出来ないし、したところでそれを超えて辛いのは目に見えている。それでも、ほんの少しでいいから、有紀には普通な日々を経験して欲しい。普通な人間として過ごす日々は、限りなく平凡で、幸せな日々なのだ。
今まで不幸続きだった有紀には、そういう普通な幸せを経験して欲しい。それは、特別な幸せよりもずっと身近で、ずっと重いものだ。
そんな幸せを失ってしまった私だからこそ分かっている、たった一つのことを私は有紀に教えようとしている。これは多分母親役だからとかではなく、ただ単なる私自身のお節介なのだと思う。
そしてそれは、私が有紀のことをとても大切に思っているということだ。そうでなければ私が、何の見返りもなしに人に何かをするなんてことはないのだから。
「邪魔するぞ。有紀、元気か?」
「あ、明! 元気だよ!」
「そうか。よかった」
定型的な質問といつもの返事。有紀の成長は、こういう些細なところで実感できる。この実感というのは多分、親が得られる喜びなのだろう。
何も知らず、何も出来ず、何も分からない。そんな、白紙に近い子どもが、自分の見ているところや、見ていないところで成長する。
それはどうしようもなく当たり前で、だからこそ普通だと勘違いしてしまいそうになる、至高の喜びなのだろう。
擬似的とはいえ、私は今、そんな喜びを感じている。ふと罪悪感を忘れ、義務ではなく自ら率先して有紀の面倒を見ている時がある。
母性本能に従っていると言えば聞こえはいいが、私の場合は間違った母性本能だ。間違えて生まれてしまったものに過ぎない。偽物の親としての感情を、私は素直に受け入れようとしている。
結局、有紀が成長すればするだけ、苦しむのは私だ。私だけだ。――私だけでいいのだ。
今はとりあえず、私が思い悩んでいればいい。
有紀は何も心配しなくていい。いつものように、笑っていればいい。
初めて会った時と何も変わらない、どこか不器用な笑みを見せてほしい。
お別れの時までに、私は有紀を自然に笑えるようにしてやりたい。最後に悲しい表情を見せてしまうのは分かりきっているのだ。だからせめて、それまでは悲しませることはなるべくないようにしたいのだ。
「――蓮香。お前、今、面倒臭いこと考えてんだろ」
「へ? いや、そんな訳、ないじゃないですか」
「ここ最近、ずっとそんな感じだぞ。気付けよ、馬鹿」
言われて気付く。本当にもう、どうしようもないぐらいに私は考えている。後ろ暗い思考が私に纏わり付いている。
「馬鹿は酷くないですか、明さん」
そして私は、それを取り繕って、誤魔化して、自分自身を騙そうとする。自分自身に向けて何度も何度も、醜く言い聞かせようとしている。
「へいへい、もう何も言わねぇよ。明日から、有紀のこと頼むぞ。……蓮斗と一緒にな」
「……はい。勿論です」
一人で抱え込むな、と明さんは言いたいのだろう。明さんは冷静に何もかも見透かしている。 この人は、こうであるべき、とか、こうでなければならない、などという先入観や強迫観念、偏見が少ない。
結局、この人がやっていることは、恥も外聞も捨て去っていることを除けば、実に合理的なことなのだ。悔しいまでに、説得力があるのだ。
「そういえば、お母さん。蓮斗はどうしたの?」
「ん……、なんか、今日は登校日なんだって」
「……登校日?」
「夏休みの間に、何日か学校に行って、先生の話を聞くの」
蓮斗の通う第一高校では、課題の進行状況の確認や、ちょっとしたアンケート、それに一人十分程の二者面談を行うらしい。
そういえば、と蓮斗の通う高校、私立第一高校について思い出す。
「明さんも、第一高校の卒業生でしたよね」
「まぁな。金と、適度な学力さえあれば、第一高校やその付属校に入れるからな。あまり勉学に真面目じゃなかった俺にとっちゃ楽なところだったぜ」
「確か、入試も転入試験も、五十点以上取れば基本的に合格でしたよね。校則もほとんどないようなものでしたし、あんな学校があるんですね」
「まぁ、あの学校はどこぞの金持ちの娯楽だろうな」
「娯楽で教育を受ける方の身にも……、あぁ、勉強する気のない人達が集まるんでしたね」
「そういうことだ」
実に合理的である。あの高校は、要は青春の舞台であり、勉強など二の次という訳だ。
「お母さん、明。えっと、その学校って、なに?」
「なっ……!?」
「有紀。それ、本当に言っているの?」
「……うん。学校って分かんない。……ごめんなさい」
「ううん、謝らなくていいよ。今まで教えてなかったのは私だから。ごめんね、有紀」
学校を知らないということは、学校に行ったことがない、ということだ。
今までずっと、学校にも通わずに何をしていたのだろうか。
「有紀、外に出たことはあるか?」
「うん、何回かあるよ! お母さんに色んなところに連れて行って貰ったんだ!」
何回かある。違う、何回かしかないのだ。数えられるだけの数しか、出たことがない。
ずっと、家の中に閉じ込められていたのだろう。ずっと、家の中で母親の帰りを待っていたのだろう。
有紀が大人しいのは人が怖いからだと思っていた。人に慣れれば、活発な面を見せてくれるだろうと思っていた。事実、有紀は最初よりかなり明るくなり、笑うように――ぎこちなく笑うようになった。
だが、それだけではなかったのだ。
有紀が行動的ではないのは、分からないからだ。
何をしても、何をしなくても、暴力を受けてきた――否定されてきた有紀は、善悪の基準が分からなくなっているのだ。
何をしていいのか分からない。だから何もしない。怒られたくないから。
いつ、誰が、どんなキッカケで暴力を振るうのか分からない。だから、何のキッカケも生まないようにしているのだ。
全て受動的に行動し、相手に従う。何もしないで相手に任せる。そうすれば怒られないはずだから。それが一番、怒られないから。
有紀はもっと人間らしく生きるべきだ。明さんが私に向けて言ったように、有紀の中心は有紀であるべきなのだ。母親なんかを――私なんかを中心にすべきではないのだ。




