ラミア
I
耳にわだかまるは、木の葉のざわめき。
風がひとなでするごとに、うすいびろうどの青あおとした掌は、さやさやと音をたてて身をふるわせる。
陽光は梢のすきまより洩れこぼれ、ほそき帯めいて降りそそぐ。
しめった黒い大地には枯葉が落ち、色とりどりの絨毯のごとしきつもり、踏みしだくたび、かわいた小さな悲鳴が、あるいは嘆息が、かすかにあがる。
かれはかまわず、歩みつづける。
鳥のさえずり、獣の声、森につきものの生きものの音は、耳に馴れ、親しみすぎたばかりに、聞こえぬにひとしく。されば、なおのこと、樹陰にひそみし悪意の存在のこぼす、かすかな溜息など、とらえられようはずもない。
かれは騎士。馬上にあって剣を頼み、武勇の名を馳せるが本懐。
詩人の聞くかすかなものおと、感じとる気配、すべてに縁遠い。
しかし、まったくにかけはなれたところに生きていたかといえば、そうも言いきれぬ。
詩人の耳目などないとはいえ、ただの騎士であるにしては、かれはすべてを硬いあたまをとおさず、あるがままとしてその身に捉えうるちからをそなえた者だった。
なればこそ、このようにしてさすらっている。
胸のうちで、なにかが疼くのだ。かすかに、とらえどころなく、燠火のように。
痛みにみちびかれるがごとく、騎士は足をすすめた。
あめがした、地上の人の郷をはなれ、いずこにあるともしれぬ、異郷の淵へと。
森をぬけ、谷をくだるうち、陽は落ちた。
騎士はあたたかさを失ってゆく大気のなかで、かつては美しかったものの長旅にて裂かれ、うす汚れたマントを喉もとまでひき、身をつつんだ。
ぶきみな不安をかきたてる夜の鳥の声が、静寂にみちた暗闇にいんいんとこだまする。
翼をはばたかせる音がすると、幾度もひとり夜を過ごしてきた騎士ですら、驚きと不安に身をすくませた。
鳥は騎士の頭をこえ、しろい月の照らす暗き空を、魔物の遣いのように飛び去っていった。
鳥影の遠くなるのをしばし呆然と見おくったのちに、騎士はふたたび歩みをはじめる。
めざすところが何処であるかは、わからない。
あるいは、知ってはいたかもしれぬ。知りながら、知らずにいようとしていただけであったのかも。
踏みだされる両足は、ゆくさきを知らぬ者のものとしては、自信にあふれて見えた。
目をつむっていてさえ辿りつくことのできる、知りつくした土地へ向かう者としては、やや確実さを欠きはしたが。
かれの道は、目的地へまっすぐにかれを誘っているのではないようだった。
一度は確かに足を踏みいれた、と思われる道や光景が、幾度もくりかえして目の前をすぎてゆく。
迷路ではない。入り組んでいるのでもない。ただ、そのように進まねばならぬ場所なのだ。そう思われた。
そのようなわけで騎士はさきほどぬけた樹間に、ふたたびの足跡をしるしている。
時は昼から宵へとうつり、とりまく景色も相応の変化を遂げていた。
木もれ陽はかすかな月影になり、木々に、木の葉に、かれのうえにと淡く降りかかる。
乳白色の霧がすこしずつ濃さをまし、視界をさえぎられて、ついに騎士は脚をとめた。
静かに吐きだされる息。それもまた、しろく濁りて、四散する。
くびをめぐらし、かるく肩をゆすれば、額にかかりし髪は、さらりとうしろへなびく。月光を弾いてきらめくは、銀の額飾り。その背後に、悪意と羨望のひそやかな嘆息があがる。
だが、騎士は気づかぬ。
あるいは、気づかぬふりをする。
そうして気をとりなおし、脚をすすめはじめる。
闇は、騎士の姿が梢のあいだに消えてより、はじめてうごめきだすのである。
黒ぐろと繁る夜の森をゆくうち、おりかさなる樹間の彼方、騎士はひとつの灯を見つけた。
幻かもしれぬ。かような場所に、ひとの住まうはずがない。
それまで目にしたかぞえきれぬ幻を思いつつ、つよく目をこする。
視界がかすみ、灯が暗がりににじむ。目のまわりの筋肉にちからをこめた。が、消えはせぬ。
するうちに、灯と、灯がともされてある館が、おぼろに姿をあらわした。
その館は樹々のあいだ、深き草々のうえに積み重ねられた石の土台に築かれており、森の樹もてつくられていた。あちこちを植物に覆われ、あたかも緑の塚めいた館であった。成人となるべき若者が、試練の一夜をすごす、あの生と死の狭間の塚である。
神秘の業のおこなわれる聖なる場のあの暗さ、陰陰とした空気が、ここにみちみちている―――騎士にはそう思われた。
夜のなせる魔法だったやもしれぬ。
暗闇のもとでは、かがやかしき女神の閨さえ、凶凶しきをおびるもの。
ためらいを感じはしたものの――感じはしたが――不安をうちけす光に惹かれ、騎士は黒き館へと歩みよっていた。
II
館の近きによるにつれ、窓よりこぼれる灯の、さらにつよく、明るくなるを目にし、騎士の胸にのこるわずかなる疑念も解けさった。
茨のかたく絡みつきし門扉を押しひらき、館の内側へと足を踏みいれると、あたたかい食物の香ばしいかおりが、鼻をくすぐった。
一夜の宿をもとめ、かれは扉を叩いた。
館は、振動に一瞬、沈黙した。
その凍るがごとき緊張に不安がよみがえったものの、時を経ずして扉がひらき、刹那のあとには、べつの驚きが騎士を支配していた。
かれを招き入れたるは、ひかえめな微笑を唇に刷いた、あるじとおぼしき美貌の婦人であったのだ。
辺境の森に住居せる淑女は、質素ななりをしてはいたが、優雅な立ち居ふるまいに、匂いたつような美しさ。繊細で癖のない言葉遣いは、いささか古めかしくはあったものの、たしかに都人のもの。
いかなる理由でかかる館に住まいしか、謎めいた美女は、やさしく騎士を灯のそばの広間へと誘い、火のそばであたたまるようにと言った。
広間には、窓より見えし灯の源、琥珀色のランプの炎に、壁を穿ちてつくられし炉に燃えさかる炎とが相争い、部屋をあたたかく、居心地よいところとするに貢献していた。
かれがすすみいると、居間ではふたりの女が顔をあげた。
白髪の老婆と、その孫とおぼしき若い娘である。
彼女らは騎士にかるく会釈をしたが、そのあいだ、すこしも表情の変わることはなく、邪魔のはいったがゆえに中断を余儀なくされた手仕事を無言のままに再開した。
老婆のふしくれだったしわだらけの手は糸を紡ぎ、娘のほそくしなやかな手は、羊毛をすく。四つの手は、やすみなく規則的にうごきつづける。
騎士は、霧を吸いしめったマントの留め具をはずし、炉のそばのひくい床几に腰をおろし、小枝のはぜる音、糸車のまわる音とともに、みずからの溜息を耳にした。
「旅は長いのかえ」
沈黙を破りしは、あたかもさだめられし手順に従うような、老婆のしわがれ声である。
うなずく騎士へのつぎの問いも、旅人にたいするきまり文句であった。
「どこから来なすった」
答えを期待してはいない、熱意に欠けた口調に、
「さあ」
記憶の底に沈めた石をひろいあげるのが億劫で、騎士はあいまいに答えた。
もしかすると、あの石は、王女の手の中ではすでにくずれ消えているやもしれぬと思いながら。
騎士のふるまいになにを感じてのことか、老婆は嗤い声をたてた。かんだかく不快な、蛙めいた響きに、騎士は胸のうちで眉をよせた。
「ばばさま。旅のおかたはお疲れですのよ」
女主人のたしなめを、老婆は意に介さぬ。奇怪な嗤い声は尾をひいた。しわだらけの顔は、さらに醜悪なしろものとなり、声の似たひきがえるにも見まごうすがただ。
そのかたわらで、若い娘は終始無言である。周囲のできごとになんの興味もない風情であった。
騎士は女主人のさしだしたる椀より、羮をすすった。舌ざわりよく、湯気のたつ熱い汁は、狼のごとく餓えた胃袋におさまり、冷えたからだをあたためた。
するうちにも、老婆の糸車はまわりつづける。
女主人はこんどは杯を手わたした。
木彫りの杯にみたされしは美し酒。薫りを楽しみ、舌にからませ、ゆっくりあじわうと、名状しがたき芳香と、熱さが、口にする者の躯をかけめぐる。
「いかがです。われら一族につたわる秘術によりて醸しました極上の逸品は」
「ようやく先月に一瓶たらず。一度にそれ以上はつくれぬのよ。あじわうがいい――高貴なる騎士どの」
女主人のもてなしは、酒とともに極上。騎士のかたわらに腰をかけ、減ったぶんだけ杯に深紅の液体をそそぎこむ。
微笑みはばら色。瞳と髪は闇色。年齢はさだかならず。娘ほど若くはないが、まだ老いの影は遠い。その美は衰えをみせず、完熟の極みにあった。
騎士は彼女のやわらかなからだをかたわらに感じ、あまやかな吐息を、杯をもつ手に感じた。
酔いがあたまをも冒し、意識が輪郭を失いはじめると同時に。
「美しき騎士どの。銀の環をわしに見せてくださらんかの」
夢は、あるいはうすれつつあった意識は、老婆より発せられし声により、現実へとひきもどされた。
女主人は老婆を一瞥し、さらに無言の娘を見やると、騎士から離れた。
騎士が老婆に、額飾りはさるおかたからの贈り物ゆえ、はずすことあたわぬとつげると、糸車の回転が刹那、停止した。
一瞬の沈黙。凍りついたような、刻がすぎた。
若い娘が、うつむけていたしろい面をかすかにあげて、老婆を見た。
糸車がまわりはじめた。
女主人は、なにごとも起こらぬふうをよそおい、もうお休みになりましょうと席を立つ。
騎士はといえば、いまになって、はじめに抱いた疑念を思いだすにいたった。
だが、それがなんであろう。
女主人のさししめす寝室にむかうまえに、広間をふりかえると、燃えさかる炉の端で毛すきをつづける娘が、老婆を気遺いつつ、不安げなまなざしで見つめていた。
瞳にこめられたなにかしらを、騎士は読みとったであろうか。
娘の瞳も闇。髪も闇。
彼女の不安は、かれの不安をいやました。
ここにいたって、館にひそみし不吉な影を見過ごすことは困難となりしが、騎士はそれと認めたのみ。
女主人のあとにつき、あてがわれた部屋へとすべりこんだのである。
鍵はかけずにいた。扉の鍵である。
III
夜半の闇は、灯のなきところではさらに濃く、くろく満ちている。
騎士は寝台のうえで、剣の鞘を手に仰臥していたが、眠りに落ちることもなく、まんじりともせずに刻をすごしている。
部屋の鎧戸は閉ざされ、月影もささぬ。森のなかに建つ館であるはたしか。だが、鳥や獣の気配もない。
死に絶えたがごとき沈黙。おもく、澱のごとくよどんだ静寂。
からりからりと糸車のまわるのが遠く聞こえるのみである。
騎士は目を閉じていた。
目をあけて、見ゆるは闇。閉じてもさらに闇。なれば、どちらをとろうと、それはおなじこと。いや、閉じて、みずからの内なる姿を見るが、益することもおおかろう。
かれは、自身の暗黒と、それをとりまく闇とをくらべずにはおれなかった。
そのようにして、どれほどの時がすぎたころか。
糸車の音がやみ、かとおもうと、停滞した空気が、かすかにではあるが、うごく気配がする。ゆったりとではあるが、確実なうごき。
地面を這うがごとくに近づくその気配は、扉のまえでとまった。
あたりをはばかるように、ごくよわく、扉をたたく音がする。
騎士は半身をおこし、身構えて、黒い扉を見つめた。
扉は、一瞬、ふるえたのちには半開きとなり、すきまから、小さなあかりのもれるが見えた。
ついで、広間で毛をすいていた娘の蒼白い顔があらわれた。
おびえた顔が、手にした燭台の蝋燭の炎により照らしだされるさまは、亡霊めいていた。精霊や人形よりもさらに血色のわるい、しかし、女主人に似た、端正な面立ち。
娘がすがるように見あげるのをみて、騎士はすこしばかり緊張をゆるめた。
聞いてほしいことがあるのだと娘はいい、なかへ入るゆるしをもとめた。
「どのようなことだ」
騎士のいらえに、娘はこれを肯定ととり、背後をたしかめつつ扉を閉じた。
古い蝶番のきしる音が、蝋燭のまわりの暗がりに沈むと、娘は寝台の足元に近づいた。
「ご立派な騎士さま」
娘は言った。
「貴方さまがおいでになったこの館は、人の子にふさわしきところではございませぬ。夜が明けるまえに、早々にここからおたちになるのが御身のため。さもなくば、おいのちは危険にさらされましょう」
恐怖におののくものの警告に、騎士は肩のちからをぬいた。その顔には奇妙な表情がうかんでいた。恐れとも、不安ともみえぬ態度に、娘は不審をいだき、身をひいた。
「騎士さま?」
騎士は娘をみつめ、かとおもうと溜息をひとつついていた。
「おわかりなのですか。この館に住まう者、人間ではありませぬ。貴方さまのおくちを湿らせた飲みものも、ただの酒ではありませぬ」
娘は言いつのり、騎士の剣もつ手に掌をあて、すがるようににぎりしめた。
「騎士さま、騎士さま。額に銀の環をいただきしおかた。わたくしの言葉をどうかお信じになって。高貴なおかた、はやく、ここから立ち去るのです。わたくしは多くの者に警告をしてきました。信じぬ者の末路を見るのは、もういやです。どうか」
必死になるがあまり、娘は感極まり、涙を零しはじめた。
それでも騎士の表情にかわりはなかった。いや、あきらかに、かれのくちもとはこわばっていた。それが、娘の言葉にうごかされてのことであったかは、しらぬ。
「それではなにゆえ、あなたはここにいる」
寝台に伏して泣く娘に、騎士はひくい声で尋ねた。
「ひとならぬものの棲む、人界ならぬところにたつこの館に」
「あらがいようもない大波にのみこまれたすえ、ながれついたのでございます」
声は、つらい過去にうちひしがれ、あわれにふるえた。
「もとより、なにものの巣かは承知しております。ただ、わたくしにはもう、逃げることはかなわぬのです」
「なにゆえに」
騎士の問いに、娘はかぶりをふった。
「おたずねにならないで。いまはただ、ごじぶんのことをのみ、お考えくださいますように」
そうして、必死に逃亡をうながすのだった。だが、騎士は娘の手首をつかんだまま。
「おいそぎくださいませ。どうか……おねがいでこざいます」
「あなたをこのままにして、おめおめと逃れられようはずがない」
ひくい、おしころした声に、娘は唇をかみしめた。
悲しみにゆがむ顔は騎士をみつめ、つかのま、その黒き瞳に希望の灯がともったようにも見えたが、それは彼女の華奢な手が、騎士の手よりするりと逃れたときには、あとかたなく消えさっていた。
そのとき、べつの手が、部屋の扉をたたいていた。
IV
女主人はあたりをはばかることなく扉をひらき、ほのかな蝋燭の炎により浮かびあがった娘と騎士、ふたりのすがたを、かすかな驚きとともに見た。
彼女はとくに娘を注視した。まなざしは鋭く、錐めいていて、おびえた娘は寝台からあとずさった。
「おやすみのところをお起こししたのじゃないだろうね」
女主人の言葉に、娘は顔をそむけて逃げだした。
満足気に見おくった女主人は、ゆっくりと扉を閉ざすと、訝しげにみつめる騎士の視線を捉え、微笑んだ。
「ご無礼をいたしまして――あの娘は、じぶんがなにをしているのか、わかってはいないのですわ。大目に見てやってくださいまし」
服の裾をひるがえし、女主人はゆったりと寝台へと近づいた。彼女のうごきはひそやかで、なぞめいており、まったく音をともなわなかった。
ほとんど闇にちかい、穴蔵のような場所で、彼女はさきほどよりもさらに美しく、生気にみちて見える。娘の顔色が蒼冷めていたのにくらべ――女主人のそれは、薔薇色にかがやいていた。
「で、なにを申しましたの、あの娘」
あまく、ささやくように尋ねながら、女主人は寝台のかたわらに片手をつき、まろやかなしぐさで腰をおろした。あかい唇が、いまでは、騎士の顔からいくらも離れてはおらぬところで笑みをつくっている。
騎士は状況をかんがえ、おもてむきの警戒をといていた。
女主人は、男の筋肉のついた腕に手をかけ、さらにからだを寄せてきた。
「あの娘、少々気がふれておりますの。あわれな過去のために、精神がゆがんでしまったのですわね。じぶんが、かつては一国の王女であったのだと、ふしぎにも思いこんでおりますのよ」
騎士の碧の瞳がうごいた。
女主人はかれの表情にかすかな嘲笑をもってこたえた。
「もちろん、そのような事実はありませぬ。かわいそうな娘のかわいそうな空想なのですわ。まあ――仕方のないことであるのやもしれませぬ。わたくしだとて、この館におりますと、ときどき気が違いそうになるのですもの」
白い手が、男の肩にかけられた。
ただうつくしいのではなく、妖しげな色香をその身よりたちのぼらせる女は、みずからのおもみを、騎士のうえにやわらかくもたせかけた。
芳香は騎士の鼻から脳をつらぬき、正気を失わせるかと思われた。、なまめかしき白き肌は、いまにも触れそうになるまでちかづき、うなじのほつれ毛が蝋燭の炎に透けて見えるほど。
熱い吐息が耳にかかり、あまくひくい声はからだの芯をまさぐるかのよう。
「騎士さま……ああ、この寂しさはとても言葉では言いつくせませぬ……なにゆえ、わたくしはこのように苦しまねばならぬのでございましょう」
女主人は、騎士をゆるゆると寝台に押したおした。
すでに男の目は劣情に燃え、みずからを沙漠の水のごとくに狂おしげに見つめている。彼女は自信にみちた態度で寝台のうえにひざまづき、添いふしつつ、獣めいたしなやかさで男のからだに覆いかぶさってくる。
騎士は、情欲とは無縁の緊張に四肢を縛られていたが、これを悟られぬがため、あかい唇がもとめておりきたるを拒まず、あらあらしきをもって受けいれた。
蜜のからまるがごとく、くりかえされるくちづけ。腕は女体ならぬものを求め、しばしの間さまよった。
度重なるくちづけの後、女はようやく上体を起こし、かすかなあかりのなか、騎士を見おろした。黒い瞳はうるみ、かがやき、獲物をまえにした肉食の獣めいて瞳がひらいて見えた。
女主人は唇を舐めた。
みつめるは首すじ――あるいは、喉笛。
無防備な皮膚、やわらかな肉。
脈打つ血のながれ。
騎士の脳裏をかすめたは、なにであったか。
それを想像することにより生じる恐怖を克服し、ふたたびくちづけを受けた。
しめった感触が首すじを這いのぼり、熱い息が吐きかけられる。
しろくほそい手が、顔を撫でてゆき、額にはめられし環にかかる。銀の環である。髪の毛がからみつき、ゆびのうごきは鈍る。銀の環は、あたかもそれじしん生きているかのごとく、女の意志を拒んだ。
騎士のまなざしに気づき、女主人ははじめて顔にあせりを浮かべた。
女は、かれの意識を奪おうと、唇を唇でふさぐ。
白い刃が、暗闇でさやばしる。
女の腹に、剣はつめたく突きささっていた。
V
うごかなくなった女主人を寝台に横たえると、騎士は燭台をもち、部屋を出た。
闇はどこまでも闇。
周囲を支配するは、人の子の住む世界にある暗闇にあらず。暗黒にちかい、それ自身が存在であるような、真の闇である。
館は闇のなかにあり、そのよどみに深く沈んでいる。
かかげもつ蝋燭の炎は、この帳をひらくことあたわず。騎士の踏みしめる足元を、かろうじて照らしだすのみ。
光のとどかぬところになにがあるのか。なにも見えぬ。なにもないのではなかろうか。
騎士は、ここが永遠に光の差しこまぬ闇の淵であるという考えをふりはらった。
ここは館のはずだ。
緑の匂う森の深きにたてられし、女主人の住まいせる古き館だ。
背筋がひやりとした。
背後に死のあることを意識して、騎士は居間へと足をむけた。
近づくにつれ、ふたたび糸車の音が聞こえるようになった。
からからとかろやかにまわる糸車。紡がれてゆく糸、けして後もどりはせぬ時間のようにひびきつづけるその音は、しだいにくっきりとした輪郭をもった音となった。
蝋燭をかかげたまま、騎士は居間へ入った。
炉のある部屋に変化はなかった。
薪はいきおいよく燃え、梁から吊りさげられたランプが、老婆の手もとをあかるく照らしている。
糸車はまわり、老婆のしわくちゃのごつごつした手が、熟練の手さばきで仕事をつづけている。
なにも変わりはないようだ。と安堵した後に、いや、ちがう。娘がいないと気がついた。
手仕事をつづける老婆は、覆いかぶさる影に顔をあげた。
しわだらけの顔は、騎士を見た瞬間、奇妙な表情を浮かべた。
暗がりのなかで、その顔がどのように見えたものか、騎士は背筋につめたいものを感じ、老婆より遠ざかろうとする。
「待ちなされ」
しわがれた声。老婆のものだ。
「どこへゆきなさる」
騎士は足をとめ――あるいは、とめられ――ふたたび炉端を見やった。老婆は人なつこそうに笑っていたが、ぶきみさ以外のものが感じられるわけではない。
娘はどこにいるのだろう。悲鳴やすすりなきが耳をかすめたような気がして、騎士は身構える。
「なにを聞いていなさる」
だが、静けさをやぶるは、糸車の音。
からりからりと単調に鳴りつづける退屈な音ばかり。
騎士は老婆の手もとをぼんやりと見つめていたものの、ふとわれにかえり、手で額をおさえた。
銀の環のつめたさが、針のごとく指に突きささる。
老婆の色うすき瞳は、横目でそれを盗み見た。
暗闇にふかき溜息。
悲しみにみち、絶望にあふるる、青い吐息。
「聞いてくださらんかの、騎士どの」
ふしぎにも、老婆の顔が刹那のあいだ若く見えた。みずみずしく、あかい唇と薔薇色の頬をもつ乙女の姿。
それも一瞬のことで、まばたきのあとには、またひからびた老婆が、しのび泣くような声で語りはじめていた。
「聞いてくだされ、騎士どの。この館はの、もとはきちんと大地の上にあったのじゃよ。はじめからかようなところにあったわけではない。豊かな王国がこの館をとりまいておった……そこに住むものは、みな、しあわせじゃった。人の子がもてる幸せを、もてるだけもったひとびとじゃった。館のあるじは、国を治ることに賢明なりし偉大な国王陛下じゃ……ああ、よき日日よ……かがやかしき日日は遠くすぎさり、いまは絶望あるのみじゃ。お聞きくだされ、騎士どの……」
「暗黒の呪いはきたれり。黒き魔は足音をしのばせ、王国を縦横に侵した。おそろしきは、そのあらがいがたき力。王国を、ひとびとを、すべてを侵し、のみつくし、腐敗をしいる闇の威力じゃ。鋼のごとき呪いに人の子の抵抗むなしく、民人は犠牲となり、国王陛下は命をおとされ、国は滅びた。闇に侵されし国土は、もはや現世にとどめがたく、かようなところへと変わりはてたのじゃ」
「おお……聞いてくだされ、騎士どの。あれはいつのことであったか。この婆にはわからぬ。もう、よう覚えてはおらぬ。悲しみと怒りと痛みが、しあわせとともにわしの心をもひき裂いたのじゃ。父上の悲鳴が、耳にこびりついて離れぬように、あのときが頭にべったりとはりついて離れぬのじゃ。みな死んだ。国じゅうが呪い殺された。いまは、われら三人が残るのみ……あわれと思うてはくださらぬか」
騎士は――騎士は、いつのまにか立ちあがりゆらめくように歩みよる老婆の背後に、業火に焼かれる王国を見ていた。うずまく呪いが、逃げまどうひとびとをつぎつぎと捉え、苦しみとともに離さぬさまを、息もせずに見ていた。
「いやいや、すでにわれらはふたりじゃ。そうであろう、騎士どの」
「娘はどこだ」
騎士は、喉からしぼりだすようにした。それはあえぎにはなったが、すこしも老婆に感銘をあたえはしなかった。
老婆は騎士を床几にすわらせて、その顔を両手ではさんだ。しわだらけのつめたい手に触れられると、よりいっそう悪寒がひろがるが、逃げだせぬ。からだが、思うようにうごかせぬのだ。
老婆の手は、頬から額におよんだ。
おちくぼんだしわのなかの眼が、異様なかがやきをおびて見える。銀の環にふれる手は、いらいらと落ちつかなげだ。
「この環じゃ、これが邪魔をする。姫さま、お待ちくだされよ、この婆が」
騎士は目をつむった。環をしっかりとつかんだ老婆は、最後の瞬間に聞こえない悲鳴をあげ、はじかれたように飛びあがった。
はずみに糸車は台からはずれ、床のうえにころがり、壁にぶつかって跳ねかえったのち、ぱたりと倒れた。
老婆自身は、その一瞬まえ、もっとおもたげに足下に果てていた。
VI
骸のうえには、一瞬にして千年の時が刻まれたかのようだった。老婆のからだは朽ちた。
その死を悼むがごとき陰欝な溜息に、騎士はすばやく顔をあげた。
暗闇に見ゆるは蒼白き光。背後に燃えているはずの炉辺の炎などは、いまでは幻のように消え失せていた。
騎士は眼前の光をめざした。かなしばりはすでにとけ、歩みをさまたげるもの、なにも存在せぬ。ただ、みずからの精神をのぞいては。
騎士の歩くは闇の淵。底無しの沼の岸辺。
一歩一歩が、さぐりながらのはりつめたうごき。なにが起きるかわからぬ緊張が、不安とまじりあう。騎士は嘆息の聞こえるところをめざし、闇をぬってゆく。
だしぬけに、蒼白き光は目のまえをみたし、小部屋を照らしだした。
娘が寝台にもたれるようにひざまずいており、騎士のおとずれを知って、ちいさなおもてをあげた。
しろい顔は光にうつされてさらに蒼く、目は泣きはらしたようにあかく、表情は恐怖にこわばり、おびえていた。
娘は言う、騎士にむかって。
「お逃げにならなかったのですか。あれほど申し上げましたのに」
ふるえる叫び。あえぐ息づかい。
騎士は娘に手をさしのべ、近づくが、娘はかれの一歩のごとに身をひき、首をふる。否と。
「ここは人の子のとどまるべきところではございませぬ。はやく、お逃げになってくださいまし」
娘は身をふるわせ――それは、恐怖以外のなにもののせいでもないように見えたが――背後の戸口をさししめした。
騎士は娘をなだめようと、さらに近づいた。そして、さきほどまでに起こった出来事をゆっくりと語った。
女主人の最期や老婆の昔語りに、娘は顔をふせ、あおい唇をかみしめて聞いていた。
するうちに顔色はますますひどくなり、老婆の最期を語るとちゅうで、うめき声をあげ、話をさえぎった。
「ひどいこと……騎士さま、貴方はそうそうにたちさるべきだったのですわ。さすれば、あのものたちは、貴方に害をおよぼすこともありませんでしたのに」
騎士のさしのべた手が娘の肩にふれたとき、娘は身ぶるいをした。
はらいのけられるまえに、騎士は手をひきもどした。理由などない。
娘は黒髪の乱れたすきから、おなじように黒い瞳をのぞかせ、苦しげに騎士を見あげた。
「おわかりになりまして」
死人めいた顔色は、いまではどす黒く気味のわるいものに変化していた。声も然りである。しわがれた、地の底からひびく老婆のごとき声、欲望と苦しみにみちた呪われた声だった。
「貴方の手にかかりし魔物は、わたくしの忠実なる下僕。いまはあさましき姿になり果てたる者どもなれど、もとは濃き血の縁でむすばれた王家の生き残りなのですわ。この世のすべてよ、呪われてあれ。この身に降りかかりし災厄のすべてを忘れさることがかなうものならば……!」
「では、あの老婆の言ったことは…」
「すべてはすでに夢ですわ……わるい夢ではないというのなら、なにゆえ、わたくしがいまだにここにこうして生きているのですか。国が滅びて何年たつのやら、わたくしにはもうわかりませぬ」
娘の顔――闇をのみこんだがごとき凶凶しき顔に、騎士は戦慄をおぼえた。
女主人も、老婆も、かほどの恐怖を感じさせはしなかった。娘の狂気には邪悪がふくまれていた。騎士は、あとずさりをしようとして、ゆび一本うごかせぬ自分を見いだした。
「騎士どの、貴方はわたくしをお救いくださると申された。喉の渇きを、どうか癒してくださいませ。もう、がまんなりませぬ。わたくしだとて、このようなお願いをしたくはなかったのですわ。でも、貴方は妹たちを殺しておしまいになった。こころよわき姉にずいぶんと仕えてくれた、よき妹たちであったのに。おお、このくるしみをはやく終わらせて。喉が焼けているわ。からだじゅうが燃えてしまいそう」
悲鳴か、それとも叫びなのか。
どちらとも判別つきがたい声をあげながら、喉をかきむしるようにして身もだえていたかと思うと、娘は騎士に飛びかかった。
硬直したからだにしがみつく醜い生きものから顔をそらすこともかなわず、騎士は最期の瞬間を待った。奇怪なかたちに開かれた顎のなかで、するどくとがった牙がつめたくせりあがって光る。
その先端がうなじに沈むまえに、なにかがそれを迎えうち、血に餓えた魔物は断末魔の叫びをあげた。
その声は闇の底からわきおこり、ふるえ、這いのぼりきたるかのごとく四肢を、周囲を波打たせ、泣きむせぶような哀しきひびきとなってひいていった。
もどった静寂の中で騎士はしばし佇んだ。
額に環を授かりつつ耳にした、黄金の髪、しろき腕の女性の澄んだ声が、脳裏によみがえる。
これは、わたくし。そなたを護るもの。
これあるかぎり、そなたはけして傷つかぬ。
わたくしの想いが、けして傷つけはせぬ。
「ひめ……」
黒き骸のまえで、騎士は銀の環の贈りぬしに、ひそやかに感謝をささげた。
VII
館は森に朽ち、森に還った。
みたりの魔物の骸は夜風にさらわれ、いずこへともなく消え、月影のした、かつての城の礎かとおぼしき石が残った。
それは幾百年の年月の間、風雪に晒されたうら寂しい遺跡だった。
呪われた王国の最後まで残った呪いは、ようやくとけた。
異界との境界も、ほんのすこしではあるものの、後退したように見える。
騎士は館をあとに、森の奥へとむかった。みちびかれるままに、なにをかわからぬものをもとめて。
その顔はきのうと変わらぬように見えたが、胸のうちにやどる心に、またひとつ、ふかき傷を負っていた。
ながれでる血液は、あわれなる王女たちのかわきの苦しみを癒せるであろうか。
すでに必要なきものであるにはちがいないにしても。〈了〉