3 追懐の鳥、追憶
夢だ。
気が付くと、俺は夢の中に立っていた。周囲のなにもかもに色がなく、景色はモノクロだ。白くかすんで、あるいは黒く淀んで見えない部分もあり、視界は悪い。しっかり見ようとすればするほど、余計にモヤがかかって見えづらくなるような気がした。まるで時間が止まっているかのように、あたりはしんと静かだ。
――ああ。
そこがどこなのかを理解するために、時間は必要なかった。
ここは十年前まで俺が住んでいたリワン亡国の小さな村、その村の大通りだ。民家の並び、道幅、空の広さ。すべてが記憶の中のまま。視線を落とし、自分の手や体を確認する。子どもの体ではない。外見の変化はないようだ。夢の中でタイムスリップ……別段おかしなことでもない。昔の夢を見ているのだな、と思っただけだ。
外には郁夜以外に人間は誰もいなかった。ときどき黒い影が道を歩いているのが見え、それらはどことなく人の形をしているのだが、あたりの空間との境界もモヤモヤとしていて曖昧だ。気味が悪いので、見かけても近寄らないよう努めた。
あたりを見回しながら通りを歩いていくと一軒の民家が目に留まり、思わず立ち止まる。ごく少人数で生活しているのだろう木造の小さな家。もう今となっては帰ることのない、かつて住んでいたわが家だ。
玄関の扉に手をかけてみると、どうやら鍵はかかっていないようだった。扉はなんの抵抗もなくゆっくりと開いていく。
と、そこで突然背後からバサバサとなにかが羽ばたく音がした。静寂を引き裂く騒音に、おどろいて思わずそちらを振り向く。
目の前を、黒い大きな鳥が横切った。
*
午前のうちに今日すべき仕事の大半を終わらせ、どうにか約束の時間に合わせることができた。昨日に知り合った警備隊員の青年――或斗と、郁夜はロワリアの喫茶店で合流することになった。
「十年前、なにがあったんだ?」
互いに適当な挨拶を交わして軽く食事を済ませ、追加で注文したコーヒーが運ばれてきたころに、或斗は本題に入った。
「……なにが、と言うと?」
唐突で、なおかつ単刀直入な問いかけに内心、少し戸惑った。郁夜はもともと感情が表に出にくい性質なので、そう質問を返す郁夜は相変わらずの無表情だったろう。或斗はまどろっこしそうに机に腕を置き、体を少し前にかたむける。
「事故か、事件か? あの人、まだ四十もいってなかっただろ。どうして急に」
「年齢なんて関係ないだろ、死ぬときは死ぬ。年齢なんかなんの目安にもならないことは、警備隊で働いてるならわかるだろ」
四十年も生きずに死ぬのが妙だというのなら、生まれて十年ほどで死んだ者は、いったいどうなる。これが或斗の求める答えでないことはわかっている。彼が知りたいのは、そんなことではない。今のはただの郁夜の感情だ。
「……あの廃墟の建物」
郁夜はまずひと言そう切り出した。なにから話せばいいのかわからない。父と交流があったなら、彼も真相を知るべきなのだと、自分自身の中の冷静な部分がそう告げている。ただ、話そうとすると頭が真っ白になるのだ。話し出す前からうまく言葉が浮かばず、説明できるかどうか自信がない。大量の砂糖とミルクでカフェオレと化したコーヒーを飲もうとしていた、或斗の手が止まる。
「昨日の、あの廃屋か」
「警備隊のライブラリにも資料が残っているはずだ。十年前に、あの廃屋でなにがあったのか。昨日、お前はあの場所を目指して歩いてきたんだろう?」
「……たしかにそうだ。資料室で過去の事件や事故について徹底的に調べた。該当する案件も見つかった。十年前、リワン亡国の住人が某所の廃屋にて遺体で見つかったと。他殺は間違いないが手がかりがない。おそらくカルセットに襲われたんだろうと。……そうとしか書かれていなかった」
なんの手がかりもない他殺体。それが人によるものか、人ならざるものによるものか。理屈も証拠も根拠もなくカルセットの仕業とする場合は――つまり、そうだということで片付けて捜査を打ち切ったということだ。打ち切らざるを得なかった、ともいう。……或斗は苦々しい顔でそう言った。
「それだ。なんだ、全部知ってるんじゃないか。その死亡者こそが、うちの親父だ。本当は他にも三人の遺体が出ているが、お前にはどうでもいいことだろうし」
「三人?」
「ああ。あそこで死んだのは全部で四人……全部というか、あの日に死んだ人数はな」
「それは……、いや。なにがあったんだ。どうして、あの人はそんな場所に?」
「或斗、お前はリワンに住んでいたんじゃないのか? 当時、村ではあれだけ騒ぎになっていたのに、そこまでなにも知らないというのは……」
「たしかにリワンだ。でも、あの村にいたわけじゃない。村より少し離れたところに住んでたんだ。雷坂さんが亡くなったことを知ったのも、ずっとあとのことだ」
「……じゃあ村での噂もすぐには届かないか」
郁夜は息をつき、感情を交えずに淡々と説明する。
「あの廃屋に入り込んだ子どもが帰って来なくなったんだ。その子の両親と俺の親父が捜しに向かった。だが誰も帰ってこなかった。ここまでは、当時に村にいた者なら誰でも知っているだろう。実際、それだけだ」
「村の人間にも聞いてみたんだが、ちゃんと覚えている人はいなかったよ。なんせ十年も前のことだからな……廃屋ではなにが?」
「カルセットの住処になっていたんだ。入ってきた人間を逃がさないように、空間の一部を操作できる力を持っていたようだ。集団で固まっているうちは問題ないが、一人でもはぐれたら、はぐれた者から屠られる」
郁夜はテーブルの上で組んだ手に視線を落とす。
「事の発端となる、最初に肝試しに向かった子どもたちは四人いた。四人はずっと固まって行動していたから何事もなく外に出られたが、帰りに落とし物に気付いた一人が引き返した。帰ってこなかったのはその子だ」
「他の三人の子どもたちは、今は?」
「たしか、一人はもともとレスペルのほうから遊びに来ていた子で、もう一人はその一件が原因で引っ越したとか。あとの一人は……どうだったか。全員、俺の知り合いではなかったからな。今どこでなにをしているのか。名前すら把握できていない」
「そう、なのか。……だが、その子の両親が捜しに出たまではわかるが、なぜ雷坂さんが?」
「それは。……」
それは、きっとそれが由明だったからだ。もしいなくなったのが彼以外の三人の誰かだったら、父は名乗り出なかったかもしれない。由明が郁夜の唯一の友だったから、だからあんなに必死だったのだろう。
郁夜が黙り込んでしまったので、或斗はいっそう真剣な顔になった。言わなくてはならない。すべてを知るまで、彼は満足しないだろう。
「親父から聞いてたかもしれないが、俺は小さいころ友達がいなかったんだ。暗い子どもだったからな。だが一人だけ、俺のことを気にかけてくれる友達がいたんだ」
「……それが、帰ってこなかったという、その子か?」
「そうだ。俺に友達と呼べる相手はその子一人だけだった。だから親父は、いなくなったそいつをほうっておけなかったんだろう。あいつが俺にとっての唯一でなければ。……俺があのとき、あいつと関わったりしなければ、こうはならなかったはずだ」
「……それはわからないだろ。雷坂さんは優しい人だった。俺の家は母子家庭なんだけど、父親を知らない俺に、父の愛情の代わりになる信頼をくれた。赤の他人の俺にだ。あの人は、そのとき帰ってこなかったのが誰であっても、同じように捜索を名乗り出たと思う」
少しぬるくなったコーヒーを飲んだ。カップの中身はまだ半分以上残っている。
「今まで、ずっと知らなかったのか」
父の話についてだ。或斗は頷いた。
「さっきも言ったとおり、あの人が亡くなったって事実を知ったのも、その事件から時間が経ってからだ。三か月ほどの間は訃報すら届かなかったよ。母親も村で起きたことまでは知らなかったし、知っていたとして、子どもに教えてくれるような内容じゃないしな」
「あれは報道紙にも……いや、たしか行方不明者の遺体が廃屋で発見された――としか書かれていなかったか。それに、あの森はリワンとレスペルの境界にあるが、廃屋の位置はたしか、もうレスペル国内のはず」
「ああ。当時の捜査をどちらの部隊がおこなったのかはともかく、ロワリアの報道紙に書かれていたのは死亡者が出たということだけだ。氏名も伏せられていた。真実を知るには、もはや自分で調べるしかないと」
郁夜がカップを置く。
「……まさかとは思うが、それで警備隊に入ったんじゃないだろうな」
報道紙に載っていない。周囲の人間は情報をくれない。だが警備隊員ならば、いくらでも過去の事件の情報を得られるのでは――と思ったが、当てずっぽうだ。さすがに否定されるかと思いきや、或斗は大きく頷いた。
「鋭いな。まあそうだ。ロワリア部隊はロワリアの警備より、同じ南大陸の他部隊の増援に向かうためにあるような部隊だからな。つまりロワリア部隊には管轄、担当区域という概念が実質ないも同然。過去の事件を調べる、という点においてはあの部隊に入るのが最良なんだ」
「まあ……過去の事件を調べるだけなら、今後の参考にとか、後学のためとか、過去の事件をおさらいするのが趣味だとか、どうとでも言ってまわりの目もごまかせるだろうしな」
郁夜は警備隊内部に関することはよくわからないが、たしかに、ロワリア部隊がそういった立ち位置にあるということは、子どものころから知っていた。国の垣根を越えて南大陸すべてを守っているのだと、父もそう言っていた。子どもたちの間ではヒーローのようなものだという認識だった。実際のところ、ロワリアが平和すぎて仕事がないから他の手伝いをするしかない、というだけなのだが。
「そのロワリア部隊の所属になること自体、まず大変な確率だろう。所属する部隊を選べるわけじゃないって噂だが」
「一番むずかしいのは入隊することさ。そりゃあ、たしかに配属場所は警備隊のお偉いさん方が決めるから、そのあたりは運試しなんだが」
「すると、お前は強運だったと?」
「いや、はじめはセレイア部隊に配属されたよ。試験を受けたのは南大陸だから、同じ大陸のどこかにはなれるんじゃないかと思ってたんだが、いやまさか西大陸まで飛ぶことになるとは。大変だった」
ロワリアやレスペルは南大陸。セレイア大国は西大陸。しかも、そのあたりでもっとも治安の悪い国だ。まさかそんな場所で仕事をすることになるとは思いもよらなかっただろう。
「セレイアか、遠いうえに物騒なところだな。いつ入隊したんだ」
「十年前、俺は十五で、それからきっかり三年。入隊自体は十八のころだな」
「お前、俺より五つも年上だったのか」
「えっ!?」
差があってもひとつ、ふたつ程度だろうと思っていたが、思いのほか離れていた。郁夜がおどろいていると、その言葉を聞いた或斗もおどろいたようだった。
「えっ、お前、俺より五つも年下だったのか!? 背も同じくらいだし、てっきり年も同じくらいかと」
「背は俺のほうが高いかもしれない」
「いや、……いやいや、そ、わかんねえだろ。そんな憶測だけでさあ」
或斗は咳ばらいをして、脱線した会話に軌道修正を施す。
「――で、十八で入隊して、さっき言ったとおりセレイア部隊に配属された。何度か異動を申し出てはいたんだが、まあそううまくはいかなかった」
「それで、どうしたんだ」
「ちゃーんと真面目に仕事をして、ヒラから班長になって数年したときに、ある大きな事件に関わってな。その解決に一役買ったんだ。それが評価されて異動が叶った。最終的には『国』に頼み込んだのさ」
国、というのはセレイア国の化身――セレイア・キルギスのことだ。郁夜も何度か会ったことがある。荒々しい乱暴者で、自己中心的な男だ。よほどのことがない限り、あの男が誰か――とくにロワリア出身の人間の要望を、簡単に聞き入れてくれるとは思えないのだが。
「その根性はすごいが、よく認めてもらえたな。隊の上の者が認めても、国が認めなきゃ意味がないだろうし、あのセレイアがロワリア国に関する要望を聞き入れるとは」
「俺も必死だったんだ。全力でぶつかれば、案外なんとかなる」
「じゃあ」
「土下座して頼み込んだ」
「本当に全力だな」
そこまでするか、と思ったが、口には出さないでおく。
「それで、そのセレイアはなんだって」
「その威勢のよさというか、潔さが気に入ってもらえたらしい。お前が今言った逆のことになったんだ。隊長は渋っていたが国が認めてくれた。だから俺はこっちに来ることができた」
「そうなのか……」
だが、たしかに言われてみれば……想像に難くない。セレイアはただ恐ろしいだけの男ではないのだ。ガッツのある人間はきっと好きだろう。
「異動に際して昇進して、こっちに来てからしばらくは覚えることも多くていろいろ忙しかったんだ。自部隊やレスペル部隊のほうで、仕事の合間をぬって十年間のことを調べて、それで、ようやく自由に動けるまとまった時間をとれたのが、昨日の午前だ」
「そして、ようやく自由になったと思ったら、さっそく俺と出会ったと」
「そういうことになる。本当、運がよかったよ」
強運だ。
「そんなわけで」
或斗は居住まいを正すと、表情を引き締める。
「警備隊、ロワリア部隊隊長、或斗。よろしく頼む」
制服を着ていたならばサマになっていただろうが、私服なのであまり決まってはいない。その自己紹介にならい、郁夜もため息のあとに姿勢を正した。
「ロワリアギルド、ロワリア支部。副支部長兼ギルド長補佐の雷坂郁夜だ。こちらこそ」
仕方なく便乗すると、或斗は口角をつりあげた。郁夜は立ち上がる。
「じゃあ、これで話は済んだな」
「無駄なこととか遊びとか、そういうの嫌いな人?」
「いや、そういうわけじゃない。ただ――今日の仕事もまだ残っているからな。そろそろ休憩を終わって戻らなければ」
「ふうん。そっちもそっちで忙しいんだな」
「忙しい日は忙しいが、暇な日は暇だ。たぶん、明日はずいぶん暇になるだろうと踏んでいる」
「じゃあ、明日はギルドに行ってもいいか?」
「なぜだ」
尋ねると、或斗はうーん、とうなりながら立ち上がって、やがて顔を上げると質問に答えた。
「ただ単純な興味だ。いいじゃん、親睦を深めたいって意味もあるし。気になってたんだよ、あのデカイ建物」
ふざけた理由ではあるが、別に来られて困る理由もない。郁夜は小さなため息とともに頷く。
「わかった。一応、ギルド長にも伝えておく」




