1 思い出と時の流れ
レスペル国、最西。あるいはロワリア国、最東。今やロワリア国の一部となったリワン亡国との国境に位置する某所の森。ここを訪れたのはいつぶりだろうか。ギルドに所属してからも何度か来たことがあるのだが、回数や時期までは思い出せない。そう高い頻度ではなく、数年に一度程度だ。
雷坂郁夜がなぜ、こんな森の中にいるのか。理由としては簡単だった。
夢を見た。
今から十年ほど前の過去の夢だ。おそらく郁夜の人生において大きな分岐点となった運命の日。いや、そこまで言うと大げさかもしれない。それでも、ふたつの別れとひとつの出会い。それが郁夜の人生を大きく変えたことは間違いないだろう。
夢の内容も、起きたときにはあまりしっかりとは覚えていなかったのだが、それでもなんとなく、あの日に関する夢であることははっきり認識している。
なつかしい。目が覚めたとき、まずそう思った。
夢の中で見たその運命の日から十年。二十歳となった郁夜は、ロワリア国の中心部にある、とあるギルドに勤めている。ギルドというが実際はただのなんでも屋だ。本来ならば今日も仕事があったはずなのだが、支部長でありギルド長である來坂礼と顔を合わせた途端、今日は休んでいいと言われてしまったのだ。
礼はエスパー系の能力を持った能力者で、目の前にいる相手の思考、感情、過去などのあらゆる情報が目に見える。なので郁夜が見た夢のこと、それによって郁夜が感じたこと、そして思考したことをすべて見透かしたのだ。幸い、今日はそれほど忙しいわけでもないので、郁夜一人が抜けたところで差し障りはないと、突然の休暇を戸惑いつつも素直に受け入れた。
森の中、何度も人が行き来した末にできあがった小路を少し外れ、鳥のさえずりなどに耳を澄ませながら歩いていくと、少し開けた場所に出た。朝から心地のいい天気で、頭上に広がる青空も今日は機嫌がよさそうだ。
好き勝手に伸びた雑草が小さな草原を作っている。地面の緑と空の青、鮮やかな色彩の中に、灰色の古びた建物がぽつんと取り残されていた。あれから十年。件の廃屋は未だにこの場所で形を残している。近日中に人が近付いたような形跡はなく、あたりは静かだ。ただ風に揺れる葉擦れの音が響いている。子どものころにやってきたときに感じた不気味さはもうどこにもない。これはもはや、ただの忘れられた廃墟だ。
十年前にはすんなりと入り込めた入口の扉は鎖や錠前で頑丈に封鎖されていた。かつて警備隊もここを調べにやってきたので、おそらくそのときに施されたものだろう。十年間雨ざらしになってすっかり錆びついているとはいえ、簡単には壊せないし壊すつもりもない。相変わらず窓ガラスは割れていない。十年前の段階で割れていなかったのは、カルセットが潜んで建物内を支配していたから――だと考えているが、あれから十年間も変わらずそのままなのは、廃墟の窓を割り尽くすような輩がこのあたりにはいないか、そうでなければ誰もこの場所に近寄っていないということだろう。
たしか向こうに――と記憶を頼りに建物のまわりを一周する。一階の窓の中で、ひとつだけ鍵の壊れた窓があったはずだ。レールが錆びているので簡単には開かなかったが、なんとか大人一人が通れるまでにこじ開けた。まるで空き巣に入る泥棒のようだ、と思わずため息をつく。不法侵入であるという点については同じだろう。
内装は相変わらずボロボロで、天井や壁もいつ崩れてくるかわからない。瓦礫は撤去されたようで、ずいぶん歩きやすくなっていた。一階、二階と順番に見てまわる。大きく変わったところはないが、二階の窓が一枚だけ割れていた。なぜ――とは思わなかった。それに関してはしっかり記憶している。思わず笑ってしまった。あの窓は礼が蹴破ったのだ。廃墟の窓を割る輩が、身近なところにいたものだ。
三階へ向かう階段の途中、ふと足が止まる。あの日の凄惨な光景が思い起こされ、先へ進むことを躊躇したのだ。恐怖、ではない。ただ足が止まった。それだけだ。しばらくそのまま立ち止まっていたが、やがて、郁夜は再び足を踏み出す。
下の階と同様に、廊下にはなにもない。しかし廊下の一部に黒い染みが残っていて、郁夜はその場に屈むと、染みの上に持参した花を置き、静かに手を合わせた。
立ち上がり、廊下の奥を見る。突き当りの部屋が窓から差し込む光に照らされている。もう十年経った。強い恐怖も深い悲しみも薄れてしまい、ただなつかしく、なんとなく物悲しい気持ちだけが心を埋める。ゆっくりと歩き、一歩ずつ扉に近寄った。この扉の奥には郁夜の最も恐れていた光景があった。
扉に触れるとなぜか少し緊張した。小さく深呼吸をし、そっと扉を開ける。湿気を帯びた埃っぽいにおいが室内にこもっているが、かすかな死臭すらもここには残っていない。残っているのは、ここでなにかがあったことを告げる、地面に残った黒い染み。
その部屋でも、廊下のときと同じように花を供え、手を合わせた。友よ。父よ。あれから十年も経ってしまった。あの日以降、立ち入り禁止となった場所だ。またここに来られる日があるとも限らない。いい加減、いつ崩壊してしまうか、あるいは取り壊されるかもわからないのだ。
立ち上がる。墓ではなく死に場所に訪れるなど。結局こうすることに意味などないのだ。これはただの自己満足だ。ため息が出た。そのまま部屋を出て、廊下を引き返していく。二階に降り、一階へ。それから、入ってきたときと同じ窓に手をかける。
一度だけうしろを振り向いて、すぐに前を向きなおす。意味はない。誰がいるはずもないということは、とうにわかりきっている。そのまま窓を乗り越えて、外に出た。
「おい、こんなところでなにをしているんだ?」
突然の声にびくりとし、反射的にそちらを見た。藍色の髪。青色の目。背丈は郁夜と同じくらいだ。顔立ちは若く、おそらく歳も近いだろう。ネクタイをきっちりと締めた紺色の制服。見覚えのある模様の入ったバッヂと二本の飾り紐。
あれは――警備隊の制服だ。
ぎくりとする。
郁夜が出てきたのは立ち入り禁止の建物。目の前の青年はどう見ても警備隊員。しかも、今まさに郁夜がここから出たところをばっちり目撃している。もし彼が郁夜に気付いたのが、郁夜が外に出てこの窓を閉じたあとだったならば、どんなに白々しくとも言いわけができただろう。
「あ……いや、これは……」
しかしこの状況では、もはや言い逃れなどできない。
いつになく郁夜はあせった。見つかったのがもう少し遅ければ、あるいは郁夜がもう少し早くここを出ていれば――考えたところで既に郁夜は見つかっている。なんと運の悪い。いや間の悪い。こんなことがギルドに知れたらと思うと今のうちから気が重くてならない。たとえ今ここで逃げたとしても、顔を見られている。少し調べればどこの誰だかすぐにわかることだ。この国は狭い。そのうえギルドは既に知名度を持っている。そもそも生真面目な郁夜にこの場から逃げるなどという選択は取れない。
警備隊の青年は眉間にしわを寄せ、じっと郁夜を見ている。てっきり不審者と思われて警戒されているものと思っていたのだが、やがてなにかに気付いたように目を見開いた彼の口からこぼれたのは、意外な言葉だった。
「――雷坂、さん?」
「え」
もう一度、顔を見る。見覚えはない。そもそも警備隊に個人的な知り合いなどいない。リワンに住んでいたころの知り合いだろうか? ありえない。郁夜には由明以外の友達も、話し相手すらいなかった。だが彼は今、間違いなく郁夜の姓を口にした。だが礼ならともかく郁夜自身に知名度はない。
郁夜の怪訝そうな顔に、青年ははっとして、あたふたと手を振った。
「あ、い、いや、なんでもない。少し、その……昔の知り合いに、似ていたもので」
「それは別に……いや、今たしかに、雷坂……と言ったよな。俺のことなら、雷坂で合っている。どこかで会ったことがあるのか」
「え?」
今度はきょとんとしている。表情が豊かだ。
「なあ、出身は……まさか」
「リワン亡国だ」
*
詳しく話を聞いてみると、郁夜はこの青年を知らないのだが、彼は郁夜と郁夜の父のことを知っていたらしい。青年は父の友人の息子にあたる人物で、生前の父とも面識があったらしく、それなりに親しくしていたようだ。郁夜と直接会ったことはなかったものの、父から話を聞いていて、だから郁夜の存在を一応は知っていた。名前までは聞いていなかったそうだが。
「雷坂さんが死んだと聞いたときはショックだった。あの人にはいろいろと世話になっていて。今度息子と会ってみないかって言われてたんだよ。おとなびた子で同年代の子たちとは気が合わないみたいだから、年上とのほうが仲よくなれるかもしれないって」
青年は昔をなつかしむようにそう言ったが、すぐに郁夜に向き直った。
「そういえば……ええと、名前は」
「郁夜だ。雷坂郁夜」
「俺は或斗だ。見てのとおり警備隊に勤めている。今日はたまたま時間があいたんで、ここまで来てみたんだが……途中で道に迷ってな。ここに来るまでにかなり時間を……いや、それはいいか。そういえば、今もリワンに住んでいるのか?」
「……いや。ロワリアの中心に大きな建物があるだろう。あそこはちょっと変わったギルドをやっていて、俺はそこで働いている。住んでる場所もそこだ」
「ああ、噂には聞いたことがある。そうか、あそこの……俺はこれからまた仕事に戻る。また明日、改めて会えないか?」
「それは……立ち入り禁止の廃墟に入ったことへの説教か」
「いやまさか、いろいろ話したいんだよ。ここで会ったのもなにかの縁だろ?」
「……わかった。時間を作っておこう」
「ギルドに行けば会えるか?」
「ああ。都合のいい時間に来てくれ」
或斗と名乗った警備隊員は、それからすぐに去って行った。郁夜はなんだかほっとしたような、それでいてまだどこかで彼を訝しんでいるような不安な心持ちで、しばらくその場に立ちつくしていた。
やがてひとつ、またため息をつき、ギルドに帰るべく歩き出す。どうあれ明日にまた会うことを約束してしまったのだ。今日は一日休むつもりだったが、明日いつ或斗が来ても対応できるように、今のうちに片付けられる仕事を片付けておかなくては。
ばさばさ、と背後から鳥の羽音が聞こえた。なんの気なしに振り返ると、大きな黒い鳥が郁夜めがけて飛んでくるところだった。鳥は廃墟の屋根から郁夜のすぐ目の前まで一気に滑空し、そのまま突進するような勢いで一直線に向かってくる。
「うわっ!」
おどろいて咄嗟に手で払いのけようとする、が。
郁夜の右手が鳥に当たった。
その瞬間に鳥が消えた。
羽ばたく音も。鳴き声もなく。まるで最初からなにもいなかったかのように、忽然と姿を消した。一枚の黒い羽根だけが、ひらりと風に飛ばされ空に舞い上がっていく。その一枚の羽根すらも、地面に落ちてくることはなく、風に流されるがままどこかに消えた。
「……今のは」
カラス、だろうか。いや、一瞬のことでただ黒い鳥だとしか認識できなかった。それにしたって、触れると消える鳥など。もしやカルセットか? しかし、なにをされたというわけでもない。体に異常はなく、周囲を警戒してみてもなにかが起こる様子もない。
「……なんだったんだ」
今日はいつもに増してため息ばかりが出る。元々いい思い出のない場所だということもあり、なんだか薄気味悪い気分だ。これ以上ここに留まっても得はないだろう。郁夜は足早にその場を離れた。