0 十年前の思い出
プロローグです
雷坂郁夜のことを「郁」という愛称で呼ぶ者は少なくない。むしろ、きちんと郁夜と呼ぶ者のほうが少ないくらいだった。愛称で呼ばれること自体はまんざらでもないのだが、皆がそろいもそろって郁と呼ぶせいで、郁夜の本名を勘違いしている者までいる始末。せめて初対面の相手に紹介するときくらいはきちんと呼んでほしいものだが、今さら気にしても仕方がないのかもしれない。
その郁夜が現在所属するロワリアギルドという組織は、ギルドなどと格調高そうな名前こそついてはいるが、組織としての構造は本来のものとは少々異なっている。この組織は言うなれば、どんな依頼も引き受けるなんでも屋だ。受けた依頼はギルド員たちに割り振られ、それぞれ責任を持って解決にあたる。人員はわけがあってそのほとんどが年若い少年少女ばかりで、そのギルドを率いているギルド長や、その補佐をおこなう副ギルド長の郁夜でさえ、まだ二十歳になったばかりの若造である。
このギルドはこの世界――ロドリアゼルの南大陸の端にひっそりと健在している小さな国、ロワリア国の象徴といってもいい組織だ。設立からわずか十年。既にギルドの知名度は海を越えるほどにまで成長し、なんでも屋としての経営も軌道に乗っている。ギルド員にはロワリア以外のあらゆる国籍の者もいるが、郁夜はロワリア国内で生まれ育った、この国の民草の一人である。
ロワリア国は分けて三つの領地で出来ている。はるか昔にロワリア国と合併することでこの国の一部となり、現在では亡国となったリワン。もとよりロワリア国の領土である小さな村、ラウ。そして国の中心部であるロワリア。郁夜はリワン亡国の出身だった。
リワンに住んでいたころから、郁夜のことを郁と呼ぶ者は既にいた。というよりその彼もまた、郁夜の名前を勘違いしていた一人なのだ。さかのぼること十年。外で動きまわることがあまり好きではなかった郁夜と、なぜかよく一緒にいた少年だ。十年経った今でもよく覚えている。
名前は由明。たしか姓は白鳥だった。由明は活発な少年で、いつも明るく元気だった印象がある。そんな彼のまわりにはいつもたくさんの人がいた。由明が一人ですごしているところなど見かけたことがないほど、彼は多くの人に好かれていた。郁夜は暗い性格――というほどではないが、まわりの子どもよりいくらか落ち着いており、今思えばあまり子どもらしくないおとなしい子だった。
ときどき父に教わりながらも基本的には自分で勝手に文字を覚えて、家の中で本を読んだり、スケッチをしたり、父が持っていたパズルやボードゲームを一人で遊んだり。報道誌を読むのも好きだった。先に述べたとおり、あまり外で遊ぶことはなかった。まわりからすればつまらない男児だっただろう。いや、つまらない男なのは今でも変わらないかもしれないが。ともかくそんな郁夜であるにもかかわらず、およそ正反対の趣味嗜好を持つはずの由明は、飽きもせず毎日のように郁夜を連れ出そうと家を訪ねてきたのだ。
もちろん当時の郁夜はそのことを常に不思議に思っていたし、最初は少しうとましいとすら思っていた。外でおにごっこやボール遊びをするよりも、家で報道紙や本を読んだり、掃除をしているほうが楽しいような者を相手に。他の子どもは暗いとか、つまらないとか、ノリが悪いとか言って避けるのがほとんどだったというのに、由明は違った。本人いわく、みんなが郁夜を暗いやつだと言うから気になって一度話してみようと思ったのだが、噂に聞いていたよりずっと普通の少年だったから――なのだという。
由明と初めて会ったときのことは覚えていないが、由明はそうではなかった。我々がいつどこで最初に出会っていたのかを教えてもらったことがあったはずだが、それも今となっては覚えていない。少なくとも彼が家に来たのが最初ではなく、外で会って少し話したことがあるらしい。たしかそのころの郁夜は家で座っていても外を歩きながらでも本や報道誌を開いて持っているような活字中毒予備軍だったので、おそらく記憶にないのはそのせいだろう。
ともかく、そうして郁夜に目をつけた彼が毎日しつこく自宅へ押しかけてくるので、そのたびに郁夜は適当な理由をつけて帰らせていたのだが、徐々にそれも面倒になって追い返さず放っておくようになり、さらに少しずつ話すようになって、いつの間にか友達になっていたのだ。由明といるのはたしかに楽しかった。彼が皆から愛されるのも納得できた。
しかし、その生活も長くは続かなかった。十年前――そう、今から約十年前のある日のことだ。
白鳥由明は死んだ。
あまりに唐突で、あまりに静かな死であった。誰に看取られもせず、誰からの助けもなく。雷坂郁夜の唯一の友は、ただ一人で孤独に死んでいった。
その日、由明は三人の友人とともに、ロワリアの隣国であるレスペルへ行くと言っていた。ロワリア――具体的にはリワン――とレスペルの国境間には大きな森が広がっており、そこにある廃屋で肝試しをするのだという。郁夜も誘われたが断った。
これっぽっちも興味がなかったわけではないが、せっかく友達と楽しく遊んでいるのに、郁夜のような者がいれば水を差してしまうだろうと気を遣った結果だ。その選択が正しかったのか、間違いだったのか。あれから十年経った今でもわからない。
その日の夜は、郁夜にとってはいつもどおりの夜で、ただ夕飯を食って、風呂に入り、読書をしているうちにちょっとだけ夜更かしをして、やがて朝に備えて眠った。ごく平凡な夜だった。翌朝、昨夜の土産話でも聞かせてもらおうといつものように由明が来るのを待っていた。そうなのだ。そのときの郁夜は、その日もまた由明がうちに来るのだと信じて疑わず、なにも知らないで当たり前のように、来るはずのない友を待っていた。
由明は帰ってこなかった。肝試しに向かった由明以外の子どもたちはそれぞれ何事もなく帰宅していたが、由明だけが帰らなかった。
彼らの話によれば、由明は肝試しを楽しんだ帰り道にて、持ってきていた腕時計を落としたことに気付き、すぐに廃屋へ引き返したそうだ。もちろん他の三人もついていこうとしたが、由明は一人で大丈夫だからと皆に帰宅を促した。三人はしばらくその場を動かず彼を待って、やがて、すぐに追いついてこれるように、ゆっくり歩いて帰り始めたらしい。その日はその三人のうちの一人の家に泊まる手筈で、彼らが由明が来るのを待っているうちに疲れて眠ってしまい、翌朝に仲間の一人が由明の家を訪ねたことから、彼が廃屋から帰っていないことが発覚したのだ。
もしかすると帰ってきたそのままの足で、どこかに遊びに行ったのかもしれない。その可能性も視野に入れ、ひとまず昼すぎまで待ってみたが、やはり一向に帰らない。いよいよ騒ぎが大きくなり、それから朝を待たずして、村では捜索隊が結成された。
といっても由明の両親と、郁夜の父親――母はこのとき既に亡くなっている――の三人が廃屋に向かい、それ以外は周辺の森やその森を抜けた先にあるレスペルなどで得られる情報がないかと聞き込みをしたりしていた。
結果として、由明は見つからなかった。のみならず由明を捜しに出た郁夜の父と、由明の両親までもが帰ってこなくなった。廃屋だけでなく周囲の広い範囲を捜しまわっているのかとも思ったが、丸一日待ってみても誰も帰ってこない。連絡もない。これはなにかあったに違いないと確信したリワンの人々はすぐに警備隊に助けを求め、その翌日から隊員たちによる捜索が開始された。
朝になって窓の外を見ると、外には警備隊の人間が何人も巡回していたのを覚えている。そして、友と父を捜すため、郁夜は人知れず覚悟を決めたのだ。裏口からそっと抜け出し、物陰や木のしげみに身を隠しながら、警備隊にも村の者にも見つからないように。警備隊は雷坂家が両親不在であることをまだ知らなかったらしい。村の者にしても、由明が行方不明であることに目がいくばかりで、郁夜にまで気がまわらなかったのだろう。なんせ、もともとおとなしくて影の薄い子どもだったのだ。無理もない。
ひと気のない道を選びながら最短距離で森に入る。当時はまだ小柄な子どもだった郁夜だ。森にさえ入ってしまえば、身を隠すのは簡単だった。捜索に駆り出された警備隊員はそれほど多くなかった。不謹慎ながら、郁夜はその時点ではまだ、心のどこかでその状況を楽しんでいたと指摘されても否定できない。
見つかってしまえば自宅へ連れ戻される。相手は大人だ。子どもの足では逃げてもすぐに捕まってしまうだろう。やりなおしは利かない。歳のわりに落ち着いた少年ではあったものの、そのスリルに胸が躍るのをごまかすことはできなかった。そんな普通の子どもだった。本当は肝試しも一緒に行きたかったのだ。たとえ危険が待っていたとしても。
自宅のリビングのテーブルの上には一枚の地図があった。森の一部に赤いペンで印がしてあり、先に廃屋へ向かった三人が由明捜索の会議をした際に使ったまま放置していたもののようだ。それのおかげで道に迷うことはなかった。身を隠し、足音を殺し、廃屋を探す紺色の集団を追い越した。時間はかかったが、郁夜は誰にも見つからず廃屋まで辿り着くことができた。
森の中の開けた場所。辿り着いた廃墟の建物は、噂に聞くより不気味に感じられた。四人もの人間のうち三人は大人。それがここに来たきり帰って来なかった――という先入観からだろう。郁夜はここまで来てようやく、少しずつ、この先に厳しい現実が待っているような予感がしてきた。怖気づいたというほどではないが、道中に感じていた緊張感とは別の、この逼迫した状況に対する警戒心や危機感を抱いたのだ。
雑草の生い茂ったごく小さな草原に、ぽつんと建っているその建物が、なんのために造られたものなのかは知らないし、今となってはどうでもいい。建物は三階建てだ。窓の内側にはカーテンがかけられているものの、それらはほとんどただのボロ布と化している。窓は一枚も割れていない。入り口にあたる扉の鍵は開いており、そこから中に入ると少し埃っぽいような、カビくさいようなにおいがした。
廊下には瓦礫やごみが多く、壁も天井もところどろこに穴があいたり、ひび割れて、錆びた鉄柱や鉄の棒が突き出していた。今にも崩れそうな印象で、怖いモノ見たさの肝試しとはまた違う恐ろしさがそこにあった。廊下にはいくつかの扉があり、それぞれが別の部屋に通じているのだが、歪んで開かなくなった扉がほとんどで、珍しく中に入れたとしても、とくになんてことない、なにもないがらんとした部屋だったと思う。
二階にあがると、一階よりはまだいくらか綺麗な印象だった。こちらも窓は割れておらず、カーテンもボロボロというほどでもない。部屋の扉もすんなり開いた。ただ別段なにか珍しいものがあるわけでもなければ、誰かがいたわけでもなかった。
おかしな点はこの時点でたくさんある。なぜ扉が開かないほど歪んていたのか。なぜ、壁や天井が崩れていたのか。そんなになるほど内装はボロボロなのに、なぜ窓ガラスが一枚も割れていなかったのか。入った瞬間に――いや、入る前に気付くべきだったのだろう。
三階に向かう途中、なんだかとてつもなく嫌な予感がした。背筋に悪寒が走り、この先になにかよくないものがあると直感したが、気のせいだと思い込んで階段をのぼった。その予感が杞憂に終わることはなかった。
……理解には数秒の時間がかかった。
廊下に出たとき、まず最初に目に入ったのがそれだった。二人。髪の長い女と、無精ヒゲの生えた男。壁に背をもたせかけ、寄り添うようにして目を閉じている。二人のまわりだけ、地面の色が変わっていた。赤いような、茶色いような。血のかわいた色だった。
その直後のことはよく覚えていない。ただ、気付いたときには廊下の奥へ走っていた。心臓は早鐘を鳴らし、息がうまくできなかった。ここまできて急に怖くなった。とにかくその場から離れたかった。想定の範囲内ではあっただろうに。
あれはおそらく、白鳥由明の両親だったものだ。
三階の突き当りの部屋。扉の前で立ち止まる。廊下から、血の跡が点々と、その部屋に向かって続いていた。恐ろしくてたまらなかった。真実を受け入れたくなかった。しかし、それでも。
扉を開けてしまった。
そこにあったのは、郁夜が一番見たくなかったものだ。
結果として、由明は見つかった。郁夜の父もそこにいた。
部屋の奥で倒れている少年と、その近くの壁に寄りかかったまま動かない大人の男。男は右腕がなく、部屋の隅には大人の腕が一本転がっていた。少年は両足がなかった。
しばらくの間、呼吸すら忘れていた。体から力が抜けて、地面に膝を打つ。壁や床に染み込んだ、もはやどちらのものかもわからない血の跡が脳裏に焼き付いて、いつまでも忘れられない。
胸の内の小さな心臓が暴れる。喉の奥にすっぱいものがこみあげてきたが、両手で口を押さえ込んでじっと耐えた。涙が止まらず、しかし声は出せず。そうしてどれくらいの時間が経ったのだろう。郁夜にはとてつもなく長い時間に感じられたのだが、もしかすると三十秒も経ってなかったのかもしれない。
「おい、大丈夫か?」
背後からの突然の声に、息が詰まった。あわてて振り返ると、そこには一人の少年がいた。独特な色合いの綺麗な青髪。大きな紫の瞳。中性的だが整った顔をしていて、背は郁夜よりも少し小さいくらい。……今も昔も、この男の印象にはあまり変化がない。
少年は郁夜がなにかを尋ねる前に、まず名乗った。
「俺は來坂礼。お前は?」
それが、郁夜と礼の出会いだった。あの日のことは生涯、忘れられないだろう。
その廃屋にはカルセットが潜んでおり、内に入ったモノを逃がさないよう閉じ込めてしまう仕掛けがあった。そこが廃墟になったのはもう遠い昔のことらしいが、ときどき肝試しと称して人が訪れる。カルセットの個体数は一体。なので、獲物を完璧に捕捉するには複数人でまとまられていては困る。
最初に由明を含む子どもたち四人が廃屋に入ったとき、彼らは誰一人として、片時も皆の傍を離れなかった。これは単純に、夜の廃墟が予想以上に怖かったからだ。だからカルセットは一度は彼らを逃がすしかなかった。しかし、そのあと由明だけがその場に戻ってきた。そして彼を探しにやってきた大人たちも。屋内を手分けして捜そうとバラバラになってしまったばかりに。
なぜ実際にその場にいたわけでもないのに、そこまで詳しいことがわかるのか。これはすべて礼が言った言葉なのだ。郁夜も最初は、なぜこいつはそんなことがわかるのだろうと不審に思っていたのだが、礼の能力にかかれば、その程度のことは簡単にわかってしまうのだ。
いろいろとあったが、そのあと礼はその廃屋に潜むカルセットの討伐に成功した。無傷で――とはいかなかった。礼はその戦いのうちに右手の指を二本ほど失うことになったのだが、稀有なめぐり合わせのおかげでその治癒が叶い、現在でも礼の指はきちんと十本そろっている。この日はあまりにいろいろなことがあったので、廃屋を出たあたりからも記憶は曖昧なのだが、この少年はつくづく運がいいのだなと思ったことは覚えている。
だが礼だけでなく、きっと郁夜も、あの日は運が良かったのだろう。
礼があの廃屋にいた理由はなんてことない、ただの好奇心からくる行動だったそうだ。たまたま見かけたから、なんとなく入ってみた。そうしたら出られなくなって、仕方なく中を探索していたら郁夜と出会った。それだけのことだと、彼は廃屋を出て町に向かって歩きながらそう語った。
つまり、そう、気まぐれだったのだ。
來坂礼の気まぐれがあったからこそ、すべては始まりを迎えた。