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黒鳥の夢  作者: 氷室冬彦
12/18

10 夕暮れ時の風の国

 空が赤く染まり、橙色の光がロワリアの街に降り注ぐ。雲が光に縁取られ、夕日とともに大空に美しい夕焼けを作り上げている。果ての見えない空をじっと見上げていると、なんとなく妙な気分になるのだが、或斗の語彙ではその感情を言葉にはできない。ただ吸い込まれそうで気が遠くなってくる。


 空はどこまでも続き、終わりのない虚無が視界いっぱいに広がる。それがなんとなく恐ろしい。もちろん日常生活のうちにそんなことを気にする機会はほとんどない。夜の星空、夕焼け、朝焼け――空が生み出す景色は好きだ。しかしあるとき、ふと空を見上げたとき、今のような奇妙な気持ちが湧いてくるのだ。


 仕事が早くに片付き、或斗は夕日の光を背に浴びながら自宅へと向かっていた。夕飯の買い出しを済ませ、賑やかな大通りから逸れ、ひと気のない自宅方面へと歩を進める。この国は大きな通りからひとつ道を外れただけで途端に静かになるのだ。


「或斗?」


 背後の声に振り返ると、そこには二日前に出会ったばかりの青年がいた。眼鏡をかけた紫の大きな瞳。独特な色合いの青髪は夕日を浴びて、やや橙の色に染まっていた。童顔だが顔立ちは整っていて、背は或斗より少しばかり低い。


「礼……」


 或斗が確認するように呟くと、青髪の美青年は軽く手を挙げ、にこりと微笑んだ。


「二日ぶり」


「ああ――」


 なんとなく会話をする意欲がなく、生返事を返す。前に会ったときは次から次へと言葉が湧いて出てきたというのに、今日に限ってはなにもかける言葉が見つからない。当然のこと彼に対する苦手意識はないし、反りが合う相手だと思っている。話していて楽しい相手だし、賑やかなのも好きだ。


 ――いや、違う。


 或斗自身の問題ではない。來坂礼、この青年だ。彼の今の状態が、或斗を乗り気にさせないのだ。


「礼、疲れてるのか?」


 気が付くと口にしていた言葉に、礼はやや困ったような顔で笑う。


「うーん……疲れてるかと言われれば、まあそうとも言えるんだけど。そうでないとも言えるような」


 歯切れの悪いことこの上ない。


「つまり……なんだ?」


「どっちかって言うと疲れてる。或斗は今から帰りか?」


「まあな。今日は早く終わったもんで」


「へえ、どこに住んでるんだっけ? リワン?」


「ここからもうすぐそこだ。リワンかというと微妙……たぶん、地図上ではロワリアだと思う」


「一人暮らし?」


「ああ、さびしいことに独り身さ」


「これからこれから。一人ってことは、母親はどうしたんだ? ロワリア出身って言ってたよな」


「何年か前にロワリアを出たんだよ。もうちょっと都会のほうにな。ときどき会ってるし連絡も取り合ってるけど、今は別々に暮らしてる」


「ふーん」



 *



「狭いし古いし散らかってるけど、まあ飲み物くらいは出せるぜ」


 礼を自宅に案内し、玄関の鍵を開けながら言った。謙遜ではなく本当に散らかっているのだから始末に負えない。


「気にしないよ。俺もいつも散らかった部屋ですごしてるし」


「ああ――たしかに、そういえばお前んとこの司令室って、いろいろ書類とか置きっぱなしにしてるみたいだったな」


「まったく管理してないってわけじゃないんだけどね。あれでも定期的に整理してるんだぜ?」


 たしかにあまり埃が溜まっているような印象はなかった。定期的な整理整頓をしているというのは本当なのだろう。礼だけならどうなっていたかわからないが、その隣にいる郁夜は真面目な男だ。彼がいる限り、散らかしたまま何年も放置するようなことにはならなさそうだ。


「静かなところだな」


「いつでも静かさ。この家は」


「彼女とか呼んだりしないの?」


「彼女ねえ、いたらよかったんだけどねえ。はあ……今度、誰かかわいい子でも紹介してくれよ」


「あはは。機会があればね」


 リビングに移動し、ソファと机のまわりをさっさと片付けて礼に座るよう促す。その様子を見ていた礼は、促されるままにソファに腰掛けながら意外そうな顔をした。


「そんなに手際よく片付けられるのに、それでも散らかるもんなんだな」


「まあ、誰かが来るってなると話は別だけど、普段は自分一人しかいないわけだし。誰に気を遣う必要もないってなると、そういうの面倒なんだよな。ゴミは溜めないようにしてるけど、本とか服とか雑貨類が」


「あー、そこはなんとなくわかるかも。ゴミじゃないから捨てられないし、かといって収納できる場所も限られてるし」


「そうそう。ここはまだ片付いてるけど、二階にある俺の部屋は人も呼べない状態だ」


 淹れたての熱いコーヒーを冷ましながら、しばらくとりとめのない世間話を続ける。外が暗くなってきたころ、或斗は何気なく問いかけた。


「そういえば、郁は元気か?」


 すると、礼ははっとしたように腕を組んで少しうなった。妙な反応だ。まるでなにかをごまかそうとしているかのような。


「うーん……なんていうか、今はあんまり元気でもないかなあ」


「風邪でもひいたか」


「どう言えばいいものか……とりあえず、疲れてるのはたしかだ」


「へえ」


 たしかに、苦労の多そうな印象ではあった。


「まあ……放っておいても大丈夫ではあるから。一応」


「そうか? ちゃんと養生したほうがいいぞ。俺たち警備隊もだけど、そっちだって仕事柄、身体が弱っちゃうと困るだろ」


「うん、まあね。でも、まわりがなにもしなくても、時間が解決してくれることもあるしさ」


 礼はカップのコーヒーを飲み干し、立ち上がって伸びをした。なんとなく会話がかみ合っていない気がする。或斗には彼の言葉の意味がよくわからなかったが、それ以上は言及せずに、そうだなと頷いた。


「ごちそうさま。そろそろ帰るけど、また時間があったらギルドに遊びにおいでよ」


「ああ、そうする」


 礼を見送るべく或斗も立ち上がり、二人でまた外に出る。外は既に暗く、この近辺は街頭も少ない。警備隊の人間として、相手が健康な成人男性であろうとも一人で帰すのは気が引けた。


「家の前まででよかったのに」


 歩きながら礼が言う。玄関先で或斗が靴を履いたときにも彼は遠慮した。もっと大雑把な男なのかと思っていたが、意外に謙虚なところもあるらしい。


「せめて大通りまではな。このあたりは夜になると真っ暗だし、男とはいえ一人で出歩くのは危険だ」


「或斗はセレイアでの生活が長かったから、感覚が麻痺してるんだな。あっちとこっちを一緒にしちゃだめだよ」


「気を付けろよ、そういう油断が命取りになるんだ。それに、これは警備隊の人間としての責務であり、年上としての意地でもある」


「急に堅苦しくなったなあ。護衛って意味なら、ちゃんと俺にもついてるよ。俺はいらないって言ってるんだけど……」


「離れて見守ってるってことか。でも警戒するに越したことはないだろ? なにもなければそれでよし。世の中ってのは油断しているやつから悪意の餌にされるもんだ。用心しておいて損はないよ」


 礼を大通りまで見送ってから再び帰路についたころには日も沈みきり、広場の人通りも少なくなっていた。帰り道には人っ子一人おらず、先にも述べたとおり、あたりには街灯もない。しんと静かで暗い道がただ続く。ただ明かりがないというだけで、いつもの見知った道であってもまったく別の場所のように感じられるのだから不思議なものだ。


 少し離れた向こうのほうに警備隊の建物が見える。そちらにはまだ明かりがあるが、さすがに或斗の歩く道にまでその光は届かない。いくらこの国が平和とはいえ、街灯の増設を国に頼み込んだほうがいいだろう。


 そう息をついたとき、ふいに人の気配がして振り返った。月明かりに照らされた夜道に、一人の人間のシルエットが浮かび上がって見える。このあたりの住人だろうか。


 その瞬間、ざあ、と少し強めの風が吹き、地面に散らばっていた落ち葉や砂が舞い上がった。四方八方から鳥の羽ばたく音と、葉擦れの音が大きく鳴り響く。


「うわっ」


 顔に砂粒が当たったことで反射的に目を閉じ、その場に立ち止まった。風が全身にぶつかり、耳元で渦巻き、鼓膜を震わせながらすり抜けていく。顔や服にかかった砂を手で払い除けながら目を開けるが、先ほど一瞬だけ見えた気がした人影は既にどこにもない。


 今、たしかに――動揺を示す或斗をよそに夜道は何事もなかったかのような沈黙を貫いでいる。そのあまりの静けさにそこはかとない気味の悪さを覚えた或斗は、早足でその場をあとにするのだった。



 *



 あの日のとおりに進まなければいけないのだろうな。


 モノクロの世界でそう悟った。夢が始まったのは廃屋の扉の前からだった。ためしに中には入らず、そのまま廃屋を迂回してレスペル方面へ向かおうとしてみたが、すぐに見えない壁に阻まれて前に進むことができない。ならばとリワンに戻ろうと試みるが、これも同様だった。


 どうやら廃屋の中を調べる以外に道はないらしい。あきらめて中に入る。入ったところですぐに引き返せるか試したが、昨日と同じように、扉が勢いよく閉まってそれを拒んだ。入ったモノは逃がさないという意思だけでなく、それ以外の選択肢を奪って強引に記憶を辿らせようとする意志が感じられる。記憶の強制力とでも言うのだろうか。


 いつになればこの夢から解放されるのか。最初のころは、おどろきと戸惑い、それから疑問となつかしさを感じていただけだったが、同じ夢ばかりを執拗に見せられては、いい加減にストレスだ。おそらく怖いのだろう。ためらいと恐れが疲労と合わさり、胸の中がぐちゃぐちゃにされていくような感覚だ。気持ちが悪い。言うまでもなく気疲れしていた。一日の疲れを癒すための睡眠だというのに、その眠っている間の夢で余計に疲れてしまっては意味がない。大きなため息をついた。


 重い足取りで一階をひととおり見てまわるが、その様相はすべて記憶のとおりだ。なにもなく、なにもいない。二階の廊下も記憶に残っているとおりだ。カーテンも一階ほどボロボロにはなっておらず、やはり窓は一枚も割れていない。少し歩くと床が抜けている部分があり、下を覗くとちょうど大きな瓦礫が積みあがっている。


 壁際を見ると足場になりそうな部分が残っており、たしか十年前はそこを使って向こう側に渡ったのだが、大人の体ではむずかしいかもしれない。溝の幅はまたいで渡れるようなものではないが、少し助走をつければ飛び越えられそうだ。十年前の子どもの姿であればいざ知らず、この体でならわけないだろう。壁際の足場と床の溝とを交互に見て、数歩うしろに下がった。


 そこから溝に向かって走り、破損した床の縁を蹴る。思っていたよりも遠い距離に感じたが、ギリギリ向こう側の床に右足がついた。しかし、そこでぐらりと強いめまいに襲われる。平衡感覚を失い、前後左右を認識できない。重心がうしろに崩れる。夢の中で運動をしたとき特有の、思いどおりに体が動かないあの感覚だ。


 思わずあとずさった左足が空を踏んだ。


 夢だから、なのか? それとも――あの日のとおりじゃないからか。


 咄嗟に伸ばした左手が地の縁を掴む。全体重が片腕にのしかかり、自分自身の重みに思わず顔をしかめる。これは夢だ。たとえ落ちても死にはしないし、怪我をしたとて痛みもないはずだが、だからといって落ちたくはない。下まではそれなりの高さがあり、それに加えて着地点は瓦礫のせいで足場が悪い。


 大きく息を吸い込み、歯を食いしばると腕に力を入れて体を持ちあげる。右手を伸ばし、床材を掴むとようやく胸のあたりまでよじ登った。頭上をなにか黒い影が通り過ぎた気配がし、思わず顔を上げる。


 黒い鳥が床に降り立ち、郁夜のほうを見た。


 その瞬間、急に全身から力が抜け、モノクロの世界がぐるりと回転する。


 天井が遠ざかる。


 灰色の視界が、ずるりと黒く染まった。

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