8 昼下がりのディスカッション
「私とあなたは旧知の仲ではあるかもしれませんが、しかし旧友と呼べる間柄にはありません。そもそも、私とあなたの間に友情なるものが成立したことが、ただの一秒でもありましたでしょうか。私が忘れているだけということならば、申し訳ありません。その関係を即時撤回させていただきたく存じます」
銀髪のシスターは淡々と、冷たく言い放つ。対する黒髪の少年はわずかに口角をあげた。少年と言っても既に二十歳に近い年齢なのでそこまで幼くはないが、年齢や外見ではなく中身の話だ。青年よりは少年と称する彼にはふさわしいだろうという、ただの皮肉である。
「また、そんなことを言う。君って最近、俺に冷たいよね」
「それは明確に、あなたの気のせいであると主張します。私のあなたへの対応は、以前までとなんら変わりありません」
「気のせいなもんかよ。前よりだんだん態度が冷たくなってく気がするんだけど?」
「そうお思いになるのでしたら、それはあなた自身のおこない、そしてそのお心に原因があると考えられます。私に冷たい態度を取られるようなことをなさった……なにかお心当たりがあるのでは?」
「それを言われると弱いなあ、心当たりが多すぎて。でもそれだけかなあ?」
少年は胡散臭い笑みを顔に貼り付けたままシスターに向き直る。
「冷静で、冷徹で、冷淡で。君は前からそうだったけどさ、最近はそれをさらに、意識的に徹底している気がする。前がどうだったかはともかくとして、今はわざと俺にだけ冷たくしているね。怖い女だ」
「ご自身の勝手な思い込みを他者に押し付けるという行為は褒められたことではございませんよ」
「そうかなあ、本当にただの思い込みかなあ?」
少年がシスターに歩み寄り、背中を曲げて顔を突き合わせた。互いの肌が接触しそうなほどの距離。シスターは動じず、ただ目の前の黒い目をまっすぐに見据える。少年もまた、彼女の碧眼を見つめていた。
「俺には全部見えてますよ。シスター」
聖導音アリアの耳元でそう囁くと、少年はくるりと踵を返し、礼拝室をあとにした。
*
「よかろう。ならばひとつ話し合いでもするといい」
そう言うと、探偵はいかにも面倒くさそうに足を組み替えた。かすかに紅茶の香りが漂う部屋の奥。背後の大きな窓から差し込む光を受けるその姿は、アンティーク調の家具がそろった部屋の雰囲気も相まって、一枚の絵画のような美しさが感じられた。
探偵のデスクより手前にあるソファに腰掛け、礼と夜黒は頷いた。組み合わせとしては奇妙だが、この三人が探偵の部屋に集まっているのには理由がある。
「礼、言われていたとおり郁……雷坂郁夜の異変の詳細を調べた。体温、体調、血流と顔色、感染症とウイルスの有無、私にわかるすべての情報はまとめてある。データとしての数値化も完了済み、提示可能」
「大変だっただろ、ありがとう。でも数値で言われても俺にはわかんないから、できれば言葉で報告してくれると助かる」
「了解した」
夜黒の体脳系とも機械系ともとれる能力というのは、簡単に言うならば彼女の身体にコンピューターを搭載したようなものだ。五感を通して認識したものをデータとして保存し、分析、あるいは解析し、他者に開示することが可能だ。とはいえ具体的になにができて、なにができないのか。把握しきれていない部分は多い。
「結果として、彼から見つかったのは感染症の病原菌などではなく、もっと別の……おそらく、どちらかと言うならば、心因性のものであると推測できる。しかし、それだけでは、腑に落ちない。もっと……」
夜黒はそこまで言って言葉を切った。目を閉じ、じっと考え込む。うまい言葉が見つからないのだ。無理もない。高性能な人工知能を搭載しているロボットようだと例えられることの多い彼女だが、まだほんの十一歳の幼い少女なのだから。普通の子どもより少し賢く複雑で、ただ口下手なだけなのだ。
「……彼が夢を見ている。ということだけがわかった」
今の自分の語彙力ではその微妙な心持ちを的確に表現することができないと判断したのか、彼女は伝えようとした言葉を捨て、話を次に進めるようにそう告げた。言葉にできなくとも、礼には伝わると判断したのだろう。そして探偵ならば話のうちに察するだろうとも。
夜黒は礼の指示により、郁夜の異変について調べていた。そもそもその異変というのがなにか。事の動機としては、ただなんとなく心配だったといったところだ。ここ数日、郁夜は妙に疲れた表情をしていて、さらにそれが一日ごとにひどくなっていくのだ。なにもないならばそれでいいが、なにかあるならば放ってはおけない。
礼はもちろん、礼に言われて郁夜を気を付けて観察するようになった夜黒も、その指示を受ける前から彼の疲弊した姿に違和感を覚えていた。無論、あの探偵も気付いていただろう。
「今朝に郁も言ってたよ。変な夢を見たって」
「それがただの夢でないなら厄介だな。だが厄介ではあるが、最悪の事態には至るまい」
探偵が紅茶の入ったティーカップを手に言う。夜黒が報告を続けるように発言した。
「一度目、一昨日の夜。二度目、昨日の夕方。そして今朝。三度にわたって能力を行使したものの、彼の子細を解析しようと試みると、必ずそれを阻害する力がはたらいた」
夢を見ているということだけがわかった。先に告げられた夜黒の言葉。それはつまり、それ以外はなにもわからなかった――ということだ。ただ単純に夜黒の能力でわかる情報がそれで限界だった? そうとも限らない。
「俺の目からもよく見えなかったよ」
「その夢に『フィルター』がかかっている、のでは」
無機質な声で戸惑いながら夜黒が言う。郁夜と礼たちの間に見えない壁があるのだ。その壁が彼とそれ以外を隔て、夜黒の解析も、礼の幻視すらも通さない。能力が阻害されているかのようだ。そして阻害自体には覚えがある。
礼には相手の思考や感情、過去に至るまで、そのすべてが情報として見えてしまう能力を持つ。それは本人の意思に関係なく常に発動されているものであり、たとえ見たくなくても見えてしまうものなのだ。礼がいつもかけている眼鏡はその能力を遮断するためにあり、あの眼鏡をかけている状態に限って、礼は自らの幻視能力をコントロールできるようになる。
とはいえ、それはレンズに能力の効果を阻害する、先ほど夜黒が言った『フィルター』というものを組み込んでいるためにできること。なのでコントロールといっても、根本的な能力の制御が可能になるわけではない。見えないようにはできても、能力自体は常に発動されている。制御しているのは自分の能力のオンオフではなく、眼鏡にある遮断機能のオンオフだ。
郁夜の夢もそれと同じような状況にあるのではないか。というのが夜黒の意見だ。ただ、礼の目でもよく見えなかったと言いはしたが、本当になにひとつとして見えなかったわけではない。礼が日頃からその物質を扱う者であるから、自らに向けられた遮断に耐性があるのか。はたまた郁夜の夢にかけられたその術がお粗末なのか。
かすんでいて断片的で、色がない。うまく見えなかっただけで、わずかに見えはした。
どうあれ他者からの能力による詮索を拒むなにかが郁夜が見ている夢に存在するのはたしかだ。当然、彼が元来持っている力などではない。それがただの夢でないことは火を見るより明らかだ。
「その夢がどのような内容なのか、予想すらつかないのか? 來坂礼」
お前はなにか知っているのだろう。そう言っているかのような目で、探偵が礼を見た。礼は黙り、わずかにうつむく。
「……まあ、たぶん」
來坂礼らしからぬ小さな声だった。覚悟を決めるように顔を上げる。
「ほとんど見えなかったから、判断材料が少ない。だから、これはあくまでも俺の推測で、本当のところがどうなのか、はっきりとはわかんないけど。たぶん、郁夜は――」
そのとき、礼は自分が郁夜のことを「郁」と呼ばなかったことに気が付いた。出会ってから今まで毎日呼び続けてきた愛称だというのに。あまりないことだ。それだけ慎重になっているのだろう。
「郁が見ているのは、十年前の夢だ」
「十年前……」
夜黒が呟いた。少し考えるそぶりを見せてから、改めて発言する。
「十年前――というと、このギルドができたのも、ちょうどそのころ。そしてあなたと雷坂郁夜が最初に出会ったのも、そのころと記録している」
「そうだよ。あいつが三日前に行った廃屋でな」
「夢については放っておいてもよかろう、と。私はそう判断しているが」
「たしかに、大丈夫かそうでないかと言われれば、大丈夫なんだけどさ。でも、あの日は……」
当時、十歳ほどのほんの子どもだった郁夜が、あの廃屋で見たもの。それは彼にとってあまりに恐ろしく凄惨で、絶望的な光景だっただろう。四人の死体が転がっていた。うち二人はとくに、彼にとってかけがえのない、大切な存在だったはずだ。
「……最悪な思い出なんだ。とにかく最悪なんだ。思い出したくもないだろな」
すべてをあけすけに語る気にはなれず、そう結んだ。内容が内容だ。他人の過去を、本人のいないところで勝手に打ち明けるわけにもいかない。これはこのギルドの暗黙の了解だ。誰が決めたわけでもない、いつの間にか当然のように出来上がっていた線引き。皆が無意識的にその規則に従って日々をすごしている。
このギルドに所属する人間は、誰も「過去の話」をしないのだ。
過去――といっても、誰々は昔はもっと髪が長かっただの短かっただの、もっと性格が尖っていただの、そういう当たり障りのない世間話として昔の話をすることはある。このルールの対象となるのは、ギルドに来ることになったキッカケの出来事だ。お互いに踏み込むべきでないという無意識の配慮から生まれた暗黙の了解。だからこそ今のこの状況でも礼は具体的な話を避けた。
煮え切らない返答に、夜黒も探偵も事情を察したらしい。それが郁夜にとってどういう意味を持つ夢なのか。もう二度と見たくない、見るべきでないものがそこにあるのだと。
「それは少々――酷だな」
探偵が同情とも納得ともつかない、静かな口調で頷いた。




