第6話 秘 密 〈前編〉
まだ朝日も昇らない早朝4時。
真っ暗闇の家の中に、少しだけの灯りとシャーという水の出る音が人目を避けるように漏れている。
そこは1階の隅にある洗面所。
コホッコホッと嘔吐する声が聞こえる。
その声の主は姉ちゃんだった。
そして、そんな姉ちゃんの姿をドアの細い隙間から覗き見ていたのは――あの黄色の大きな瞳だった。
◇
短いようで長かった冬休みも終わり、新学期が始まって1ヵ月が過ぎた2月半ば。
受験生である3年生は登校してない生徒も多く、若干校内が静かに感じる。
僕が帰宅すると、白が神妙な面持ちで僕を出迎えた。
「どうしたの? 白」
「翔太に話しておきたいことがあるんです」
白の深刻そうな表情に軽い胸騒ぎがした。
こたつに入った白は猫背になりながら、顔をくっと近付ける。
そして今朝姉ちゃんが洗面所で嘔吐していたことを話してきた。
「姉ちゃんが、吐いてた? なんか悪い物でも食べたんじゃない?」
「違うと思います」
「なんで? なんか心当りでもあるの?」
「昨日も同じ時間頃に吐いているのを見ました」
「2日続けて吐いてたってこと?」
「はい」
僕は両腕を胸の前に組んで暫し考える。
姉ちゃんが病気することなど珍しい。
たまに風邪をひいたり、熱がでたりすることはあるけど薬も飲まずに治してしまうタフな姉だ。
それに、病気のしない人間なんていないのだから、タフな姉でも体調を崩すことがあっても別段おかしなことでもないだろう。
ただ、白の話を聞いて気になることもあった。
それは、僕たちの前では平然を装っているということ。
別に隠す必要はないはずだ。ツライならそう言えばいいのに。
もしかして悪い病気にかかってるとか……?!
だから気付かれまいと平静を装っているのだろうか……。
僕がウーンと唸りながら一人で思案していると、白は大きな顔をさらに近付けてきた。
「何を考えているのですか?」
恐いよ、白。
顔、近付け過ぎ。
「いや……、別に。――まぁ、もう暫らく様子をみよう。姉ちゃんから何か言ってくるかもしれないしさ」
僕はそう言ったけれど、白は納得がいかないのか黙ったままだ。
白も白なりに何か考えてる感じだった。
もしかしたら、僕と同じ考えを起こしていたのかもしれない。
その日の夕方、姉ちゃんはいつもと変わらない様子で帰ってきた。
「ただいま」
と言って台所に立っている普段どおりの姉ちゃんの姿に、僕は少し安堵した。
具合の悪そうな素振りは微塵も見せない。
もしかしたら、考え過ぎなのでは? と胸の不安を取り払った。
翌日、姉ちゃんは仕事を休んだ。
白に訊けば、今朝も吐いていたらしい。
そんな姉ちゃんは見たことがない。
また悪い予感が僕の頭を過る。
僕は、白に姉ちゃんのことを頼んで学校へ行った。
1限目の数学の授業中、僕はノートをとるのもそっち除けで悩んでいた。
左手で頬杖をつき、右手に持ったペンをクルクルと指先で回しながら、姉ちゃんの病気のことを考えていた。
やっぱり親父に知らせた方がいいんじゃないだろうか。
親父は医者だし、僕なんかより親父からそれとなく聞き出してくれた方がよくはないだろうか。
僕は考えた末、昼休みに親父の携帯に連絡することにした。
もし悪い病気なら早く検査した方がいい。親父なら的確な判断ができる。
しかしこんな時でも親父は掴まらない。
昼休みにかけた親父の携帯は留守番電話だった。
僕は姉ちゃんの具合が悪いことだけを留守電メッセージに残して電話を切った。
6限目の終わるチャイムがなりHRが終わると足早に家へと向かった。走って帰れば10分弱で家に着く。
その僅かな間中も嫌な予感は胸に張りついたまま離れなかった。
◇
ほぼ同じ頃、白は姉ちゃんの部屋の前を何度もウロウロしていた。
そして、そっと姉ちゃんの部屋のドアノブを回し、ドアを開けた。
白が少し遠慮ぎみに部屋を覗きこむと姉ちゃんはベットの上で座っていて、ちょうどドアの方に身体を向けていた姉ちゃんと目が合ってしまう。
白は覗きがバレたと顔を強ばらせ、気まずそうにドアを閉めようとした――けれど、姉ちゃんのその声に白の手は止まった。
「心配してきてくれたの?」
姉ちゃんは怒ってないようで、ほっと胸を撫で下ろす白。
「入ってもよろしいですか?」
「どうぞ」
姉ちゃんは快く白を部屋へと招き入れた。
白はその大きな身体を少し縮めて部屋へと入る。
白は居間に入る時も、僕の部屋に入る時も、決まって同じ仕草をするのを見ると、どうやら白にとって部屋の出入口は少し幅が狭いようだ。
姉ちゃんの部屋はいつだって整理整頓されている。
綺麗に片付いた机、びっしり書物が埋まっている本棚、ピンク色のチェックのカーテンにベット。部屋中には仄かにフローラルの香りが漂っていた。
どれも僕の部屋とは違うと白は感じただろう。
「気分はいかがですか?」
「大丈夫よ。心配してくれてありがてう」
「少し話をしてもいいですか?」
「えぇ、いいわよ」
白は姉ちゃんのベットに歩み寄るとその脇に腰かけた。
上半身をお姉ちゃんの方へ少し捻り、そっと訊ねる。
「姉ちゃんのお腹の中には小さな生命が宿っていますね?」
姉ちゃんは白の言葉に“なぜ知っているの?!”といった表情で目を見開き、その両手を下腹部にあてた。
それが答えだ。
図星だった。
姉ちゃんは妊娠していたのだ。
「知って……いたの?」
「はい。何となく」
「そう……。じゃあ、翔太も?」
「いいえ。多分知ってるのは私だけです。――でもなぜ隠す必要があるんです? 新しい生命が誕生するなんて、とても喜ばしいことじゃないですか! 私はとても嬉しいです!」
白が大きい瞳を細めて微笑む。
一方、その白の笑顔を目にした姉ちゃんはポロポロと大粒の涙を流した。
「あのね、白……。この子は……、この子はね、望まれて出来た子じゃないのっ」
姉ちゃんは足に掛けた上布団のシーツをぎゅっと握り締め、泣き崩れた。
「私……、どうしたらいいかわからないのよっ」
両目から溢れ出るその大粒の涙は、暫く止むことはなく、白は無言で姉ちゃんの肩を抱いた。
その頃僕はといえば、姉ちゃんの部屋の前で白と姉ちゃんの会話を盗み聞きしていた次第で……。
この期に及んで言い訳をするわけではないが、盗み聞きをしたくてしてたわけではない。
急いで帰ってくると2階の廊下をうろうろしている白の背中が少しだけ見えて、ちょうど姉ちゃんの部屋に入るところだった。
それから話し声が聞こえてきて、部屋の前まで来た僕は、少し開いたドアの隙間から二人の様子を見聞きしていた――と、そういうわけだ。
正確には見聞きしていたというよりは、中に入るタイミングを見計っていたのだが、話の内容が以外な展開をみせ、結局最後まで廊下で聞くはめになってしまったのだ。
なぜ姉ちゃんか泣いているのか、いくら奥手で鈍い性格の僕でも、それなりに想像がつく。
少なくとも“相手”はこの妊娠を喜んでいないのだろう。
僕は廊下の壁に凭れ、声を掛けられずに息を潜めていると、玄関から物音が聞こえた。
階段の下はすぐ玄関で、覗けば誰がいるかすぐに分かるような構造だ。
僕はそっと覗き込むと、玄関にいたのは親父だった。
僕の留守電メッセージを聴いて帰ってきたのだ。
親父は靴を脱ぐと、その足で階段を上がってきた。
この時僕は思った。
もしかして僕は余計なことをしたのではないだろうかと。
今、親父と姉ちゃんを会わせてしまうことは、あまりにもタイミングが悪すぎる。
僕は後ろめたくなって、自分の部屋に身を隠した。
親父の足音が僕の部屋を通り過ぎ、隣りの姉ちゃんの部屋の前で止まる。
僕は右耳をピタリと壁につけ、聞き耳をたてた。
姉ちゃんは、親父の突然の登場にひどく驚いている様子だ。
必死で涙を両手で拭っているのだろうが、その真っ赤に腫れた両目は誤魔化しきれてないのだろう。
親父の第一声に心配の色が交ざっている。
「綾香、お前一体どこが悪いんだ? ちゃんと病院で検査してもらったのか?」
姉ちゃんは返事をしない。
「ちゃんと話してくれないと分からんだろ?」
いつになく親父の声は優しかった。
姉ちゃんと親父の間に挟まれて気まずそうにしている白の姿が目に浮かぶ。
「私……妊娠してるの……」
「……なに?」
「だから……、子供ができたの!」
姉ちゃんの衝撃の告白に親父は動揺を隠せないようだった。
だがさすがは親父だ。頭ごなしに怒鳴り付けたりはしない。
「……そうか。そうだったのか……。それで相手の人にはもう話したのか?」
姉ちゃんは頷いたのだろう。
また『そうか……』という親父の低い声が聞こえた。
「綾香、どうして下を向いている? 何か隠してることがあるんじゃないのか?」
親父の問いに暫くの沈黙。
会話しか聞こえない僕にまで伝わる緊迫感。
身体をビクつかせた姉ちゃんの仕草まで目にみえるようだ。
「今度、相手を連れてきなさい。3人でゆっくり話をしよう」
親父はこう言い残し、部屋を後にした。
きっと訊きたいことは山ほどあったはずだ。
だけど親父は、問い詰めなかった。
親父は姉ちゃんから話をしてくれるまで見守ると決めたのだろう。
だけど姉ちゃんが隠している秘密は、親父を裏切るものだった。