第5話 親 父 〈後編〉
深々と牡丹雪が降り積もり、より一層寒さが増す大晦日の夜。
年末恒例のテレビ番組の音だけが部屋を騒がしていた。
僕は居間にいたくなくて白を誘って自室へと逃げ込んだ。
「白、大丈夫。何処へも連れて行ったりしないから」
「はい」
白の上がり気味の目尻が心なしか垂れているように見える。きっと心細いのだろう。この地球上で白が頼れるのは僕と姉ちゃんだけなのだから、なんとしても親父を説得しなければならない。
だけど、親父とまともに会話をしたことのない僕にとって、それは容易なことではないのだ。
暫らく考えさせてくれと言った親父の言葉が、何度も僕の頭に響いてくる。
暫らくっていつまで?
考えるって一体何を考えるっていうんだ?
白は決して危害を加えるような危険な生物ではないし、性格もおとなしく優しい。
そのことはちゃんと伝えた。
親父だって黙って話を聞いてくれてたし、分かってもらえたと思ったのに。
僕は無力だ。
こんな僕に、白を守ることができるのだろうか。
僕は後ろめたいことがあったり、自分が不利な状況に陥りそうになると、自室に逃げ込んでしまう癖がある。
僕は卑怯な奴なのだ。
意気地もない。男らしくもない。どうせ僕なんて……と最後は決まってこの言葉で締めくくられる。
だからこの時も逃げてきたのはいいけれど、これから先をどう切り抜けていいか、分からないでいたのだ。
◇
僕が自室に籠もり、もやもやと自虐思考に陥っていた頃、居間では親父が無言で年越しそばを食べていた。
「ねぇお父さん、私からもお願いします。白をここにおいてあげてよ。白の仲間が迎えにくるまでの間だけなんだから」
姉ちゃんは親父に哀願の眼差しを送っている。
「そういう問題か? ――確かに彼は優しそうだが、それが本性かどうか……、人間を油断させる演技かもしれん。そこをきちんと見極めなければならない」
親父は冷静な口調で言った。
「それはないわ。断言してもいい。お父さんも白と一緒にいれば、すぐに分かるわよ。――あのね、白が来てから翔太は変わったの」
「翔太が?」
「えぇ。翔太は当たり前のことが出来ない子だった。他人を労ったり、挨拶をしたり、友達を作ったりすることが苦手な子だった。
だけど、白は翔太の友達になってくれた。翔太は白を守ろうとしてる優しい子になった。
朝は“おはよう”、ご飯の時は“いただきます”“ごちそうさま”って言えるようになったのよ? 凄いでしょ?
私、本当に嬉しかった。
嘘や偽りで人の心は動かせない。
白は私たちを騙したりなんかしてない。
よっぽど人間なんかより、他人を労る心を持っているわ。白はとても優しい人よ!
家のことは私に任せっきりで、たまにしか帰ってこないお父さんには分からないのよ。白が来てくれてから、この家がどんなに明るくなったか……翔太がどんなに優しくなったか……。
それを感じていたら、さっきみたいな台詞は出てこないはずだわ!」
なんとか親父に白の良さを分かってもらおうとしていた姉ちゃんの説得は、次第に熱が入り、仕舞には親父に説教していた。
「お前の性格も変わったんじゃないのか?」
熱弁を奮った姉ちゃんは、はぁはぁと肩で息をしていた。
日頃、親父に意見したりしない姉の行動もまた異例だったのだ。
親父もさぞ面食らっただろう。
まさか下でそんなやり取りが交わされていたなんて、僕には想像もつかなかった。
僕がその話を聞いたのは大分後のこと。こんなこともあったと姉から聞いた。
◇
――ゴーン ゴーン……
閑静な住宅街に108つの除夜の鐘が鳴り響く。
その重厚な鐘の音が、新しい年の始まりを告げた。
「除夜の鐘だ」
「いい音ですね」
「窓開けようか? もっとよく聞こえるよ」
僕は自室の部屋の窓を開けた。
冷たい空気と共に鐘の音が部屋の中を占領していく。
顔にかかる冷たい風が、僕のもやもやした胸の霧を一掃してくれた気がした。
やっぱりこのまま引き籠もっててはいけない!
もう一度、親父と話をしよう!
僕は強い熱意を胸にし、白を連れて親父のいる居間へと下りた。
しかし親父は風呂に入っていて居間にその姿はなく、僕の熱意も空回り。
「おそば、しようか? 夜ご飯食べなかったし、お腹すいてるんじゃない?」
「うん、食べる」
「白も食べるよね?」
「はい、頂きます」
そばが茹であがるのを待ってると、親父が風呂場からあがってきた。
タイミングを外した僕は口を開くことができず、気まずい空気が親父と僕の間を行ったり来たりする。
そして暫らくの沈黙の後、最初に口を開いたのは白だった。
「明けましておめでとうございます」
白が発した新年の挨拶に意表をつかれた親父は、返す言葉を失っている。
「あれ? もしかして私、挨拶間違えちゃいましたか?」
白が不安げに僕に耳打ちしてきた。
「ううん、間違ってないよ」
そして僕も親父に新年の挨拶をした。
「親父、明けましておめでとう」
その時すごく照れ臭かったことを覚えている。
そして親父も照れ臭そうに、明けましておめでとうと言ったことも。
「親父、また後で話きいてほしいんだけど」
「あぁ、分かった。早く食べないと、そば延びるぞ」
「うん」
まさか、この新年の挨拶を皮きりに親父の心境が変わっていったなんて、この僕が知るわけがない。
「いただきまーす」
「白、熱いからフーフーして食べるのよ」
「はい。いただきます」
今はもう当たり前になった白との食卓風景。
だが親父にとっては、初めて見る光景だ。
親父はソファに座り、肩に掛けたタオルで濡れた白髪混じりの頭髪を拭きながら、その光景を眺めていた。
ただ眺めていた。
引っ込み思案な自分の息子と、猫の姿をした宇宙人の和やかな食卓の風景を――――。
◇
昨夜はなかなか寝付けなかったせいか、僕が起きた時はすでに朝の10時を回っていた。
窓からは眩しい太陽の日差しが差し込み、僕の顔を容赦なく照らす。
昨日降り積もった雪は、その暖かさですっかり溶けていた。
いつも僕の隣りで寝ている白の布団は、すでに畳まれてある。
どうやら寝坊したのは僕だけのようだと、ひどい寝癖をつけて居間へと下りた。
居間の隣りには障子一枚を挟んで10畳の和室がある。普段は使用しないため、その障子が開いていることはほとんどない。
だが今日はその障子が開かれていて、そこにはこたつが敷かれてあった。
しかも、すでに先客がこたつを占拠している。
先客とは勿論、白のことだ。やっぱり躰は大きくても見た目は猫だ。こたつがよく似合う。
「どうしたの? こたつなんて……」
こたつなんて、ここ何年も出していなかったのに。
「ふふふ、お父さんがね、朝一番で出してくれたのよ。多分、白のためにね……」
台所に立っていた姉ちゃんが含み笑いをしながら嬉しそうに言った。
「えっ、親父が?」
僕は予想外の展開に眼をまるくし、あの名曲が頭を過る。
“ねーこは こたつで まるくなるー”
姉ちゃんの“ツナ缶”も笑えたけど、親父の“こたつ”も正直笑えた。なんて安易な発想なんだろう。
けれど、それよりも何よりも嬉しかったのは、親父が白を信じてくれたこと。白を受け入れてくれたこと。 それが堪らなく嬉しかった。
僕は嬉しいやら可笑しいやらで、涙が出る程腹を抱えて笑った。
その場にいた姉ちゃんも白も、僕が馬鹿笑いする様子を不思議そうに見ていたけど僕の笑いは止まらない。
親父の粋な計らいで僕の新年は明るいスタートをきった。
こうして白のことは僕と姉ちゃんと親父だけの秘密になった。
そして、僕と親父の距離もほんの少しだけ縮まったような気がする。