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第10話 憂愁の燈


 白が帰るその日を一週間後に控えた日、僕はめずらしく親父に電話をしていた。

 あるお願いを聞いてもらうために――


「分かった。なんとか都合をつけよう」


 僕が親父に頼みごとをしたことなど何年ぶりのことだろう。

 僕からの急な電話に、親父も驚いている様子だったがすぐに事態を把握し、快く僕の願いを聞き入れてくれた。とりあえず一安心だ。


 この家に来た日から白はずっとこの狭い家で過ごしてきた。

 きっと窮屈だったに違いない。

 だから最後に一度だけ、外に出してあげようと計画したのだ。


 そのためにはどうしても大人の力が必要だった。この場合親父に頼むしか選択肢はない。


 勿論この計画は、白の知らないところで進められた。

 白にはその時までの秘密なのである。


 そしてその白はというと、姉ちゃんから文字を習っている。

 けれど優秀なはずの白にも苦手なものはあるようで、いくら教えても平仮名さえまともに書けなかった。何度も姉ちゃんから間違いを指摘されてた。


「姉ちゃんはさっきから何を作ってるんですか?」


 姉ちゃんは白に文字を教える傍らで大きな黒地の生地を広げ、縫い合わせている。

 それを不思議に思った白が訊いた。


「うん、ちょっとね」


 姉ちゃんは含み笑いをし、白の書いた文字に目を落とす。


「また間違ってるよ。濁点は右上に点が二つだってば」


「えー? どれですか?」


「ほら、ここ」


 姉ちゃんに指摘され頭を抱え悶える様子はまるで昔の僕を見ているようで可笑しかった。

 僕も昔、姉ちゃんに勉強を教わってあんな風に指摘され頭を抱えてたっけ。


 こんな可笑しな光景を見るのもあと少し――。




 窓の外は生憎の雨。

 僕は窓辺に立ち、日を跨ぐ頃には止んでほしいと切に願った。




 その日の夜、親父が10日ぶりに帰ってきた。

 玄関前には一台の乗用車が停まっている。背の高いワゴン車だ。

 親父が職場の人に頼んで一晩だけ借りてきたらしい。

 幸い白には気付かれなくて、僕たちは静かに夜が更けるのを待った。




 深夜0時、僕の願いが通じたのか、いつの間にか雨は上がっていた。

 カーテンを開けると眩しいほどの満月の光が僕の部屋を明るくしている。床に寝ていた白にもその光は眩しかったらしく目を覚ました。


「白、出かけようか」


 僕はまだ事情のつかめていない白に、黒いフードを渡した。


「これは……」


「そう。昼間姉ちゃんが作ってたやつ。それ着たら下にきて」


 僕は一方的に必要最小限のことだけを説明して居間へ下りると、居間には親父と姉ちゃんが一睡もせず待っててくれていた。


 それから数分後、黒いフードを被った白が下りてくる。大きい頭から黒いフードを被った白は差し詰め不気味な黒頭巾ちゃんといったところだろうか。

 フードといっても生地の端を縫い合わせて首の位置に一本の紐を通しただけのお粗末なもの。だけど急遽仕上げたモノにしては上出来だ。

 白は窮屈そうにしてたけど、たとえ夜中であっても何処で誰が見てるか分からない。


 そう、白を連れ出す行為はとても危険な賭けだって分かってる。


 それでも白を連れていきたい場所――。




「さぁ、早く乗って!」


「あの……」


「話は後、後!」


 僕は強引に白を車の後部席に押し込め、すでに運転席でスタンバイしていた親父に目的地を告げた。


 春を迎え、大分暖かくなってきたとはいえ、夜はやはり冷え込む。

 妊婦の姉ちゃんにはこの寒さは堪えるだろう。

 それでも姉ちゃんは一緒に行きたいと言ったが、身体を冷やしてはいけないと親父に諭さられて姉ちゃんは留守番することになった。




 姉ちゃんに見送られて走りだした車内では、一人把握できていない白だけが頻りに訊ねてくる。


「何処へ向かっているんですか?」


「なんとか言って下さいよ」


 不安げな白に僕はいい所だよとだけ伝える。


 さすがに夜中だけあってどの道も数えるほどしか車は走っていない。

 その数は小道に入れば入るほど少なくなり、目的地に着いた時には人影さえ一つもなかった。

 街の明かりは遥か遠くに見え、ここは街灯一つない静かな場所だった。


 僕が白を連れて来たかった場所――それは桜の木々が立ち並ぶ河川敷。


 いつだったか白が言った。

 桃色に染まった河川敷を歩いてみたいと――


 ずっとその言葉が離れずに僕の中に残っていたのだ。

 そして、いつか本当にそんな日がくればいいなと思っていた。


「白、行こう」


 僕は白の手をとり、車を降りた。

 親父は僕に気を使ったのか車内から出てこなかった。




 二人で見上げた桜は満開のピークを過ぎ、散りぎわの哀愁を漂わせている。けれど昼間の雨で濡れた薄桃色の花びらは満月に照らされて有終の燈を灯し、あっという間に僕たちを魅了していった。

 キラッと一瞬の輝きをみせて落ちていく一粒の雫は、どんな宝石よりも綺麗で自然の前に人はとてもちっぽけな存在なんだと思い知らされる。


 フゥーと一陣の風が吹き、落とされた花びらはヒラヒラと空を舞い、僕の肩に落ちた。


 白は人目を気にすることなく被っていたフードを外し、瞬き一つせず目の前に広がる絶景を瞳に焼き付けているようだった。

 白の大きな瞳もまた満月の光が反射して妖艶な輝きをみせていた。


 キラリと黄金色に輝く白の瞳から零れ落ちる大粒の涙。


 白は溢れてきた涙を拭くこともせず、ただひたすらに桜を見上げ、静かに口を開いた。


「私もこの桜のように、散り際まで燈を灯し続けることができるでしょうか……」


 僕にはその意味が理解できなかった。


「翔太、ありがとう。

君と見上げたこの桜を私は一生忘れません。

絶対に、忘れませんから……」




 桃色に染まった河川敷を二人で並んで歩いた。


 まるで恋人同士のように。

 いつまでも別れを惜しむかのように。


 暗闇を照らすのは夜空に浮かぶ満月の光だけ。


 満月には不思議な力があるのだという。


 この満月は知っていたのだろうか。


 僕たちに襲いかかろうとしている嵐がすぐそこまで来ていることを――






 翌朝、目を覚ますとベット横の床に敷かれた布団はすでに畳まれていた。どうやら寝坊したのは僕だけのようだ。




 階段を降りると聞こえてくる二人の会話。


「え? なぜ翔太がピアノを辞めたか? どうしたの急に……」


 食卓の椅子に座り、果物ナイフで林檎の皮をむいている姉ちゃんに白が僕の過去について訊いていたところだった。


 僕は廊下に立ち尽くす。なんだか足の爪先から冷えていく感覚。


 もう僕の過去には触れてほしくないのに。



「――今の翔太を花に例えるなら、まだほんの小さな蕾です。これからどんな花を咲かせるは彼次第。

彼にはたくさん光を浴びて可憐に咲き誇ってほしいんです」


 白は窓際に座り足だけ庭にほうり出している。

 その日は昨日と打って変わって春晴れの陽気だった。

 1匹の雀が白の前を横切り隣りの家に咲いた梅の小枝にとまるのを目で追いながら白が言った。


 姉ちゃんからは白の丸まった背中しか見えない。

 けれど白の優しさは胸の奥まで伝わったのだろう。姉ちゃんはその背中に微笑する。


 けれど僕には鬱陶しくて――。




「あの子は弱いのよ。

いろんなことから逃げてきた。お父さんからもピアノからもね」


「どうしたらまた以前のように夢を持ってくれるでしょう?」


「さあね」


「本当に捨ててしまったのでしょうか?」


 白が僕の将来を心配して言ってくれていることくらい分かっていた。

 だけどそんな白の言葉はただ重たいだけで、僕の胸を心底からイライラさせた。黙って聞いていることもできないくらいに。


「余計なお世話だよ」


 僕は居間に入ると、冷淡な言葉を無意識に発していた。

 そしてイライラを持て余していた僕は姉ちゃんが剥いた林檎を口にほうばる。


 すると背中を向けていた白が立ち上がり僕の方に身体を向けた。

 今度は僕が白に背中を向けて食卓の椅子に座る。姉ちゃんとは向かい合う形になった。


「余計なお世話?」


 僕の背中から聞こえる白の声色に困惑が混ざる。

 けれど僕は気にせず冷淡な言葉を続ける。


「そう。夢なんてさ、子供が見るもんなんだよ。宇宙人の白には分からないだろうけど、現実はそう甘くないんだよ」


 この時の僕は素直じゃなくて、一生懸命に必死にもがいてる奴らを恥ずかしいと思ってた。


「はい、この話はこれでおしまい!

白も一緒に林檎食べようよ。おいしいよ」


 僕の言葉が白の心を傷つけたとも知らず、僕は勝手にその話題にケリをつける。

 けれど白は気持ちを押さえ込めずに感情を顕にした。


「私は悔しいです……。なぜあなたはそんないい方をするんです! ……ずるいですよ……」


 いつもと違う白の声音に僕は振り返り、この日初めて白の顔を見た。


 白は庭に仁王立ちし、両手にはぐっと握りこぶしを作っている。

 身体全体を覆った艶のある柔毛は逆立ち、怒りを顕にしていた。

 そして黄色の大きな瞳にはじわりと滲む涙。


 そんな白を見るのは初めてだった。


「だってそうでしょう?

あなたには、やりたいことがあって、やらなければならないことがあって、そしてそのすべを知っている。

翔太には環境もある。自由もある。時間もある。

なのに、あなたはことごとく自ら潰している!」


 怒りとも悔しさともとれる涙声の叫びが戒めの槍となって僕の胸を突き刺す。


「お父さんからも逃げてピアノからも逃げて、ずっと下を向いて歩いていく気ですか?」


 白の口からもたらされた親父というキーワード。

 それは僕の逆鱗に触れた。僕の内側からもふつふつと怒りが込み上がってくる。


 僕はダッダッと早足で白の側まで歩み寄と白を睨み付けた。


「親父がなんだって? 僕がどれだけ親父の影に苦しめられてきたか、知りもしないくせに偉そうに説教なんかすんな!」


 普段は白が僕を見下ろしている。

 けれど庭に立つ白と家の中に立つ僕とでは、目線は僕の方が高くなる。


 僕は白を見下ろしていた。

 少し優越感も感じて、重ねて浴びせ続ける罵声。


「親父の息子ってだけで勝手に優秀だって決め付けて、勝手に期待して、勝手に裏切られて、皆勝手すぎんだよ! 誰がそんなこと頼んだよ!?


僕が逃げてるって?

逃げれるもんなら逃げたいよ! それで楽になれるならとっくの昔にそうしてるよ!


王様の息子に生まれて、自由気ままに生きてきた白に僕の気持ちは分からない!


永遠に白には分からないよ!」


 僕の心からの叫び。


 僕はいつも親父と比べられてきた。いつも親父の影が僕の周りをウロついていた。

 そして決まってその影に押しつぶされるのだ。

 親父の息子だから、親父の息子なのにと他人の眼が僕を追い詰めるのだ。


 もう、うんざりだった。


 腹の底から一気に込み上げた怒りは次から次へと口から吐き出された。

 息を吸う間もなく大声を張り上げた僕ははぁはぁと肩で息をしていた。


 一気に険悪ムードになったその場を姉ちゃんだけがおろおろとなりながら心配そうに見守っていた。


 白は目を逸らすことなく僕をじっと見上げている。


 そして静かに言った。


「そんな気持ち、分かりたくもありません」


 白は僕の心からの叫びを“そんなこと”で片付けた。


 ドンと突き放された気がして虚しくなった。


 もう白と一緒にいる時間は少ないのに、喧嘩なんかしてる場合じゃないのに――僕と白の間には大きな溝ができてしまった。



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