第1話 雷雨の中で
それは、5年前の12月24日。クリスマス・イヴの夜の出来事だった。
君は突然僕の前に現われたんだ。
恋人たちが甘い夜を過ごす聖なる夜。
子供たちはサンタからのプレゼントに心踊らせ胸膨らませているのだろう。
街を彩る赤や緑の電飾にクリスマスソング。
当時、内気な16歳の僕にとっては関係なかった。
その日はホワイトクリスマスどころか、朝から生憎の豪雨。昼を過ぎる頃には雷雨に変わっていた。
青白い閃光が一瞬視界を明るくし、ゴロゴロと雷鳴を轟かせて、下界の人間たちを恐怖に陥れようようとしている。
“ざまぁみろ”と心の奥に潜む、もう一人の僕が毒づいた。
それは、クリスマスというイベントを謳歌している全ての人間に向けて吐いた言葉だった。
学校は今日から冬休みに入り、僕は朝からずっと部屋に閉じこもりっぱなしだった。昨日、友達から借りたRPGゲームに夢中になり過ぎて昼食さえもとり忘れていた僕は、腹がぎゅるぎゅる鳴って、その腹の虫に催促を受けながらチラリと時計に目をやると、時計の針はちょうど午後6時半を指すところだった。
もうそんな時間か……と僕は冷えた階段を下り、明かりのない静かな居間におりた。
窓の外は相変わらずの雷雨で、時折照らす雷光が暗くなった部屋を明るくした。
居間は12畳程の広さで狭い台所と繋がっている。
うちは3人家族だから、4人掛けの茶色い木製のテーブルセットはいつもどこかに空席がある。部屋の一隅には真新しい薄型の液晶テレビがあるが、あまり活用されてない。その前には膝丈と同じ高さのガラステーブルとそれを囲むようにクリーム色のソファが配置されているが、大体僕が座る位置は決まっているから、こんな大きなソファはいらないと思う。
南向きの透明なガラス戸の向こうには土肌むき出しの小さな庭があり、降り止まない雨のせいで大きな水溜まりができていた。
昔はそこで犬を飼っていたこともあったけど、今は……姉ちゃんが、天気のいい日に洗濯物を干すためだけの場所になっている。
僕はそんな庭に見向きもしないで、何か食べる物はないかと冷蔵庫を覗き込んでいると、玄関からがさがさと物音が聞こえてきた。おそらく姉ちゃんが帰ってきたのだろう。
大体こんな時間だから確認するまでもない。数秒遅れて“ただいまー”と姉ちゃんの疲れた声が聞こえてきた。
そして更に遅れること数秒、居間に入ってきた姉ちゃんの姿は、哀れな濡れ鼠状態。頭の先から爪先まで全身びしょ濡れだった。
僕は冷蔵庫から出したコーラを飲みながら、そんな姉の姿に冷ややかな視線を送る。
「悲惨だな」
「ほんともう最悪〜。途中で傘、折れちゃってさ〜」
僕に言っているのか独り言なのかブツブツと小言をいいながら、家の近くにあるスーパーのビニール袋をドサドサと雑に置き、洗面所へと消えていった。
「姉ちゃーん、お腹すいたー」
僕はソファにすわりながら、洗面所にいる姉ちゃんに自分の欲求だけをぶつける。これもいつものことだ。“お帰り”も“お疲れ様”もない。
そんな僕の無情なセリフに姉ちゃんは透かさず居間に戻ってきた。
「とりあえず、着替えさせてよ!」
姉ちゃんはドンドンと足音を大きめに立てて、2階へと階段を上っていった。
まぁそりゃそうだろう。無惨に傘が折れようともきちんと夕飯の買い物を済ませ、どんなに疲れていようが夕飯の支度をしなければならない姉に、この弟は哀れむような一瞥をくれただけ。労いの言葉をかけるわけもなく、タオル1枚も差し出したりはしない白状極まりないこの弟に、姉は憤慨するのも当然だ。
この家に母親はいない。僕が3歳の時に事故でなくなっている。僕が知っているのは写真の中の母親だけだ。
母親がいなくなって、家事は5歳年上の姉の役目となった。それが当たり前になってて、この頃の僕は姉ちゃんの苦労などまるで分かっていなかったんだ。
「もうっ! カーテンくらい閉めてよね! 内が丸見えじゃない!」
2階から下りてくるなり姉ちゃんの小言が始まった。
「はいはいはいはい」
僕はこれ以上小言を言われては堪らんと、即座にカーテンを閉めた。丸見えと言っても庭を挟んだ隣の家は2年前から空き家だから、見られる心配はいらないのではと僕は思うのだけど、姉ちゃんはそれ以上の小言は言わなかったので僕も何も言わずにおいた。
「鍋でいい?」
「うん」
鍋か……姉ちゃんもクリスマスは関係ないようだ。
夕飯に有り付いたのは7時半。
激しく降り続ける雨が窓を叩き、雷鳴の威力は増していく一方だった。
「今の(雷)、近くに落ちたんじゃない?」
「そうかもね」
姉ちゃんはドーンという轟音と振動にビビッている様子だ。
そして食事を済ませ、後片付けしていた姉ちゃんがふと思い出したかのように言った。
「あっそうだ、ケーキ買ってきたのよ。ほら今日はクリスマス・イヴだからさ。一人寂しく留守番してる弟を不憫に思って買ってきてあげたんだからね」
姉ちゃんは雷からくる恐怖を振り払うかのように明るく振る舞っている。あからさまに僕に対する皮肉を織り交ぜながら……。
勿論、僕も反論する。
「姉ちゃんだって同じだろ。イヴを過ごす相手もいないのかよ」
すぐに反撃が返ってくるだろうと僕は構えていた。けれど姉ちゃんは口籠もってしまい“うるさいわね”と動揺を見せながら、冷蔵庫から雨に濡れた白い箱を出すだけで、会話は途絶えた。
あらら、もしかして地雷踏んじゃっかな……?
箱の中にはカットされてある苺のショートケーキとチーズケーキが2つずつ入っていた。
どうやらケーキは雨に濡れずに済んだようだ。
天候最悪、イベントごとなど関係ない姉弟二人、せめてケーキだけでも美味しく頂きたいものだと、ケーキを皿に移した――その時だった。
一瞬目の前が真っ暗になったのだ。
――停電だ。
そして、一寸の時間を待たずしてズトーンという耳が痛くなるような爆音と、立つに耐えれない揺れに、僕は即座にテーブルの下に身を伏せ警固した。
姉ちゃんもキャーと悲鳴をあげながら、僕と同じ態勢をとっている。
地震か!?
雷が落ちたのか!?
車が突っ込んできたとか!?
一体何が起きたんだ!?
感じたことのない恐怖で、意識すればする程、心臓の音は次第に早く大きくなっていく。
その胸の早鐘が僕の全身に“危険だ”と警告してくるのだ。
「あれ……な、に?」
消え入りそうな姉ちゃんの声に、なんだよ? と不吉な予感を感じながら姉ちゃんを窺う。
姉ちゃんはカーテンの奥を指差していた。その指先は震えている。
その震える先を僕は恐る恐る目で追った。
そして僕は目を見張る。
青白く眩しい雷光が不規則に庭を照らし出し、そこにあるはずのない不気味な影を生み出していたのだ。
な、なに……あれ……
ただならぬ不気味な情景に、僕はテーブルの下で固まった。
見なかったことにできればどんなに気が楽か……。
現実逃避は僕の得意分野だが、それも今はできそうにない。
姉ちゃんが顎をくいくいっと突き出して“あなたが行きなさい”と眼で訴えてくる。
僕だって恐いよっ!
と目で訴えながらも、姉ちゃんに押し切られた僕は恐る恐る一歩ずつカーテンの前まできた。
ゴクリと唾を飲み込んで、僕も男だと覚悟を決めた。
そして一気に左右両手一杯にカーテンを開らいた。
――は!?
な、な、なんなんだコレは!?
僕の眼に飛び込んできたものは、衝撃の光景だった。
その大きさは一般車両と同じくらいであろうか。
しかし、濃い灰色の円い鉄の塊は、自動車とは異なった形をしていた。
僕はソレに似たものを知っている。
それは、いつか観たSF映画の中で“UFO”と呼ばれていたモノだ。
庭に大きな穴をあけたソレは、黒い煙を出しジジジっと漏電の音を漏らしていた。
姉ちゃんはテーブルの下から出てこない。
そして、部屋の灯りが一斉に復活した時だった。
激しく吹き付けてくる雷雨の中を、虚しく佇むソレが動いたのだ。キィーと鉄が擦れる音と共にソレの蓋が開いた。
そして、そこから出てきたのは――――大きな猫だった。