処刑してくださいませ。――その瞬間、王家は終わりますけれど
王太子を罠にかけた公爵令嬢と、彼女を先に罠にかけたつもりの王太子の話です。
※処刑・殺人事件・流血を想起させる描写があります。
処刑人の靴が違う。
ヴィオラは、それに気づいてから一度も男の顔を見ていなかった。
黒い革靴。左の爪先だけ泥で白く乾いている。
昨日、金貨三百枚を渡した男は、歩くたび右足を引きずっていた。古傷だと言っていたし、何よりあの男の靴は茶色だった。
目の前にいる男は、両足でまっすぐ立っている。
――替えられた。
アレクシスも、さすがに処刑場の人間を事前確認したらしい。そこまで愚かではなかった。
「ヴィオラ・エルグレイス」
広場に王太子アレクシスの声が響く。
「反逆罪により、貴様を死刑に処す」
何千人もの視線が処刑台へ集まっていた。
手首の鎖が冷たい。首には魔力封じの鉄輪。昨夜から水しか与えられていないせいで、舌が上顎に貼りつく。
それでもヴィオラは口角を上げた。
「ええ。どうぞ処刑してくださいませ」
広場が妙に静かになった。風にあおられた旗の音まで聞こえる。
アレクシスが片眉を上げた。
「……強がりはよせ」
「強がっているように見えます?」
「膝が震えているぞ」
見られていた。
「朝から冷えますもの」
「六月だ」
「では、怖いのでしょうね」
あっさり認めると、今度はアレクシスが黙った。
死ぬのは怖い。そんなことまで否定する必要はない。
問題は、予定では死なないはずだったことだ。
◇
半年前、ヴィオラは一冊の帳簿を燃やした。
「お嬢様、それは証拠では?」
執事のハロルドが暖炉の前で呆れた声を出した。
「写しは取ったわ」
「でしたら原本を残すものでは」
「これは向こうに見つけてもらうための帳簿よ。綺麗すぎる」
王太子の側近、ガルム子爵。王都の商会を三つ挟み、軍用魔石を国外へ横流ししている。
厄介なのは、アレクシス本人がどこまで関わっているかだった。
「港の男は?」
「今朝、亡くなりました。階段から落ちた、と」
「もう一人は馬車だったわね」
「はい」
「ずいぶん事故の多い月だこと」
冗談にするには、喉の奥が苦かった。
二人ともヴィオラに話をした直後に死んだ。一人目の妻には五歳の娘がいる。ヴィオラはその子の名前を知っていた。
知ってしまったから、帳簿を閉じて婚約者の顔を見ないふりができなくなった。
「国王陛下へ出しますか?」
「今は駄目。これだけならガルムを切って終わる。殿下は『知らなかった』と言えばいいもの」
「本当に知らなかった可能性も」
「あるわ」
ヴィオラは認めた。
「だから確かめるの」
「どうやって?」
親指の爪の脇を、人差し指で撫でる。考え事をすると昔からやる癖だった。
「私を邪魔だと思わせる」
ハロルドが紅茶のポットを置いた。重要な話を聞くとき、彼はなぜか必ず紅茶を淹れ直す。
「その先を聞きたくないのですが」
「聞いて」
「やはりですか」
◇
ヴィオラは少しずつ、婚約者としての手助けをやめた。
会議前に資料の誤りを直さない。外交官の名前を耳打ちしない。アレクシスが忘れた約束を、代わりに覚えておかない。
それだけで二人は驚くほど喧嘩をするようになった。
「なぜ昨日のうちに言わなかった!」
「殿下の机に予定表がございました」
「見落とすことくらいある!」
「ええ。ですから次からお気をつけください」
「以前のお前なら――」
そこでアレクシスは言葉を切った。
彼は馬鹿ではない。むしろ人の弱みを見つけるのが上手かった。だからこそ、自分が利用される側に回るとは考えない。
義妹リリアとの仲も、ヴィオラの予想より慎重に進めた。
リリアが王太子へ好意を寄せていることには以前から気づいていた。だから二人が顔を合わせる機会を増やした。けれど恋をしろとは命じていない。
暗号文の偽物も、リリアの部屋へ一枚置いただけ。
拾った紙を姉へ返すか、父へ渡すか、王太子へ持っていくか。選んだのはリリアだった。
四か月目、アレクシスはヴィオラの私室を密かに調べさせた。
五か月目、公爵家の使用人が一人、金で買われた。
六か月目、聖堂の倉庫からヴィオラの家紋入り短剣が見つかった。
「随分と雑ね」
逮捕前夜、ヴィオラは報告書を読みながら言った。
「雑でも民衆には分かりやすいでしょう。『悪い公爵令嬢の短剣が爆薬の隣に落ちていた』。新聞向きです」
「あなた、時々嫌なことを言うわね」
「二十年お仕えしておりますので」
三通の封筒を机に並べる。一通は帝国大使館。一通は教皇庁。最後は貴族院議長。
「私の処刑命令が公衆の前で読み上げられたら届けて」
「逮捕ではなく?」
「逮捕だけなら足りない」
「裁判でも?」
「足りないわ」
「処刑まで行かせる、と」
「殿下自身の口で偽の罪状を読み上げてほしいの」
密室なら揉み消せる。王都の中央広場なら、目撃者を全員消すことはできない。
「処刑人には?」
「話をつけた。三百枚」
「高い」
「私の首よりは安いでしょう」
「比較対象が嫌です」
◇
そして今。
その三百枚が無駄になっていた。
「第一の罪状。帝国への軍事情報漏洩」
アレクシスが羊皮紙を読む。
「第二。王家資金の横領」
ヴィオラは処刑人の腰を見る。鍵束。短剣。小さな革袋。知らない男だ。
「第三。聖堂爆破の企て」
「殺せ!」
群衆のどこかから声が飛ぶ。石が一つ、処刑台まで転がってきて足元で止まった。
アレクシスは羊皮紙を下ろす。
「申し開きは」
「ありません」
「認めるのか?」
「いいえ」
「ならば言え!」
妙なところで律儀な男だ。
「今さら私が何を言っても、ここに集まった方々は信じないでしょう?」
アレクシスは答えなかった。
「殿下。一つだけ。今なら中止してもよろしくてよ」
「命乞いか」
「忠告です」
「同じことだ」
違う。けれど説明する時間もない。
処刑人が剣へ手をかけた。
ヴィオラは親指の爪を強く押した。痛い。落ち着け。
ハロルドは封筒を届ける。それは信じていい。
問題は鐘が鳴るまで、この男の剣をどう止めるか。
「処刑を」
アレクシスが一瞬だけヴィオラを見る。昔、二人で馬から落ちて泥だらけになった日のことを、なぜか思い出した。
「執行せよ」
処刑人が剣を抜いた。
◇
「待って」
ヴィオラは男へ言った。
「最後に一つ」
「許可されていない」
「あなた、お子さんは?」
男の眉が動いた。
「何の話だ」
「左袖に赤い糸がついているから。子供服によく使う色でしょう」
「黙れ」
「娘さん?」
剣の柄を握る指が強くなる。当たり。
「私の首を落とす前に、東の空を見て」
「黙れ!」
「今日ここで私が死ねば、王家がひっくり返る」
男が初めてヴィオラを見た。
「そうなったとき、王太子からあなたへ報酬を払う人は残っているかしら」
沈黙。
「三十秒でいい」
「口車に――」
「二十秒」
遠くで鳥が飛んだ。
まだ鐘は鳴らない。
ヴィオラの背中を汗が流れた。
「十秒」
処刑人が剣を上げる。
駄目か。
本当に、ここまでか。
ハロルドには「安全よ」などと格好をつけたくせに。
剣が動く。
そのとき。
ゴォン。
大聖堂の鐘が鳴った。
処刑人の腕が止まる。
もう一度。
ゴォン。
次は貴族院。そして東門の向こうから、帝国大使館の緊急鐘。
ヴィオラは息を吐いた。肺に溜めていたものが全部出ていくようだった。
「……遅いのよ、ハロルド」
小さく呟く。
「何だ?」
アレクシスが立ち上がった。
「なぜ鐘が鳴っている!」
ヴィオラはようやく笑った。今度の笑みは、少し自然だったと思う。
「あら。もう届いたようですわね」
「何がだ」
「あなたが私を殺そうとした証拠です」
◇
最初に来たのは貴族院の騎士だった。
次が帝国大使。
最後に国王。
ヴィオラの計画と違ったのは、国王がアレクシスを殴ったことだった。
乾いた音が広場に響く。
「父上!」
「その名で呼ぶな」
国王の手には、ヴィオラが集めた帳簿の写しがある。
禁制の軍用魔石。消えた王家予算。死亡した二人の港湾職員。そして、アレクシスの署名。
「これは違う!」
「何がだ」
「ガルムが――」
「お前の署名だ」
「騙されたんです!」
「一度ならな」
国王が紙束を投げつけた。
「十二回だ」
紙が石畳へ散る。
群衆が静かだった。先ほどまで「殺せ」と叫んでいた男が、気まずそうに帽子を握っている。
ヴィオラはそれを見て、妙に疲れた。
勝った、とは思わなかった。ただ終わってほしかった。
「それから」
貴族院議長が前へ出た。
「ヴィオラ嬢の処刑に用いられた証拠についても調べる必要がある」
アレクシスがヴィオラを睨む。
「貴様……最初から」
「何のお話でしょう」
「俺を嵌めた!」
「殿下」
ヴィオラは手首の鎖を鳴らした。
「これを外していただいてから喧嘩しません?」
◇
事情聴取は三日続いた。
ヴィオラも無傷では済まなかった。
リリアの部屋へ偽の暗号文を置いたこと。王太子と義妹が接近するよう機会を作ったこと。それらについて貴族院から厳しい追及を受けた。
「つまり、あなたは王太子が偽造証拠を作る可能性を予想していた?」
「はい」
「止めなかった」
「はい」
「誘導したのでは?」
老議員の質問に、ヴィオラは少し考えた。
「否定はいたしません」
隣のハロルドがほんの少し顔をしかめた。ここは「違います」と言うところだったらしい。
「ただし、私は殿下へ人を殺せとも、証拠を捏造せよとも命じていません」
「危険な賭けだ」
「そうですね」
「死人が増えた可能性もある」
その言葉には返せなかった。
計画が完璧だったなどとは、もう思っていない。
処刑台で知らない男の靴を見た瞬間、ヴィオラは自分が死ぬ可能性を初めて本気で理解した。
「……次があるなら、別の方法を選びます」
老議員は眼鏡越しにヴィオラを見た。
「次がないことを祈るよ」
「私もです」
◇
三か月後。
アレクシスは王太子位を剥奪され、禁制品取引と横領、証人殺害への関与について裁かれた。
ガルム子爵も同様に。
リリアは偽証への関与を認めた。
ヴィオラ自身も、偽文書を作った件について罰金と半年間の社交活動停止処分を受けた。
「お嬢様」
ハロルドが庭へ紅茶を運んできた。
「また縁談です」
「こんな女に?」
「『王太子を処刑台で返り討ちにした公爵令嬢』は一部の男性に大変人気だそうで」
「趣味が悪いわ」
「同感です」
「捨てて」
「旦那様に怒られます」
「では犬の寝床に敷いて」
「もっと怒られます」
ヴィオラは笑った。
紅茶を取ろうとして、親指の爪の脇に小さな傷があることに気づく。あの日、自分で押しすぎた跡だ。
「ハロルド」
「はい」
「一つ聞いていい?」
「どうぞ」
「封筒、遅くなかった?」
「なりませんでした」
「鐘が鳴るまで随分かかったわ」
「帝国大使館の門番が、私を詐欺師だと思いまして」
「……何ですって?」
「十五分ほど揉めました」
ヴィオラはカップを置いた。
「私、その十五分で死にかけたのだけれど」
「存じております」
「もっと急いで」
「次回は」
「次回を作らないで」
ハロルドが珍しく笑った。
しばらくして、彼が何気なく聞く。
「ところで、もし殿下が途中で不正をやめていたら?」
「告発はしたわ」
「やはり」
「二人死んでいるもの」
「では、許すつもりは最初からなかった?」
ヴィオラは紅茶の表面を見る。自分の顔が小さく映っていた。
「許すかどうかを決めるのは、私じゃないでしょう」
「なるほど」
「でも」
カップを持ち上げる。
「逃がすつもりはなかったわ」
それだけは、最初から変わっていなかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
処刑台まで計画に組み込んだヴィオラですが、計画というものは予定通りにはいかないようです。
彼女のやり方を「痛快」と感じるか、「怖い」と感じるか。
どちらでも楽しんでいただけていたら嬉しいです。
空席あり




