わたくしの知らない方からの婚約破棄
「唐突なことで申し訳ありませんが、貴女との婚約を破棄させてください。他に想う方ができてしまいました。……本当に、申し訳ありません」
伯爵令息、リュール・ハワード様は愁いを帯びた表情でそう言うと、わたくしに深々と頭を下げました。
「顔を上げてくださいませ」
わたくしは冷静に返します。
おずおずと顔を上げた彼は、わたくしから視線を逸らしました。
流れるようなさらさらの亜麻色の髪、理知的な竜胆色の瞳。
いつもと同じ、その異常なまでに端麗な顔とは少しだけバランスが悪い柔らかな口調、けれど……。
「あなたは、どなた様でしょう?」
「は?」
わたくしの質問に彼は目を見開き、固まります。
「リュール様ではありませんよね」
わたくしがきっぱりとそう言うと、目の前の彼は表情を崩し、大きく息を吐きました。
「よく分かったな」
「ええ。だっていつものリュール様とは眼差しが違います」
「婚約して、たかが一月だろう?」
「出会ってから二月です。その二月の間、毎日のようにお会いしていましたから」
彼は考えるように視線を落とします。
「お前、伯爵が用意した婚約者じゃないのか?」
「リュール様とは、夜会でお会いしました」
「……リュールがお前を選んだのか?」
「はい。そして、わたくしもリュール様を選びました。ところで、そろそろお名前を教えてはいただけないでしょうか?」
わたくしは彼を真っ直ぐに見つめます。
「変な女だな。俺がリュールの本性だとは思わないのか?」
「全く。亡くなった叔母もあなたのようでしたから、わたくしには分かるのです」
「お前の叔母?」
わたくしは頷きます。
「叔母には叔母の他に三人の人格がありました」
「へぇ……」
彼は、僅かながら興味を示したようです。
「病弱な叔母は、幼いころから臥せっていることが多く、いつも友達が欲しいと願っていたそうです。そして願いは叶い、突然現れたそうです。最初はルナ、それから双子のメイとフレドリック」
今でも思い出せます。
三人の誰かが表面に出ている時、叔母の表情や口調は明確に変わりました。
わたくしは話を続けます。
「年齢を重ねていく叔母と違い、三人はいつまでも幼い子供のままでしたが、ルナはお茶目な性格で、時折叔母の真似をして話すことがありました。でも少しの違和感と表情の違いから、わたくしだけはいつも彼女であると見抜けました」
「まあ、俺の存在を認識し、平然と受け入れられる理由は分かった。でも、とにかくお前との婚約は破棄だ」
「リュール様は、そんなことを望んでいないと思います」
そう返したわたくしを、彼はあからさまに敵意を持った表情で睨みました。
「望むも望まないも関係ない。あいつはこれまで同様、俺が決めたことを受け入れるだけだ。大体、リュールと結婚すれば、自ずと俺も付いてくる。お前だって、こんな気味の悪い人間と結婚する羽目にならなくてよかったじゃないか」
「気味が悪いだなんて思いません」
「上辺だけならなんとでも言える。もう、リュールのことは忘れろ」
彼は捨て台詞のようにそう言うと、身を翻し、わたくしの前から去っていきました。
わたくしは、一人残されます。
今、彼を追いかけて行っても話を聞いてはくださらないでしょう。
わたくしが知るリュール様は、彼の言動が見えてはいないのでしょうか。
◇◇
翌日、リュール様が再び我が邸を訪れました。
わたくしは彼を自室に招きます。
メイドにティーセットだけ運ばせ、早々に二人きりにさせてもらいました。
「変なことを言うようで申し訳ありませんが、実は昨日の記憶がないのです。僕は貴女に何か失礼なことをしませんでしたか?」
彼はそう尋ねると、不安そうにわたくしを見つめます。
「昨日、あなたにお会いしましたが、今のあなたではありませんでした」
「では、ユエルが……」
彼の美しい竜胆色の瞳に影が差します。
「彼は、ユエル様と仰るのですね。わたくしたちの婚約は破棄だそうです。ユエル様には、どなたか想う方がいらっしゃるのですか?」
「まさか。……そういうことではありません。彼のことを黙っていて申し訳ありませんでした。ユエルを僕ではないと認識できたのは、元凶であるあの女の他には貴女が初めてです」
わたくしはお茶の用意をしてから、リュール様に叔母の話をしました。
彼は驚きながらも、熱心にわたくしの話に耳を傾けます。
そうして話を全て聞き終えると、
「貴女には、正直に順を追ってお話しします」と言って、決心したように顔を上げました。
「実はこれまでに二度、同じことがありました」
「同じこと?」
わたくしは尋ねます。
「婚約破棄です。ユエルは父が選んだ婚約者たちに、僕とそっくり同じ口調、所作で婚約破棄を告げるのです。まるで僕が告げたように」
「ご自分ではないと仰らなかったのですか?」
「誰が信じますか。それに、大体、僕は彼のすることを否定できません。彼は僕……ですが、恩人でもあるのです」
リュール様はそこまで話し、少し視線を彷徨わせます。
「幼い頃、父は仕事で邸を空けることが多く、僕は義母に酷い折檻をされていました。最初は義母も優しい人でしたが、ある夜、僕に性的な悪戯をしようとして、それを拒むと途端に豹変しました。裸にされ、意味もなく鞭で叩かれたり、狭い箱のようなものに閉じ込められたり、僕の体は常に傷だらけでした。しかも厄介なことに、義母は対外的なことを気にして、傷や痕を僕の肌が衣服で隠れる、見えないところにつけるのです。いつもその痛みを、僕の代わりにユエルが請け負ってくれていました」
わたくしは息をのみ、ただリュール様を見つめます。
「僕はそのことを、父に言えませんでした。数年後、見かねた執事が密告し、義母の行いを知った父は、その時ようやく彼女と別れました。父はユエルの存在を知りません。今更彼の存在を伝えれば、またあの時のことを思い出し、ご自分を責めたりなさるでしょう。ユエルは普段は大人しく、ただ僕を守るときにだけ現れるのです。女性はヒステリックになると何をするか分からない恐ろしい生き物だと思って、彼は今でも僕を守ろうとしてくれているのだと思います」
「それで婚約破棄を?」
「……きっと。彼が勝手に、父が決めた婚約を破棄してしまうため、父にはこれまでの婚約者たちとは合わなかった、婚約者は自分で選びたいと伝えるほかありませんでした。そうして父を安心させるため、自ら積極的に夜会に参加することにしたのです。勿論、どなたを選ぶつもりもなく」
彼は若干震える手でティーカップを持ち、冷めた紅茶に口をつけます。
「けど……」
彼はわたくしに視線を送り、頷きます。
「けど、僕は貴女、シアラと出会った瞬間、心を奪われてしまいました。月明かりの下、一人で跳ねて踊るシアラがあまりに可愛らしくて。……覚えていますよね?」
リュール様はわたくしの言葉を奪うようにして、そう尋ねます。
「……ええ。声をかけられ、あの時は恥ずかしかったです」
「それからあなたが侯爵令嬢だと分かり、驚いたものです」
リュール様は微かにに笑いました。
あの夜会。
あの日のダンスのお相手は、酷いものでした。
お酒くさい顔を近づけ、首筋の香りを嗅ぐ公爵冷息。衣服越しとはいえ、汗ばんだ手を撫でるように下半身に這わせる子爵。胸元だけをただひたすら凝視し、気味の悪い笑みを浮かべる男爵……。
一人の方が余程楽しいと思い、わたくしは微かに調べが聞こえる庭園で、気分よくふらふらと月を見ながら踊っていたのです。
人影はなく、誰かに見られているなんて思いもしませんでした。
「短い間でしたが、想いが通じ、貴女と婚約できて幸せでした。傷つけてごめんなさい」
リュール様は立ち上がり、頭を下げます。
「謝る必要なんてありません」
わたくしは彼の隣に移動し、そっと彼の手に触れました。
「お願いがあります。ユエル様と、もう一度お話をさせていただけないでしょうか?」
「残念ですが、僕の意思で彼に代わることはできません。それに、代わって話したところでまた貴女を傷つけるだけです」
「大丈夫です」
「大丈夫ではありま」
「すみません、リュール様」
わたくしは彼の言葉を遮り、いきなりリュール様の両腕を掴むと、ソファーに彼を思いっきり押し倒しました。
「何を……」
リュール様は気を失うように目を閉じます。
次に目を開けると、彼の表情は変わっていました。
「乱暴な女だな」
「ユエル様……ですか?」
「あいつから俺の話を聞いたのか?」
「はい」
わたくしは彼の上から降りて、彼の隣に移動します。
「なんでそんな意味のないことをする? 婚約は破棄だと言っただろう」
彼は起き上がり、面倒そうに頭を押さえながらそう言いました。
「そのことは、一先ずどうでもいいのです。どうしても、あなたに伝えたいことがあったから」
「伝えたい?」
「お礼……です」
ユエル様は、怪訝な面持ちでわたくしを一瞥します。
「あの、ユエル様が生まれた経緯をお聞きしました。リュール様を守ってくださって、ありがとうございます。体も心も、すごく痛かったと思います。できれば、……抱きしめさせて欲しいです」
「はぁ? 気持ち悪いこと言うな。今更、慰めなんていらない。そうやって優しいふりをして、俺に取り入ろうとしても無駄だ」
「そんなつもりはありません」
「お前の言葉なんか信じない。お前より身分の低いリュールを選んだのだって、見た目がいいからアクセサリーに丁度いいと思ったか、凡庸で扱いやすいと思ったか、その程度だろう。どうせお前もあいつを裏切る」
「裏切りません。信用に足る人間かどうかは、時間をかけて判断してくださって結構です。……一つ、お聞きしたいことがあります」
ユエル様は返事をせずに、呆れた顔でわたくしを見ています。
わたくしは勝手に話を続けます。
「リュール様の義理のお母様であった方は、今どうされているのでしょうか?」
「なんで俺に聞く?」
「リュール様とユエル様は、知識や記憶を共有されていないのですよね。ユエル様しか知らないこともあるのかと思いまして」
「もう二度と顔を合わせて欲しくないから、伯爵との離婚後、あの女がどうしたのか多少は調べた。あの碌でもない女は、こことはだいぶ離れた土地の成金商人と再婚したらしい。……多分、リュールは知らない」
「そうですか。優しいのですね」
「何が?」
「二度と顔を合わせたくないではなく、顔を合わせて欲しくないと仰いました」
わたくしは彼を見つめ、微笑します。
「別に。いちいちイラつく女だな。何、笑ってんだよ」
「すみません。やはり本質はリュール様と変わりないと思いまして」
「……気分が悪い。帰る」
彼はそう言って赤い顔で立ち上がると、前日と同じように一方的に去っていきました。
◇◇
それから、不思議なことにリュール様とユエル様が代わる代わる現れるようになりました。
ユエル様が関わるなと脅せば、リュール様が謝罪します。
ユエル様と話をするため、彼が現れない時には、わたくしはわざとらしくリュール様に迫ったりもしました。
「本当に貴女は変わっていますね」
リュール様はそう言って笑います。
「迷惑でしょうか」
「まさか。いい意味で、言ったのです。それに、シアラがいてくれると、ユエルの考えが分かって嬉しいです。貴女の叔母様と違って、僕たちはお互いの言動や考えが分かりませんから」
「お手紙を書くというのはどうでしょうか?」
わたくしは提案してみます。
「手紙? ユエルにですか?」
「はい」
「彼は返事を書いてくれるでしょうか?」
リュール様は腕を組み、首を右に傾けます。
「それは分かりませんが、少なくともリュール様のお気持ちを伝えることはできます」
「そうですね。確かに、一方的でもユエルにこれまでの感謝の気持ちを伝えることはできますね」
わたくしは頷きます。
「……馬鹿ですね。こんな対話の方法があるなんて、これまで少しも考えたことがありませんでした。いえ、僕は彼ときちんと向き合うのが怖かったのかもしれません」
「大丈夫です。もう、怖いことなんて何もありませんから」
「今は僕の全てを分かってくれる貴女がいるので、とても心強いです」
リュール様は視線を上げ、一際綺麗な笑顔を見せました。
◇◇
その日、わたくしはリュール様のお邸を訪れました。
「今日は芳しい報告があります」
わたくしは彼を見据え、そう言います。
「……気づかないのか。リュールじゃないんだけど?」
「分かっています。ユエル様でよかったです」
彼はソファーにもたれ、怪訝な表情でわたくしを見つめました。
「リュール様の元義母のジャクリン・ソルディアの現在の夫であるザック・ソルディアについて、お話ししたかったので」
「ザック・ソルディア? あんな女の旦那の名なんて知らない。なんでお前が?」
「調べさせていただきました。そして、体よく裏で悪事を働いていましたので、お父様とお兄様に頼んで商会ごとぶっ潰してやりました。人身売買みたいなことまでしていたようですので、夫婦共々もう光を浴びる生活など望めないでしょう。更に詳しく調べ上げ、余罪まで徹底的に追及するつもりです」
「な、なな、何を勝手なことを。お前、虫も殺さぬような顔をして、とんでもない女だな!!」
ユエル様は言いながら、立ち上がります。
彼がここまで動揺している様を見るのは初めてです。
「ええ、実はとんでもない女なのです。リュール様には嫌われてしまうかもしれません。ですから、このことは二人だけの秘密にしていただけますか?」
わたくしは、人差し指をそっと自分の唇に押し当てます。
ユエル様は口を薄く開けたまま再びソファーに座り、やがて笑い出しました。
「……参った。お前、リュールのことを本当に愛しているんだな」
「勿論です。それと、ユエル様のことも大切に思っております」
「俺?」
わたくしは頷きます。
「馬鹿か……」
彼は照れ隠しのように呟き、視線を下方に向けました。
少しの沈黙が流れ、ユエル様は再び口を開きます。
「丁度いい。潮時だな」
「潮時?」
「あいつから手紙をもらって、俺に対するあいつの気持ちが分かった。それから、お前に対する気持ちも。……もう、俺は必要ない。消えようと思う」
「いいえ、必要ないなんて言わないでください。これからもリュール様と一緒にいてください」
わたくしは立ち上がり、彼の側に寄ります。
「何でそんなことを言う? お前にとって俺は邪魔なだけだろう」
「邪魔じゃありません」
「本当に馬鹿な女だな。お前を信用すると言っている」
わたくしは左右に首を振ります。
「これから、楽しいことがたくさんあります。リュール様とわたくしで、あなたを幸せにしたいのです」
自分勝手な感情だと思いつつ、わたくしは正直に気持ちをぶつけることしかできません。
「お前、随分と必死だな」
「必死です」
「……分かった。もう少し、いてやってもいい」
ユエル様は黙ってわたくしの手を引き、そのままわたくしに口づけました。
それは羽根が当たったかのように軽く、一瞬の出来事でした。
「悪い。……どうかしている」
ユエル様は視線を落とし、呟きます。
「………リュールは怒るかな」
わたくしは、火照った自分の頬に手を当てました。
「多分……怒らないと思います。それに、謝らなくて大丈夫です。嫌ではありませんでしたから。先程、お伝えしましたよね。ユエル様のことも大切に思っています、と」
「浮気者だな」
「ええ。お二人限定の浮気者です」
ユエル様は微かに笑います。
「じゃあ少しだけ、お前とリュールに甘えてみるかな」
「はい!!」
わたくしが勢いよく答えると、彼はまた、リュール様と寸分違わぬ笑顔で笑いました。
ユエル様は、いつかは消えてしまうのかもしれません。
でもそれは、彼を幸せにした、ずっと後のことであってほしい……。
いつまでも三人でいることを、リュール様も望んでいるのです。
わたくしはユエル様の隣に座り、そっと彼に寄り添います。
戸惑いながら、わたくしの肩を抱く彼が、愛おしくて仕方がありません。
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