ルージュは泣いていた、
道に置いてきたハンカチを君に渡した。君は河川敷の草原の上に座って、泣いていた。写真を握って泣いていた。
ハンカチを渡したら、君は強く握りしめて涙を拭った。手渡したハンカチを見つめて、泣き声は段々と大きくなった。
少しだけ卑屈な君は、泣き枯らして、しゃっくりの混じる声で、僕にこれは偽善だと告げた。そうだねと答える。僕が君に微笑むと、君はまた泣いた。
君の服が溜めた線香の匂いは、酷く濃い匂いだった。河川敷の上の方から、君の親族がかけてきて、君の手を握って連れていった。君が握っていたあの写真は、両親の写真であったことを、次の日の夜に、君から聞かされた。
帰り際に渡されたメモの番号に、家に帰ってからかけようとして、思いとどまった。日が明けた頃にかけよう。そう思った。君の声は耳に残って、どうにも眠れなかったのを、今でもまだ覚えている。
翌朝になって、家を出た。昨日の場所にもう一度行ってみる。そうしたらなぜだか君は居て、僕を見るなり大股で歩いてくる。
「どうしてかけてくれなかったの」
その一言は、泣き声よりも大きかった気がする。目尻が赤く泣き腫れたのが、前髪の隙間から見える。僕の視線は泳いでいたけど、君はまっすぐと僕を見ていた。
僕の手首を掴んで、パンと、君がハンカチを叩きつける。洗って返してくれたようだった。
君は借りを作りたくないなんて言っていたけど、捨てるはずだったボロボロのハンカチは、丁寧に縫い直されて帰ってきた。
後になって、君の誕生日に、思い出の品としてあげたっけ。
それから度々会うようになった。水族館に誘ったのは君からだった。魚が食べたくなったからとか言っていた。帰りは電車なのに、イルカショーを1番前で見ると駄々をこねる。「ふたりなら何とかなるよ」と聞かなくて、ふたりでびしょびしょになった。太陽が強い夏だったから、外で風を浴びて、乾くまでアイスを食べたよね。そのアイスだけは珍しく奢ってくれた。
8回目のデートでようやく僕から告白した。君は黙って俯いていたけど、「いいよ」という声は、大きく聞こえた。
君は相変わらず口が悪くて、僕によく当たる。それも愛情の裏返しであるのを僕はよく知ってる。強い言葉を使ったあとは必ず、
「ごめんね、嫌わないでね」
と謝る。いいよと頭を撫でると、笑って抱きつく。恥ずかしくなって、僕を突き飛ばすまでもセットだった。
3年前に同棲をはじめた。お互いの家から、いらない家具を持ってきて、並べた。部屋のコーディネートは、全部君に任せた。何故か全面真っ赤にしたがったから、色だけは僕が口を出した。
料理は僕の方が得意だったから、初めは僕が作ることが多かったけど、君は負けず嫌いだから、すごく練習して、今は中華なら僕より美味しい。
茶碗はふたりで洗った。君は洗うのが苦手で、初日は何枚か割っていた。今でもたまに割る。けれど君のお気に入りの青いコップだけは、絶対に割らなかった。
僕らが出会った日の記念日に、君に赤い口紅をプレゼントした。夜になって、奮発して高いレストランに行った時、早速つけて見せてくれた。黒い服に身を包んだ君の赤いリップは、僕の目を引いて、目を閉じても、まぶたの裏に強く残るほどに鮮やかだった。
君の両親のお墓に初めて挨拶に行った時は、君がお墓の裏に回って、声真似をして答えていて、すごく笑ったのを覚えている。まだ生きている頃の動画を見せてもらった時の君のお母さんの声は、君の声にそっくりだったよ。
最近、君があまり食べなくなった。大好きなプリンを買っても、何日も手をつけずに置いてある。よく食べ比べをする君が、全くものを口にしなくなるのは、初めてだった。
胃薬を買って帰る。家に着くと君は珍しく、苦手な茶碗洗いを、ひとりでやっていた。手伝おうかと声をかけても黙っている。青いコップを使わなくなったのは、その日からだった。
ゴミ袋を買っていないとか、洗剤を買い足していないとか、電気の消し忘れとか、些細なことでも、君は強く起こるようになった。お詫びにと遊園地に誘ったが、断られた。言葉を続けようとすると、君は咳き込んで逃げた。
次の日は打って変わって、優しかった。イルカショーを見に行った。よく食べこそしなかったものの、よく笑っていた。イルカショーを最前列で見ようとしなかったことには驚いたけど、そんな日もたまにはあるんだと思った。
ある日、帰りが遅くなって、君に怒られた。仕事が遅れていたと話したけど、君の機嫌が特に悪い日で、許しては貰えなかった。
翌日になっても機嫌は直らなくて、いつもみたくご馳走を振舞っても、眉間の皺は消えなかった。そんな事は初めてだった。
日に日に君は僕とご飯も食べてくれなくなって、部屋にこもるようになった。僕の稼ぎには頼らないと、自分で働き先を見つけて、パートに出た。僕も残業で帰りが遅くなって、君に構ってあげられなくなった。少しだけ、めんどくさかったのかもしれない。合わない時間は、ゆっくりと増えた。
君から別れようと言われた。理由を聞いてみても、嫌いになったとしか返されず、具体的には話して貰えなかった。きっとあの日の些細な喧嘩が尾を引いているのだと思った。思いつく限りのことを謝っても、君は表情を変えなかった。明日の仕事のために、早めに話を切り上げて、僕らは別々の部屋で眠った。
君は消えた。自分の荷物をほぼ全て持って、居なくなった。君の部屋は空っぽになっていて、大きな家電や家具だけを残して、部屋を出ていってしまった。
君の部屋の机の上には、紙と、お金が置いてあった。紙には、
「借りは作らない」
と書いてあった。今まで僕が君に使った分のお金らしい。喉が冷えて、目頭が熱くなった。
仕事を休んで、まる1日君を探してみたけれど、君はどこにも見当たらなかった。よく遊んだ場所にも、君が好きな公園にも、初めて出会った、河川敷にもいなかった。
1週間経って、僕は君を諦めた。
部屋にゴミが溜まってる。こうやって君を思い出しても、大きな針を突き刺したような痛みが引くことはなかった。食器が溜まったシンクの中からコップを取り出して、スポンジで洗う。水で流して、そのまま水を飲んだ。もう一杯。
ようやく今になって、部屋を片付ける。カップラーメンと、お酒の缶が、机上に散乱している。かき集めて、ゴミ箱に分けた。
君の部屋の、机の中。いつかにプレゼントした、赤い口紅が残っていた。僕があげた、ルージュの口紅。君はこれだけを置いていった。
拾い上げる。視界が滲む。ポタリと雫が落ちて、口紅を濡らした。涙が口紅を伝って、また、ぽたりと床に落ちる。
口紅も、泣いているようだった。
あの日、特大のプリンでも買ってくればよかった。イルカショーも、最前列で見ていい。君の姿を何度も思い浮かべて、考え込んでも、君は戻ってこなかった。初めて会った君みたく、僕は声を上げて泣いた。いくら泣いても、届かなかった。
部屋は淡く湿気った。
君の部屋を出る。目尻が痛い。燃えるゴミの袋を持ってきて、部屋のゴミ箱の中身を、袋に移す。紙が擦れる音がして、何となく、燃えるゴミの中から、1枚引っ張った。
―― 1日2回 朝食後・夕食後に服用
薬の袋だった。薬の名前に見覚えがある。
「TS-1……」
前に、テレビか何かで聞いた名前だった。冷や汗が流れる。袋をひっくり返し、中身を床にぶちまけた。見つからない。君の部屋のゴミ箱や、トイレのゴミ箱まで漁った。他の薬はないかと探して、手に紙が触れて、拾い上げた。
―― 28日間連続服用し、14日間休止する(これを1サイクルとする)
頭が痛くなった。心臓が耳元でなっているのがわかる。袋に書いてある病院に電話をかけたが、個人情報は渡せないと言われた。僕は、君の親族のところまで、速度を上げて車を飛ばした。家のチャイムを鳴らす。いない。電話をかける。出た。
「彼女は、今! どこにいるんですか!」
暫く間が空く。
「お願いです、今、彼女はどこにいるのか、教えてください」
もう一度、今度はしっかりと告げる。電話越しに、息を飲む音が聞こえた。
しばらくして、低い声で病院の名前を告げられた。息を吐く音がして、電話越しに呼ばれる。
「彼女の迷いは、どうか理解してくれ……」
僕は車に戻って、アクセルを強く踏みつけた。
病院について、院内を駆け回る。ぶつかったって、知ったこっちゃなかった。6階のがんセンターの、奥から2番目の部屋の扉を開く。点滴に繋がれて、君はいた。
「見つけた」
君は驚いた顔をして、僕を見る。すぐに顔を背けた。
「なんで、わかったの」
「薬の袋が出てきたから」
「なんで、来たの」
もちろん、と言ったところで、言葉を遮られる。
「私は! ……私は、こうなるのが嫌だったのよ」
「……借りをつくるから?」
「……そう」
君は未だに目を合わせない。僕だけが、まっすぐ君を見ていた。
「いいんだよ、借りなんかいくら作ったって」
「でも、」
「僕は! ……僕は君がいなくなったら、ご飯も作れないし、部屋も片付けられなくなる」
君の肩が震える。君が振り返って目が合う。目に涙をくべていた。
「私も、いたかったよ。一緒に。でも、どうしようもないのよ」
声は揺れる。
「あなたに、悲しんで欲しくないのよ。こんな姿も、見られたくないの……」
布団に涙が落ちた。視線はあったまま、時間だけが過ぎる。
「……大丈夫だよ」
「……え?」
「……君が、どんなものを抱えていたってさ。きっと、ふたりなら何とかなるよ」
君は気付いて、ふふっと笑った。
「……こんな時ばっかり」
「そうかもね。でも、まだ一緒にいたい」
「……うん」
君が嗚咽を吐き出して、徐々に泣き声に変わる。
「一緒に頑張ろ」
泣き声は段々と大きくなった。ふたりして抱き合った。あの日とは違って、君の大きくなる泣き声は、近かった。泣き声は、しばらく続いた。
君が落ち着いてきた頃に、ふと思い出す。
「……これ、持ってきちゃった」
君に赤い口紅を渡す。
君はじっと見つめたあと、何も言わず僕から取り上げて、口に塗った。赤い唇が、窓の光を弾いて光る。泣きながら、君は大きく笑って、言う。
「……すきだよ」
とびきりの笑みを浮かべた頬から、涙が落ちる。
ルージュは、泣いていた。




